書籍・雑誌

2017年6月14日 (水)

新しい日本を創ろうよ③~江戸時代から学ぶ~

江戸時代の暮らしというとどのような生活をイメージするのでしょう。
             
江戸幕府、武家社会、参勤交代、士農工商、鎖国、米騒動、一揆や打ちこわし、あるいは歌舞伎、浮世絵、元禄文化などを思い浮かべ、概して江戸時代とは、武家を中心とした社会体制の下、400年間続いた平和な時代でありつつも、一部の人々を除いて、多くの人々はどちらかと言うと不自由であり、質素で貧しい暮らしを強いられてきたと思われる方が多いのではないでしょうか?
             
もちろんそれも真実の一面なのでしょう。けれどもそれだけではないようです。例えば渡辺京二さんの「
逝きし日の面影」を読むとそれとは別のイメージを思い浮かべずにはいられません。この本は幕末の日本に滞在した外国人の感想記を素材として、それらを集めて1冊の本としているのですが、そこからイメージできるのは抑圧された世界ではなく、まさにタイトルにある「失われた日本の面影」であり別世界なのです。

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庶民は粗末な服装を着ています。家も質素なつくりです。中にはほとんどモノがありません。けれどもわずかにある家具や食器類は外国人からすると信じられないほどしっかりしたものなのです。また大人も子供も好奇心が大変強く、西洋人の後ろをみんなこぞってついてきます。そして何かあるとすぐに笑い大変人懐っこくもあり、かつ礼儀正しさも持ち合わせているのです。
             
一例をあげてみると、人々の陽気さについて、
「この民族は笑い上戸で心の底まで陽気である。」(1867年<慶応3>ボーヴォワル)


「日本人ほど愉快になり易い人種は殆どあるまい。良いにせよ悪いにせよ、どんな冗談でも笑いこける。そして子供のように、笑い始めたとなると、理由もなく笑い続けるのである。」(1859年(安政6)頃リンダウ)
             
簡素さについて、
「日本人が他の東洋諸民族と異なる特性の一つは、奢侈贅沢に執着心を持たないことであって、非常に高貴な人々の館ですら、簡素、単純きわまるものである。すなわち、大広間にも備え付けの椅子、机、書斎などの備品がひとつもない。」(1859年頃カッティンディーケ)


「日本で貧者というと、ずい分貧しい方なのだが、どの文明人を見回しても、これほどわずかな収入で、かなりの生活的安楽を手にする国民はない。」(1884年(明治17)頃イライザ・シッドモア)
             
礼節について、
「われわれの部屋には錠もなく鍵もなく、解放されていて、宿所の近辺に群がっている付き添いの人たちは誰でも侵入できる。またわれわれは誰でも欲しくなるようなイギリスの珍奇な品をいくつも並べて置く。それでもいまだかつて、まったくとるに足らぬような品物さえ、何がなくなったとこぼしたためしがない。」(1858年頃オリファント)
             
もちろん日本の風景の美しさにも西洋人は驚かずにはいられません。美しく整備された郊外の田園風景、港の風景、どれもが西洋人にとっては母国以上に美しい景観であったようです。その風景と日本人の人柄から彼らはこの地をまるでパラダイスであるかのように思えたそうです。
             
「5マイルばかり散歩をした。ここの田園は大変美しい―いくつかの険しい火山堆があるが、できる限りの場所が全部段々畑になっていて、肥沃地と同様に開墾されている。これらの段畑中の或るものをつくるために、除岩作業に用いられた労働はけだし驚くべきものがある。」(1856年(安政3)ハリス)


「市街から田園へと気づかぬうちに映ってゆき、道路は次第に花咲く藤のしたかげの径となった。ついさっき天守閣の濠をみたしていた水は、曲がりくねった小川となり、つつじのトンネルの下から流れ出ていた。緑の楽園のただ中の、この蛇行する川ほど愛するべきものはない。ああ、日本のなんと美しくのどかなことか。」(ボーヴォワル)
             
その他いくつか抜き出してみると、
「日本の幕府は専横的封建主義の最たるものと呼ぶことができる。しかし同時に、かつて他のどんな国民も日本人ほど、封建的専横的な政府の下で幸福に生活し繁栄した所はないだろう。」(パンペリー)


「この独特で、比類するものもなく、スポイルされず、驚異的で魅惑的で、気立てのよい日本を描写しようとつとめながら、私はどんなにそれが描写しがたいか実感している。彼らのまっただなかでふた月暮らしてみて、私は日本に着いて二週間後に大胆にも述べたことを繰り返すほかない。すなわち、よき立ち振る舞いを愛するものにとって、この“日出ずる国”ほど、やすらぎに満ち、命をよみがえらせてくれ、古風な優雅があふれ、和やかで美しい礼儀が守られている国は、どこにも他にはありはしないのだということを。」(アーノルド)


「この風景の全体を見ても、細部を見ても、すべてが精神を鎮静させ、やさしい夢想で精神を和らげ、うっとりした休息の楽しみ以外の印象を与えない」(アンベール)

                      
さて彼の本を離れて、また別の面を見てみると、日本人は陽気さ礼節さだけでなく、外国人からすると相当小柄であった日本人が持つ力は相当のものであったようです。外国人が見たものではありませんが、(ネットでも話題になっていますが、)山形県の酒田市には米俵5俵を担ぎ上げる女性の写真と人形が展示されているそうです。その写真は昭和14年頃の写真だそうですが。それでは一体江戸時代農村の女性はどれほどの力があったのだろうかと思うのです。

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その証言等は(まだ)見つかってはいないようですが、もうひとつ
外国人によって記録されていることがあります。それは明治時代ドイツ人医師のベルクに記録されています。彼は東京から日光へ観光に行くことがあったのですが、1度目は馬で行き、途中馬を6度乗り換え14時間かかったそうです。2回目日光に行った際には、今度は人力車に乗って行ったのですが、その車夫は1人で14時間半で行ってしまったとのことです。当時の日本人は馬より凄い体力を持っていたのです。東京(駅)から日光(東照宮)までは直線距離にして約120キロあります。時速8キロ以上のスピードで(人を乗せた)人力車を走り続けたことになります。
             
             
このように江戸時代の日本は、(外国人から見ると)人々は欲望や執着とは程遠く、簡素な暮らしの中で、常に陽気で笑いが絶えない上に力持ち! 更には(西洋諸国よりも)美しく心和む風景を持つ国、まさに極東のパラダイスであったのです。
             
「古い日本は妖精の棲む小さくてかわいらしい不思議の国であった」(チェンバレン)


「この町でもっとも印象的なのは(そしてそれはわれわれ全員による日本での一般的観察であった)男も女も子どもも、みんな幸せそうで満足そうに見えるということだった。」(オズボーン)

            
それから150年。
江戸時代に比べると、日本人の平均寿命は驚異的に延び、誰もが長生きするようになりました。東京大阪間も3時間ほどで行くこともできます。世界中のものが手に入り、世界中の料理が食べられます。便利なグッズも100円で買えます。スイッチひとつでいつでもお笑い番組を見ることができます。遠くの友人といつでも話しをすることもできます。
             
信じられないほどの経済性と科学の発展をしてきた今の日本。男も女も子どももみんな幸せそうで、満足そうに見える国なのでしょうか?
            

日本の自殺率は世界各国でワースト6位(女性は3位)だそうです。アジアではワースト2位だそうです。国内で見ると15才~39才の5階級で死因の1位は自殺です。(2017年版自殺対策白書より)
             

日本の子供の貧困率は先進国(と呼ばれる国の中)では最悪レベルだそうです。6人に1人が貧困にあるとされます。(2012年子供の相対的貧困率16.3% 27年度版子ども・若者白書)
             
             
何だか夢も希望も持てなくなってしまった国のように思えます。本当に「逝きし世」「逝きし国」となってしまったのでしょうか。

             
それでも日本人には太古からの遺伝子、江戸時代の遺伝子が今も引き継がれていると信じたいです。だからもう一度「逝きし世の面影から」いくつか抜き出します。
             
「いつまでも悲しんでいられないのは日本人のきわだった特質の一つです。生きていることを喜びあうという風潮が強いせいでしょう。誰かの言葉に『自然がいつも明るく美しいところでは、住民はその風景に心がなごみ、明るく楽しくなる。』というのがありましたね。この国の人たちはまさにそれで、日本人はいつのまにかそういう自然に感化され、いつも陽気で見た目によいものを求めながら自分を深めていくのです。」(マーガレット・バラ)
             
「日本人とは驚嘆すべき国民である!今日午後、火災があってから三十六時間たつかたたぬかに、はや現場では、せいぜい板小屋と称すべき程度のものではあるが、千戸以上の家屋が、まるで地から生えたように立ち並んでいる。…女や子どもたちが三々五々小さい火を囲んですわり、タバコをふかしたりしゃべったりしている。かれらの顔には悲しみ跡形もない。まるで何事もなかったように、冗談をいったり笑ったりしている幾多の人々をみた。かき口説く女、寝床を欲しがる子供、はっきりと災難にうちひしがれている男などはどこにも見当たらない。」(ベルツ)
             

もしかすると現在はこの150年の膿だしなのかもしれません。そして、膿み出しのあとは再生です!
             
             

             
らいふあーと~僕らは地球のお世話係~
             

             
             

2017年4月26日 (水)

お金のアファメーション

いつの頃からかお金に対してネガティブなイメージを持っている。

貧困や格差の拡大、政治家のばらまき、そしてパワーエリートによるマッチ戦争の引き起こしとマッチポンプの強奪などを知るたびにますます近寄りたくないものとなっていた。


一時期自分なりにお金とは何かということで、人間を豊かにもするものとして

・人間間のコミュニケーションのアップ

・モノの循環の向上

を掲げ、お金に近づこうとしたが、それでもやはり自分の中で分離したものであった。


そのお陰で(?)今ではすっかりお金と縁がなくなり、アララ状態…。

(それでもちゃんと生きているのが不思議だし、生きていけるのだ!)


多くの人が現代社会を憂い、都会から離れ、地方の里山エリアに移り住み、自給自足的な生活を行いつつも、今の社会においてお金はまだまだ必要なのが現状である。

また多くの人がお金のその正体を理解し始め、更にはエリート層の乱用から、その価値が揺らぎはじめてはいるが、それでもまだしばらくお金はモノやサービスの売買に必要であり続けるだろう。

それに今もしそれが突然なくなったら、社会は更なる混乱となり、新たなる争いが生じることにもなりかねない。

お金とどう付き合っていくかが課題だ。


さて、ここでもう一度初心に戻って、お金について考えてみると、お金があればものは買える。

けれども(人の)心を買うことはできない。

一方でお金で人の心までもは変えないけれど、お金でモノやサービスを買うことによって、(一時的にしろ)心が満たされたり、豊かな気分を味わえるのも事実である。

そして今の社会、現代人の今の概念ではお金は必要である。

いくら田舎に引っ越したといえ、地方都市ではやはり生活の上でお金は欠かせないし、山村エリアで自給自足に近づけてもある程度のお金は必要である。

その中で、お金に対してどのような感覚、考えを持つか?

そんな時出会ったのが1冊の本だった。

はせくらみゆきさんの「リッチマネーの秘密」(徳間書店)である。

(ひとこと断っておくと、この本は本屋での立ち読みで、買っておりません…。申し訳ありません。)

その本をパラパラめくっていると、ひとつのフレーズが目に飛び込んできた。

それは「お金は旅する神様」という言葉。


元バックッパッカーで、旅好きの自分、

山川草木悉有仏性、八百万神を信ずる自分

そして、お金は人間を豊かにもするものを理論的に分かっている自分。

お金はさまざまなな人々の間を行き来し(旅し)、(人々を豊かにもする)神様である!

これなら受け入れられる!


そして更に「リッチマネーの秘密」に書かれているお金の考え方を自分なりに変えて、

お金

お金の「お」は、お陰様の「お」

お金の「か」は、感謝の「か」

お金の「ね」は、ネイチャー(自然)の「ね」

(本ではお金の「か」は感謝の「か」、マネーの「ま」はまごころの「ま」となっている。)

お陰様の感謝をネイチャーに! お金は旅する神様。神様今日もありがとう!!

ということで自分なりのお金のアファメーションができた!


そして更にこの本を見た後、すぐそばにあった小林正観さんの「ただしい人から、たのしい人へ そしてありがとうの人になる」という本を手に取った。

同様にパラパラめくり、目に止まったページには、

「人間は学問(教育)を通じて学ぶのではなく、楽しいから学ぶ。」ということが書かれていた。

ネガティブからポジティブへと変わりゆく時代

お金に対する考えもポジティブにしていく必要がある。

ならば「お金は旅する神様」とは、まさにピッタリだと思った。

いいことに使って循環させれば、旅する神様もきっと喜んでくれるに違いない!

お金をネガティブにとらえている人達、自分なりにポジティブに変えていきましょう。




らいふあーと~僕らは地球のお世話係~



2016年4月13日 (水)

嫉妬にワクワク!

友人の成功を嫉妬してしまう。

ということってありますよね。本当は祝福してあげればいいのに、心の中で嫉妬を感じてしまう。うわべだけは「おめでとう」なんて言っているのに、心の中は実は正反対である。そしてそんな自分を情けなく思ってしまう。

そんな経験は誰にでも一度はあるのではないでしょうか?


でももし嫉妬することは悪いことじゃない!いいことなんだ!となるとどうでしょうか?

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実は私もこれまで、私は嫉妬深い人間であると自覚しており、男のくせに嫉妬深いとは情けない、直したいのに直せない、それがまた情けない、と思っていたのですが、最近このことに対する考え方が変わったのです。

嫉妬の感情が湧き上がる時、それはチャンスなのです!

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臆病な僕でも勇者になれた七つの教え」(旺季忘ずか著 サンマーク出版)という本があります。この本最近人気だそうです。

その内容をひと言でいうと、臆病でコンプレックスを抱えた少年の冒険と成長物語なのですが、まるで「ドラゴンボール」と「グーニーズ」と「七つの習慣」を足して3で割り、更にそこにスピリチャル要素が沢山盛り込れているのです。もっと簡単に言うと、スピリチャル要素を身につけて、それを勇気に変えていく物語と言ってもいいかもしれません。その少年の冒険の一場面に「嫉妬」について書かれているのです。


最初に書きましたが嫉妬とは一般に、

自分よりすぐれている人をうらやみねたむこと。あるいは、自分の愛する者の愛情が、他の人に向けられるのを恨み憎むこと。やきもち。という意味であり、どちらかと言うと悪い意味で使われがちです。


けれどもこの本の中で主人公の少年を導く老師は、

嫉妬とは、


その相手が受け取っているものを自分も手に入れられる合図であり、

嫉妬が強烈であればあるほど、次は同じことが自分に起こるのを許すとき。


と説いているのです。


確かに、自分と随分かけ離れている人に対しては、その人がどれだけの偉業を成し遂げようと、賞賛はすれども嫉妬することはありません。

例えば、テニスの錦織選手が世界大会で優勝すると、賞賛し、また我がことのように喜ぶことはあっても、嫉妬することはありません。もしあなたがテニスプレーヤーで日本で3番目ぐらいのポジションにいたとすると、彼の優勝に嫉妬するかもしれませんが、そんなことはない(と思う)ので素直に彼の偉業を驚くと共に喜ぶのみです。

青色LEDを製品化した中村修二さんのノーベル賞の受賞もそうです。凄いなと思いますが、嫉妬することはありません。

このように相手と自分がかけ離れている場合は、嫉妬することはなく、逆に同じところあたりにいる場合に嫉妬が起こるのです。例えばもしあなたが入社5年目であるとします。同期が大きなプロジェクトに参加することになったであるとか、大きな契約を取って来たとして、一方で自分はまだそれほどの契約を取れたことがないとなると、そこに嫉妬が生じるのです。

ちなみに私が最近嫉妬したとすれば、福山雅治の人気と結婚です。(笑)



けれどもこの新たな定義「嫉妬とは、相手が受け取ったものを、自分も受け取ることができる合図」ということに基づけば、他者を見て、「いいな~」とか、「うらやましいな~」と思うと同時に、ちょっと心の奥底に「クソッ!」と嫉妬を感じたときは、

次は自分がそうなれる! あと一歩のところにいる!

というサインとなるのです。

そう考えるとそれだけでワクワクするし、頑張ろうと思えてしまいませんか。これまでの「ジェラス!」、「チェッ!」という後ろめたい感情が、良い感情に変ってしまいます。こんないいことはありません!


ちなみに老師は、


自分にも起こり得ることを信じない者が、嫉妬に駆られて醜い行為に走る。

嫉妬という感情が悪いのではない。

嫉妬に振り回されて起こす行動が醜い。


と説きます。

これもまたその通りです。そこにこれまでの私の醜さがあったのです。これからは嫉妬を感じた時は、喜びの感情とし、相手を称賛したいと思うのです。何といってもそれはあと一歩で自分の手の届く範囲にあるということなのですから。


けれどもその嫉妬の感情をどうしても良い方向にとらえられない時、老師は次のように説きます。


その嫌な感情を色と形で見る。

ずっしりと硬くて重いものをイメージして作る。

そしてそれを両手で持って、両手で挟んで、前にスコンとはずす。

そして深呼吸をする。

そうしたらその嫌な感情を手放すことができると。



これもまたなるほどと思います。それもできない場合は、

感情を嫌っている時

その感情を感じる自分をさばいている時

その感情が現実の出来事のせいだと感じている時

この3つのどれかということです。

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この世界はすべて周波数でできています。「感情」。それもひとつの周波数です。元をただせばよいも悪いもない中立の存在です。ただそれを自分がどう捉えるか次第です。それならばよい方向に捉えた方がいいと思いませんか?


嫉妬とは、次に自分がそれを手にすることのできるワクワクサイン!


そう定義してしまいましょう。何といっても意識が現実を創造するのですから、そうするに越したことはありません。








らいふあーと~僕らは地球のお世話係~

2015年9月16日 (水)

メシア論

 先日法政大学大学院政策創造研究科教授であられる坂本光司先生にお会いした。坂本先生は現在累計65万部を突破しベストセラーとなっている「日本でいちばん大切にしたい会社」シリーズの著者である。

 坂本先生はこれまでに全国の中小企業7000ヶ所を訪問し、その結果いい会社とは人を大切にし、幸せにする会社でありとする。そして企業経営とは、1.社員とその家族、2.社外社員とその家族、3.現在顧客と未来顧客、4.地域社会・地域住民、5.株主・出資者の5人に対する使命と責任を果たすための活動と定義されており、その使命と責任とは5人の「幸福の実現」「幸福の追求」とする。中でも経営者がとりわけその幸福実現を図らなければならないのは、1から4の人びとであり、またこれからは高齢者、障害者、女性の活躍こそが必要とも説かれている。

 坂本先生は現在の私の仕事のメンターの1人である。

 そんな坂本先生に以前から一度お会いしたいとずっと思っていたのだが、1ヶ月ほど前仕事先で講演の案内を頂いたのだが、それがまさに坂本先生の講演であり、まるで引き寄せられたかのような展開であった。

 今回の先生の講演の内容は女性をテーマにしたものであったのだが、講演の最初先生はここ数日のスケジュールを話され、一昨日は北海道、昨日は京都、そして今日は愛媛、明日は…、と連日日本全国を飛び回っていることを話されていた。

 その話を聞いて、全国各地から坂本先生に来てほしいという要望が殺到していること、そしてできる限りその要望に応えて企業の経営の在り方を変えていくという坂本先生の使命感と責任感が強く感じられた。しかし同時にそれだけのフル回転による先生の疲れも感じられた。

 そこから自分の想像の世界が始まった。

 それは坂本先生に来てほしいという数多くの依頼があるということは、企業や組織で働く人々の多くの人々が現在悲鳴を上げており、助けを求めているのではないかということである。

 現在組織に属し働いている人々のおよそ半数がストレスを抱えている状態だ。そして中にはそのストレスがどんどん大きくなり、孤立してしまい、そこでSOSを発しても届かず、あるいは助けが現れなかったために、鬱状態や統合失調状態となり、遂には精神障害として手帳を持つまでになっている人が大勢いる。

 現代社会はグローバリゼーションの真っ只中にある。そのグローバル世界は今や秒速で進むようになり、人間や社会のスピードをはるかに超えるようになっている。そのような状況の中で多くの企業は日夜激しい競争をしている。そしてほとんどの企業がその中で自社の利益と成長を最大限にすることを目的としている。このような状態が続いている限りストレスを抱え遂には精神疾患となる人々が増えている事態は改善されない。(それを変えてくれる理論を持っているのが坂本先生ではないかと思う。)

 更に現代社会は西洋文明をスタンダードとしている。この西洋文明とはひとことで言えば搾取の文化である。それは自分と近親者以外の人、あるいは自然やモノを犠牲にしても自分たちの利益を追求するという欲望とエゴを満たすためのものである。

 それが世界中に広がり自然を破壊し、地球を破壊している。このことは近年の異常気候、そしてこれまでにない災害の度々の発生により誰の目にも明らかなってきた。それが故に地球環境を守らなければならないことが盛んに叫ばれている。けれどもほとんどの企業は環境を守ろうとする素振りはするものの、実際のところはなおも破壊に加担しているのが現状である。

 そしてその活動は自然や地球の破壊は許容レベルを超えただけでなく、人間自身をも破壊するようになっている。人々は自然災害に巻き込まれるだけでなく、精神を患い、鬱、統合失調、その他さまざまな病気となり、時に自ら命を落とし、時に死に追いやられている。あるいは廃人のようになっている。

 ではその先は何があるか?それは人間の自滅である。

 この自滅こそが、終末論の正体であり、人間の遺伝子に残された記憶ではないだろうか。そしてこの自滅から救ってくれる希望をもたらす人がメシアと呼ばれるのではないだろうか。

 そんな記憶が人々の潜在意識の奥深くにあり、この終末と自滅を人々は恐れている。それを防ぐために人々はメシアを求め、その影を坂本先生に見いだし、先生に来て下さいと要請する。それにまた坂本先生の潜在意識が応えているのかもしれない。

 と、そんな想像をしてみたのだが、ちょっと大げさだったかな~?




らいふあーと~僕らは地球のお世話係~


2015年2月11日 (水)

未知の贈りもの

今は絶版となってしまった(?)ライアル・ワトソン博士の著作「未知の贈りもの」(ちくま文庫)

また読みたいな~と思ってたら、先日本棚からブックカバーをされた状態で出てきた。

偶然orシンクロニシティ?

すっかり古本屋に出してしまったものと思っていたのに!

(この本の他に博士の本が2冊出てきた!)


ワトソン博士は、本業は生物学者ながら、そこにとどまることなく幅広い分野の知識を持っていた方。(2008年逝去)

そして科学とスピリチャルな世界を自由に行ったり来たりできた人。

もう15年近く前になるが彼の著作を一時期読み漁っていたことがある。

その中でもこの「未知の贈りもの」は一番のお気に入り。

インドネシアにある踊りの島「ヌス・タリアン」での体験談。

ヌス・タリアンは地図にも載っていない幻の島…。

その島に住む少女ティアの不思議な(?)能力について書かれている。

けれどもその能力とは本来人間が持っていたであろう能力(ちから)であったり、やさしさであったり…。

今ではほとんどの大人が失ってしまったもの…。

小さな子どもにはまだ残っているかな。

さてみなさん、音には色があるのを知っていますか?

「そんなもんあるか~!」と思った人。ヤバイかも。子ども心をすっかり失ってます。

「あるかも!」と思った人。まだ子ども心が残ってます。思い出しましょう。

「その通り!」と思った人~今も子ども心をちゃんと持ってます。


それはさておき、かつてこの本に憧れて旅に出たと言っても過言ではない。

もう15年以上前になるが、この本に出てくるグリーンフラッシュを追い求めて、太陽が沈むころのインド洋をいつも見つめていた。

(グリーンフラッシュとは太陽が海に沈む瞬間に緑色に光る現象)

そしてこの本の主人公ティアの心(能力)を自分も取り戻したいと思い、アジアの農村地帯をうろついた。

(ここには書かないけれど、ある時クジラが浜に打ち上げられた時のティアとクジラのシーンが忘れない…。)


文庫本のまえがきでワトソン博士が、「地球的慈悲に向かって」と題してインデアンのパパゴ族について書いている。

その文章も大好きで、何度も何度も読み返したのを覚えている。

地球的慈悲に向かってはコチラ


果たして現在の自分はどのくらいパパゴ族の男たちに近づけただろう?

まだまだ彼らから見れば、あわただしく、ぎこちなく、神経質な人間だろう。

それでもかつて若き頃に読んだ頃よりかは成長したかなとも思う。

もう一度この本を読み返し、地球のお世話係にふさわしい人間を目指してみたいと思う。



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2014年9月 3日 (水)

愛を持って行動すること~メドウス博士に学ぶ③

ドネラ・H・メドウス博士から学ぶ人間の生き方シリーズ第3弾です。前回は博士の著書「地球の法則と選ぶべき未来」(ランダムハウス講談社)のエピローグに書かれてある持続可能な世界をつくるために「真の鍵を握っている2つのもの」のうちのひとつ「真実を語ること」をお伝えしましたが、今回は残りのひとつについて書きます。


持続可能な世界をつくる真の鍵を握る最後のひとつは、「愛を持って行動すること」なのです。


「愛とは、この生身の自分以外の人やモノと自分を同一視できる能力に他ならないのです。愛とは境界を広げることであり、自分以外の人や家族、土地、国、地球全体は自分と密接に結びついており、自分の幸せは他者の幸せと一体であって、同じものなのだと気づくことなのです。」
 

この世のものを追求していく中で、どの専門分野においても、行き着く先は「愛」であるように思います。DNAの世界、宇宙の世界、建築の世界、商売の世界、農業の世界、宗教の世界などすべての分野で突き詰めた先に行き当たるのは、愛ではないでしょうか?


メドウス博士は「成長の限界」の主な著作者の1人であるだけに、科学者であり、論理的に地球の状況を考えられる人です。その論理的に考え事実を重んじる科学者が「愛」を訴え、「愛」の必要性を説いているのです。そしてその愛とは、自分以外の人やモノと自分を同一視できる能力、つまりすべてはひとつ、一体化しているということです。それぞれの専門として分離した世界ではなく、一つに統合された全体の世界です。


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しかしながら現在の私たちがいる時代は、ある意味「競争」が善しとされ、競争することが社会を成長発展させるものとして認知されています。世界中が成功と富の獲得を目指して競争にしのぎを削っています。けれどもそれが現在行き詰りつつあるのも事実です。世界経済は二進も三進もいかない状況となっています。その状況を打破するためにもこれからは「競争」から「愛(慈しみの心)」へと変えていく必要があるのではないでしょうか。そこで博士は次のように言います。


「個人主義、競争、冷笑主義を志向するようなルールや目標が設定され、情報が流れている仕組みの中で、善を実践するのは至難の業です。しかし不可能ではありません。私たちは皆、とぎれることなく変化する世界に直面しているのですから、自分自身に対してもほかの人に対しても、寛容になれるはずです。変化に抵抗しようとする気持にも共感できるでしょう。持続可能でないやり方にしがみつこうとする気持も、私たちの誰もが多少はもっているでしょう。ですから、持続可能性に向かうこの挑戦においては、誰もが仲間になり得るのです。誰もが必要な存在なのです。周囲の人たちが冷笑する声が聞こえたら、そういう態度しかとれない人たちのことを気の毒に思えばいいのです。でも、自分でそういう態度をとるのはやめましょう。」


私たちは持続可能な生き方が必要であることを認識しています。けれどもある意味それは自分の都合のよいように解釈しているのです。突き詰めれば博士から最初に学んだ「矛盾があっても、地球に少しでも負担をかけずに暮らす」と言うことも私たちのご都合主義かもしれません。だからこそメドウス博士は誰もが仲間になり得るというのです。そのことを知ることで私たちは寛容となり、相手を受け入れることができるようになるのでしょう。

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「私たちが自分や他人を思いやりの目で見なければ、持続可能な世界を実現しようとするこの冒険を無事に終わりにすることは決してできないでしょう。その思いやりは、ほら、ここ、私たちのすべての中で、出番を待っています。どんな資源よりも素晴しい、無尽蔵の資源なのです。」


持続可能な世界を実現することは冒険なのです。この冒険には知性も、良識も、行動も必要でしょう。けれども何より必要なものは心の中にある「愛」なのです。そしてその「愛」は尽きることない資源なのです。さあぐずぐずしている間はもうありません。勇気を持って一歩を踏み出しましょう!真実を語りましょう。寛容の心、すなわち思いやりの心を身につけ、この冒険のゴールを目指しましょう。矛盾があっても目的地を見失わず進んで行きましょう。


持続可能な世界への変化を感じた時には、きっと渡したの心が愛に満たされていることに気付くこととなるでしょう!


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(平成29年8月一部修正)





らいふあーと~僕らは地球のお世話係~

2014年8月20日 (水)

矛盾はあっても、地球に少しでも負担をかけずに暮らす(メドウス博士に学ぶ①)

ドネラ・H・メドウスと言う人がいます(正確にはいました。2002年逝去)。メドウス博士は1972年にローマクラブにより出版された「成長の限界」の主たる著者です。そのレポートの内容は、人類の増加や環境汚染などの現在の傾向が続けば、資源の枯渇や環の悪化によって、100年以内に人類の成長は限界に達する」というものであり、当時賛否両論の大変な反響をもたらした報告書です。


その報告書では、石油はあと20年で枯渇するなどの予測されており、当たらなかったものもありはしますが、発表されてから40年以上経過した現在、その本筋は基本的に予測通りになっているのではないかと思うのです。


何故なら私たちの住む日本でも、かつては考えられなかったゲリラ豪雨や竜巻が今や当たり前のように発生するようになっていたり、また最近ではニュースで「これまでに経験のしたことのない○○」と言う言葉が出てくるようになったりして、誰もが現在の異常気象から地球環境の激変を感じずにはいられないからです。


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博士の著書に「地球の法則と選ぶべき未来」(ランダムハウス講談社)というエッセイ集があります。このエッセイ集の中に「矛盾はあっても、地球に少しでも負担をかけずに暮らす」と言うタイトルのエッセイがあります。博士はその中で「現代の文化は地球に負担をかけないで生きることが不可能な文化である」といいます。


確かに現在の文化はエネルギー失くしては成り立たちません。そしてそのエネルギー源は何かといえば、風力や太陽光などの自然エネルギーはごくわずかであり、大半が石油、天然ガス、そして原子力が主であり、言うまでもなくこれらは地球に負担をかけざるを得ないものです。


また博士は、「豊かさの感覚があるからこそ、安心感や新しい考え方、寛大さ、喜びが得られる。」とも言います。


これもまたその通りで、私たちは豊かさがあるからこそ、そこに新しい考えが生まれ、それを受け入れることができるのです。余裕のない暮らしでは、日々の生活に追われ、新しい考えを生み出すこともなく、仮にもしあったとしてもそれを受け入れる余地はほとんどないことでしょう。豊かさや余裕があるからこそ受け入れられるのです。しかしながらその豊かさをたどれば「地球に負担をかけざるを得ない」状況であり、地球に負担をかけることを前提としているのです。


更に博士は「豊かさから安心感が生まれると同時に、無神経さや貪欲さ、浪費の心も生まれる」とも言います。これもまた現在の大量生産・大量消費の浪費文化を見ればまさにその通りであるというしかありません。


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では私たちはこれらの矛盾を抱えた文化の中でどのように暮らしていけばよいのでしょうか。一方を切り捨てれば、もう一方も成り立たない状況の文化の中で私たちはどのように暮らせばよいのでしょうか。


博士の出した答えは「足るを知ること」、すなわち「知足」なのです。


「今の私たちは、『足るを知る』を暮らしの基本に据えようとしています。誰もが必要な物をちょうど必要なだけ持っていて、余計なものは少しもないということです。浪費ではなく、寛大になれるだけの『十分さ』があります。ため込むのではなく、ちょうど安心できるだけの『十分さ』です。ガンジーの言うように、『すべての人の必要を満たすことはできても、すべての人の欲を満たすことはできない』のです。」


現代の日本は経済、教育、環境、社会等あらゆる面で行き詰まりを感じています。それはどう見ても経済や科学技術への過多なる信仰であり、お金への極端な依存です。そしてそのもとをたどれば「欲」と言わざるを得ません。更にその欲を詳しく見てみれば「必要以上の欲」がどれだけあることでしょう。


メドウス博士は、この本のエピローグに「『限界を超えて』での私の分析では、世界が持続可能な経済を実現するために、現実的で無理がなく、有益でしかも大規模な変革をするには、長くても数十年の時間しかないのです。今から、230年後では遅すぎるのです。」と書かれています。「限界を超えて」が書かれたのが1992年であるから、既に20年以上が経過している。もしかしてもう限界を超えたかもしれません。けれどもよい()科学技術の発展を考慮すれば、まだ後戻りできるだけの所にいるハズです。


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豊かさは必要です。けれどもその豊かさは現在のところ「地球に負担をかけざるを得ない」ところからきています。そのために環境は破壊され、その結果私たちの生存を脅かす地球異変が次々と引き起こされています。私たちは早急にこの状況の改善に取り組まなければなりません。そのためには生活を見直すことが必要です。けれども癌や心筋梗塞などの直接、かつ緊急に自分自身の生命に関わることならばともかく、今すぐにこの豊かさを手放すことはできないのが現実です。


であるならば私たちに必要なことは、まずは「矛盾はあっても、地球に少しでも負担をかけずに暮らす」という考えであり、それは「足るを知る」ことではないかと思うのです。何故なら私たちはすでに十分持っているのですから。


この「矛盾はあっても、地球に少しでも負担をかけずに暮らす」って言葉を心に響かせ、「足るを知る」ことを実行してみませんか?



(平成29年8月一部修正)









らいふあーと~僕らは地球のお世話係~

2014年7月16日 (水)

現代と未来のはざまにいる子どもたち

 数カ月前のこととなるのだが、はせくらみゆきさんの「カルマからの卒業」(ヒカルランド)という本を読んだ。とても参考になることがたくさん書かれていたのだが、最後にビビッ!と来た箇所があった。その箇所を転載する。

(転載開始)
 実は、私がこの本を世に出す決意をしたのも、この想いからでした。
 瞳の美しい、冷静の高い子供たちが続々と生まれているにもかかわらず、大人たちが追いついていっていないのです。
 私たち大人は、まだまだ目に見える物質性の世界に捕らわれているので、その次の時空にある精神圏(ヌースフェア)を見きれないでいます。
 そればかりか、持つ者と持たざる者に分かれた支配と競争のゲームの中に、子どもたちも入れられてしまい、多すぎる習い事や塾通いなどで、子どもらしい時を過ごすこともままならなくなっています。
同時に、添加物や化学物質、電磁波(特に日本は酷い)など、成長期の生体に影響を及ぼすような生活環境が「当たり前」となり、心身両面から脅かされているのが現状です。
 勤勉さと従順さを求めている画一的な教育と、物質性中心の親の価値観によって、霊性に蓋をされている子どもたちがどれほどいるのだろうと思うと、心が痛みます。
 私は親として、子どもたちに、よりよい未来を手渡していく責任があります。今いる子どもたちとこれから生まれてくる未来の子どもたちが、豊かな大地ときれいな空気、水の中で、皆が慈しみ合いながら暮らしてほしいと願っています。
 たくさんの笑い声に包まれて、安心して人生を謳歌してほしいと願っています。
 そうした社会を実現するための、精神的な拠りどころとして、本書が少しでも役立てたらうれしく思います。

(転載終わり)

 まさに僕が思っていることと一緒だった。現在どれだけクリスタルチルドレン、あるいはレインボーチルドレンとして生まれてきているのに、その子たちが現代社会によって潰されてしまっていることか…。

 どれだけ多くの小学生が塾通いしていることか。住宅エリアの通りを歩いていると数百メートルごとに塾があると言っても過言でない。以前小学生の子供を持つ親に子育てのアンケートを取ったことがあるのだが、親の意見として、「今の子どもは部活に塾通いなどで忙しく、(自然の中で)遊ぶ時間がない。」と書かれていた。けれどもその子さえも塾通い…。

 毎日塾や習い事に通う子どもたち。あるいはタブレットを使って授業を受けたり、親にスマホを持たせてもらったりする子どもたち。そんなことよりも障害のある子への理解を促し共に支え合うこと。野菜を育てそれを食べること。自然の中で生活すること。生き物の誕生や死に接することなどを通じて心を育てることがどれだけ大切かと思う。

 以前肢体不自由の特別支援学校を見学させてもらった際、コーディネーターの先生に「この子たちの授業にも学習指導要領のようなものがあるのですか?」と質問をした。すると、「それはないです。先生がそれぞれの児童や生徒(の発達に)あう内容を考え、それを実施しています。」と答えられた。しかも授業はほとんどマンツーマン、あるいは一人の先生に2人の生徒まで。すごくそれが羨ましく思えた。1対1とはいかなくとも、それぞれの子どもにあった学習をしてよと思う。今やどれだけの先生が病んでいることかと考えると、学校なんていらない。それよりも寺小屋を復活させた方がいいのでは?と思う。


 (自身のこととなるが、話を転回する。)この本のこの箇所を読んで、これこそ僕が結婚していない理由だと思った。生まれてくる子供がかわいそうなのだ。このような環境の中で育てるのが嫌だったのだ。あまりに現在社会はは人間(大人)の身勝手な環境過ぎる!

 けれども今、流れが変わろうとしていることをすごく感じる。ひとりひとりが環境を変え得る時代になろうとしている。僕たちが意識を向上させ、行動することで社会がダイナミックに動くようになろうとしていることを感じる。地球も未来もそれを後押ししてくれる時代がやってくる。まさに夜明け。

 と言うことで、僕も結婚して、子どもつくろっと。一緒に遊ぼう。そして何より子どもたちによりよい未来を創って手渡さなきゃと思う。



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2014年5月28日 (水)

イマジナル細胞(25年間の引きこもり②)

 ノリ・ハドル/きくちゆみ著「バタフライ もし地球が蝶になったら」(ハーモニクス出版)という本があるらしい。その本にはイモムシが蛹となり、そして蝶となるまでの過程を描いているそうなのだが、それは次のようらしい。(読んでないのだ!)

 イモムシが糸を吹き出し自分の身を包み蛹となる。そして蛹から蝶へと生まれ変わる。この一連の過程の中で何が起こっているのか。あのグネグネしたひとつの単純な生き物にしか見えないイモ虫が蛹となり、その蛹を破って色鮮やかな羽根を持ち大空を自由に飛ぶことのできる蝶となるまでに…。

 蛹の中で何が起こっているかと言うと、イモムシの体は一旦融けて液体化する。その液体の中にこれまでイモムシの体にはなかったイマジナル細胞と呼ばれる細胞が発生する。最初そのイマジナル細胞はごく少量であり、またこれまでの細胞とはかけ離れた波動のため、芋虫の免疫細胞に撃退されてしまう。けれどもそのイマジナル細胞はいくつも生まれ続け、遂には芋虫の免疫細胞を乗り越え増えてゆき、単独だった細胞が結合しグループを作る。その勢力はどんどん増していき連結し、同じ波動で響き合い新しい体へと変化することを悟る。そしてそれは全ての細胞にその波動がいきわたり、遂に蝶の体となる。そこからは誰もがこれまでに見たことのある、蛹を破り出てきた蝶となり、その羽を伸ばし乾かして、そして大空へと舞い上がる。

 前回僕は25年間の(精神的)引きこもりに気がついた。何度も多くの人がノックしてくれていたにも関わらず、傷つくのではないかいう小さな恐怖心の積み重なりが大きなトラウマとなり、その防御として更に頑丈な鍵をかけて世間に抗していた。けれどもその一方で心は救いを求め続け、引きこもりの部屋から外へ出たいという気持は常にあり、この状態から脱しようともがいていた。その気持ちやもがきこそ僕のイマジナル細胞ではなかっただろうか。

 けれども僕のもがき(イマジナル細胞)以上に、僕が鍵をかけた扉(免疫細胞)は頑丈で、いつもイマジナル細胞はあえなく撃退されてきた。トラウマに捕われ防御する自分。一方で外へ出たいという自分。その矛盾に僕はいつも悩み、やがてそれはストレスとなり、そのはけ口が見つからず、遂には何らかの形で爆発した。その爆発先は自分よりも弱いと思えるところへと向かう。いわゆる一種の精神疾患状態だ。

それが繰り返されること25年。25年かけて遂にイマジナル細胞は免疫細胞を乗り越えた。そして連結していくようになった。ようやく僕自身が抱える自己矛盾が受け入れられるようになってきた。僕の中にある黒と白が同時に受け止められるようになり始めた。そして全体的統合を目指そうと思うようになってきた。

 思えば、イモ虫の世界とは、1本の木の世界。ただ本能に従い、その木の葉っぱを食べまくる。例え別の木があることを認識することはあったとしても、その木に移ることはまずないだろう。そして敵を警戒しながらの生活を続け、身の危険を感じた時には、臭いにおいを放出したり、とげや毒でもって威嚇したりする。いわば非常に制限された中での弱肉強食の世界。

 けれども蝶となると世界が一変する。自らの羽でもって自由に飛び回り、花から花へと移っていく。その花も(受粉作用の担い手として)蝶に来てもらうために蜜を用意する。お互いがメリットを享受し、しかも生命を循環させていく。更には花の美しさ、蝶の美しさそれらがより一層世界を美しくする。相乗効果の共生世界。もちろん危険もあるのだろうが、イモムシの頃に比べると格段に自由度は高くなり、また他を傷つけることもはるかに少ない。

 僕は変わる。そして世界を変える。これまでの僕は小さな世界で指をくわえてみているだけだった。例え空を見ることがあってもそれ以上は何もしない存在だった。現状の世界に不平を言い、八つ当たりばかりしていた。けれどもこれからは大空を自由に飛び交い、共生し、循環させる世界の一員となる。イモムシから蛹となり、そして蝶となる時代が遂に僕にもやって来た!

 まあ、まだまだ殻を破って、羽を伸ばし乾かさなきゃいけないし、空を飛ぶのにも勇気が必要で…、しかも最初は飛び方もぎこちないかもしれないのだろう。それもまた通過儀礼ということで。



ホームページ「らいふあーと」もよろしくお願いします。今年の5月は気合が入っています!


2014年2月19日 (水)

われ思うトンデモ説~恐竜時代は人類によってつくられた説~

遺伝子技術
 現代科学によって進められる遺伝子組み換え。アメリカで栽培されるトウモロコシは今やそのほとんどが遺伝子組み換えされたもの。某企業の除草剤に耐性のある遺伝子、虫が近寄らない遺伝子が組み込まれていたりする。更には1世代限りの自殺遺伝子なんかも組み込まれてたりしたら…ごっちゃんです。そして畑には除草剤撒かれ、肥料として化学肥料が与えられトウモロコシは育っていく。
 そんな化学物質漬けで収穫量アップのみを目指した栽培では、土地がどんどん痩せていく。ついに作物(トウモロコシ)は育たなくなり、その土地に生えるのは除草剤等に耐性を持った巨大に育つ雑草のみとなっているらしい。

 更に遺伝子組み換え技術はすごいことになっている。植物だけではなく、動物に関しても進められており、今では光る魚光る猫光る豚が誕生し、鮭は遺伝子組み換え技術で4倍の大きさに育つものが誕生しているとのこと。更には鳥類と爬虫類の合体としてワニの口をしたニワトリも誕生させられるらしい。ついでにすでに我々が既に口にしているかもしれないものとして、羽のないニワトリ=ヌードチキンが誕生している。まあ、これは遺伝子組み換え技術ではないとのことだが実際のところどうなのやら…。羽がないから羽をむしる手間が省け、その分が大幅なコスト削減につながるので、某ショップでは既に使われているのではという噂も…。(参考文献:「モンスター食品」が世界を食いつくす!|船瀬俊介著)

中丸 薫 著「古代日本人とユダヤ人の真実」 (KKベストセラーズ)
 この本では遂に中丸氏がこれまで封印していた日本人のルーツの秘密を明かしてしまったのだが(←まあ、分かっていたのだけど…)、本の中にはそれ以上にぶっ飛んだことが至って真面目に書かれている。それは中丸氏の輪廻転生の歴史が綴られているのだが、そこには人類の祖先は宇宙から来ていると書かれている。宇宙人の最初の地球訪問は3億6千年ぐらい前とのことで現在のエジプト近くに降り立ったとのこと。その時中丸氏も大天使ウリエルとして地球に降りたとのこと。けれどもその時はまだ地球には高度な生物はいなかったとのこと。そして次なる宇宙人の来訪は2億年前とのことで恐竜時代とのこと。

カブレラストーン
 ペルーで見つかった1万2千年以上前に制作されたといわれる石。そこには6500年前に絶滅したとされる恐竜が描かれているだけではなく、恐竜と人間が一緒に描かれていたり、中には恐竜に人間が食べられていたりする絵が描かれている。更には人減の心臓や脳の移植の絵が描かれていたりもする。ただし偽物とする説も根強い。
 
 さて以前から想像していたことで、恐竜って実は人間が生み出したのではないかと…。最初にそれを思ったのはカブレラストーンのことを知り、最近の遺伝子技術のことを知ったとき。そして今回中丸さんの本を読んでますますそんな創造力が掻き立てられてきた。「恐竜時代って実は人類(ヒューマノイド)が作り出した」ってのもまんざら嘘じゃないかもと…。

 2億5千年前地球に降り立ち住み着いた人類は、その後科学技術を発展させ人口は急激に増えていった。科学の進化は同時に遺伝子組み換え技術をどんどん発達させていき、増えすぎた人口そしてその食料問題に対処するため、植物、動物の遺伝子を自分たちの都合に合わせてどんどん組み換えていった。主食であるトウモロコシ、米、小麦、イモ、豆類は2倍の速さで成長し、4倍の量収穫できるようになった。牛や豚はリンゴの木と組み合わせ、木になるようにし秋に収穫できるようになった。ニワトリは3ヶ月で成鳥となるものが成長ホルモンの投与によって7週間に、そしてついにはカイワレ大根の遺伝子組み合わせによって卵からかえってから2週間で4倍の大きさの成鳥となるまでとなった。

 ところが遺伝子組み換え植物を育てるためには大量の化学肥料と除草剤を必要とし、畑にそれを撒いていくにつれ畑の中の小動物そして微生物は死滅し、その土地はどんどん痩せていき、ついには死の土地となり、トウモロコシ類、穀類などは育たなくなり、そこに生えるのは除草剤、化学肥料によってどんどんその変異を繰り返し耐性をつけていった雑草のみであり、その雑草はどんどん巨大化していき、数メートルの高さまでになった。

更には遺伝子組み換え植物や動物は、それぞれの種子からの成長過程で、あるいは受精卵の細胞分裂の中で、毒素を生み出すようになったものもあり、ほかにも人間の体内に取り込まれた化学物質と反応し猛毒化し、人間の体を徐々に犯していった。がんの発生率は年々上昇し、その死亡率も急上昇していった。更にそれは生まれてくる子供たちにも重大な影響を与えていき障害を持つ子供たちの率が高くなっていく。
そして人間が追求してきた核開発は人間の減少による人員不足と、管理不備のため自然災害の発生により、爆発し高濃度の放射能が地球全体を覆うようになってしまった。その為ほとんどの人類は死亡し、ごく少数の特殊な遺伝子を持っている者だけが生き延びた。

 同様に多くの動物も放射能で死滅していったのだが、中には遺伝子の突然変異により生き延びた種類もあり、その中には人間が遺伝子組み換え操作を行った動物や鳥、そして爬虫類もいた。人間がほぼ死に絶えた土地では彼らに危害を加えるものはなく、それらはどんどん繁殖していき、地球を制圧した。それらが今化石となり発掘されている恐竜の正体である。

 そんな想像をしてしまうのだが、今の科学技術を見ると100%ありえないということもできないだろう。世界中にはマッドサイエンティストと呼ばれる人たちがいっぱいいるみたいだから。

 モラルを失った世界では何が起こるか分からない。

 そして最後に超秘密を言うならば、我々人間こそが地球上の最大の遺伝子組み換え動物であるということである。鏡を見てごらんなさい。ずっと奥を見てごらんなさい。そこにはもう一つの別の顔が隠されているから。




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