映画・テレビ

2014年5月14日 (水)

25年間のひきこもり

 毎週火曜日の夜NHKで「サイレント・プア」と言うドラマが放送されている。深キョンこと深田恭子演じる社会福祉協議会(社協)のコミュニティーソーシャルワーカー(CSW)里見涼が、地域で課題を抱えている人(家族)を解決に導いていくドラマなのだが、聞くところによると大阪にある社協の実在の人物をモデルにしているらしい。

 先日ドラマのテーマは「30年間家に引きこもっている男性を立ち直させる」というものであった。町内会長を務める男性は元銀行マン。子どもは仕事で海外に行き活躍中と近所の人々からは噂されているが、実は大学受験に失敗してからずっと30年間家に閉じこもっている。町内会長も年を取り、息子も50になろうとしている。一体このままではどうなるのだろうと心配し、意を決して深キョンこと里見が(前回の放送で)立ち上げた引きこもり者を支援するコミュニティカフェを訪れ、息子のことを相談する。そして深キョンはその町内会長宅を訪ね…という内容だった。

 このドラマを見ていて僕はドキッとした。何だかその主人公が僕自身に重なって見えたのだ。僕がテレビにいるって思えた。僕は家に引きこもっているわけではない。外に出て働きもしている。(ただし都合上現在はほぼプー太郎、引きこもり状態に近いが…。) けれども僕はずっとひきこもっているんだと思った。

 確かに体は外に出ている。休みの日も家にいるのが嫌いなので外に出ることが多いため、もしかすると普通の人よりも家にいないかもしれない。これまで色々なところへ出かけ、いろいろなものに参加し、体験し、きっと人よりも多く遊んでいる。けれどもやはり引きこもりに思えた。何故なら僕の心はずっと引きこもり状態だったから。

 いつから僕は心をずっと閉じ込めてしまうようになったのだろう。振り返れば大学へ入ったころから…(?)。と言うことは約25年間ずっと閉じこもっていたことになる。途中何度もいろいろな人が僕の(心の)扉をノックしてくれた。けれども僕はそのノックに応えることはなかった。いや、正確に言えば応えようとしたのだが、いつも恐怖に駆られ、その時は扉を開けようとしなかった。そしてその人たちがいなくなるとようやく恐る恐る扉を開け、外を見る。当然のことながらそこにはもう誰もいなくなっており、今度はそれを嘆いていた。そんなことをずっとこれまで繰り返していた。その繰り返しでますます人におびえるようになり、最近では親兄弟に対しても完全に心を閉ざしていた。

 けれども僕はそのことにずっと気づかないでいた。いやもしかすると気づいていたのかもしれない。けれどもそれを直視するのが怖くて、気づかないふりをしていた。あるいは別のことを原因とし、そこをいじることはするが、本当のところからは目をそらし続けていた。

 「トラウマ」~心的外傷。僕の持つ他人への恐怖の感情。僕の過去の記憶をたどってみれば、最初は何気ない友達のひとことから始まっているような気がする。そこからどんどん積み重なり、遂には完全に心を閉じてしまって…。結局逃げ続けていたのだ。

 ドラマを見てようやく僕自身(の抱えるトラウマ)を直視しようと思った。そして抜け出そうと思った。25年間の引きこもりから一挙に抜け出すのは大変だろうけど、それでも外の空気が吸いたいと思った。

 そう思っているとちょうど1冊の本が届き、その本の中に次の言葉が書かれてあった。
逆に言うと、このタイミングでできれば見たくない過去のトラウマを直視して、それを総括し受け入れることができれば、すばらしいポテンシャルを活かして、格段に素晴らしい会社に変貌することができる…(中略)…本来の輝かしい力を堂々と使いこなすためには、敗戦というトラウマを私たち自身がしっかりと受け止めていく必要があるのです。」 舩井勝仁・はせくらみゆき著「チェンジマネー」(きれい・ねっと)

 少し話題の方向性は違うが、僕自身に言ってくれているような気がした。この25年間何もせずただただ引きこもっていたわけではない。方向性違いだが修行もしたぞ。それを考えると僕にも大きなポテンシャルがあるはずだ。この文章と同時にイマジナル細胞などと言う言葉も飛び込んできた。(←次回のブログで)

 25年間の心の引きこもりから「今こそ(心の)扉を開けなさい」とメッセージが降りてきているような気がする。

 ドラマでは深キョンが毎日(?)町内会長宅を訪問し、息子に優しくそして根気強く話をつづけ、遂には息子も部屋の扉を開け…という展開で、考えてみれば深キョンみたいな子にそんなことをされるという、なんとも羨ましい気がするのだが…。我が町にも社協はあるけど、そんな子いるのかな?先日社協を訪ねた時冷静に「いない。」って言われたっけ…。



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2013年11月22日 (金)

だからやめられないPart2

 サティシュ・クマールは僕にとって師匠のような存在。彼の生き方や考え方、そして人間のあるべき姿等に関する思想は僕の考え方にピッタリ。だから僕が今一番影響を受けている人物といえば彼以外にいない。

 その彼の思想を説いた映画(DVD)「サティシュ・クマールの今ここにある未来」の上映会をすることとなった。ずっとこの映画の上映会がやりたくてこれまでに何人かに話を持ち掛けたりしたのだけど、いつも何故か(?)消滅…。why?それがひょんなことからコワーキングスペース(※1)で映画会開催の話が出て、トントン拍子で話が進んでいった。
 
 僕がサティシュ・クマールを知ったのは3年ぐらい前。エハン・ディラヴィが制作した映画「アースピルグリム~地球巡礼~」の中に彼が出演していたのがきっかけ。この映画はエハン・ディラヴィが考えるこれからの人間の在り方~幼虫から蛹となり、そして蝶となる時代がやって来た~を説いたもので、何名かの思想家や科学者等が登場し、それぞれの意見や説を述べているのだが、その中のひとりにサティシュがおり、人間の在り方、エコロジーに関する考え方を説いていた。

 それがきっかけでサティシュに興味を持ち、彼の本を読み漁っていた時に、友人からのメールでエコロジーに関する映画の上映会があることを教えてもらい、よく見ればまさかのサティシュ。そしてその上映会こそ「サティシュ・クマールの今ここに―」だった。このシンクロニシティ的な出会い、今思えば偶然というよりも必然だ。

映画を見た後、すぐにそのDVDブックを取り寄せ、繰り返し見ること十数回。彼の思想のどれもが僕の理想とするものであり、「人間こうあらなきゃいかん。」とひとつ一つがシンクロしており、驚くとともに感動し、大きく頷いていた。そしてこれは是非ともみんなにも見てもらいたいと思った。

それから2年(?)の月日が流れ、遂にその日がやって来た。思えば長い道のりだった…。今回少人数の映画会とし、飲み物を飲みながら、みかん(お菓子)を食べながら見てもらい、そして上映会の後に映画を見ての感想を述べ合うシェアリングタイムも設け、より効果的になるようにもした。コワーキングスペースのオーナーがFacebookで告知してくれ、更にはチラシも作成してくれたので、それを数か所に配布し準備は万端。これで十数名来てくれれば言うことなし!

 そして当日。参加者12名。オーナーと僕を含め14名。多すぎもせず、少なすぎもせずちょうどいい加減の人数。

 大学生A
コワーキングスペースへ行くと、ちょうど大学生のような若者が入っていくところだった。彼は今日コ・ワーキングスペースというものを見学に来たそうだ。オーナーと話をしているうちに、映画会の話となり、ついつい彼ものせられ参加することとなった。そして彼と話してみると彼は農学部の学生で、なんと僕が今通っている大学の社会人学級の先生のゼミ生だった。彼は自然農法をはじめこの分野にも興味を持っており、映画の後とても喜んでくれた。

 社会人B
 本屋さんにて、サティシュ・クマールの本を買い、レジで支払いをしていた時、ふと横を見るとそこに「サティシュ・クマールの今ここにある未来 上映会」のチラシを見つけた。チラシを見ると上映会は今日。時計を見ると18時50分。映画開始まで10分。彼女はそのチラシをとり急いでコ・ワーキングスペースに電話をかけ、「今から行ってもいいですか?」。もちろん「ぜひいらしてください。」。彼女は会場を見つけるのに苦労しながらもやって来た。

他にも仕事を辞めることとし、辞めた後どうしようと考えている最中の人もいたりして、様々な偶然が重なった。いや、偶然かそれともシンクロニシティか、引き寄せ、引き寄せられたか。いずれにしろ面白い。映画の後のシェアリングも4,5人のグループとなりみんな結構盛り上がった。もし一人でもこの映画に感銘を受け、多大なる影響を与えることができたならば、それに勝るものはない。

 準備に苦労はするし、利益が出ることもないけれど、いろんなこと起こるからやめられない。小さくてもいい。コツコツと!そして地球を大切に思ってくれる人が増えるならば…。

最後に余談となるけれど、映画会の前々日の夜寝る前に軽くおなかが痛くなった。どうしたのだろうと思いつつ布団に入り寝たのだが、夜中に目が覚めるとなんだか無茶苦茶寒かった。大寒気団が南下してきたかと思い、そばにおいてあった布団を被ったのだが、とりあえずトイレに行こうとしたら体がフラフラで歩けなかった。厠のあと体温計を探して熱を測ったら37度3分。それから体の節々がどんどん痛くなり、おなかもますます痛くなってきた。食中毒?それでも翌日は映画会と思えば…、一晩寝て気合と根性で復活!

いや~映画ってホントにいいものですね。

 

(※1)コワーキング(Coworking)とは、事務所スペース、会議室、打ち合わせスペースなどを共有しながら独立した仕事を行う共働ワークスタイルを指す。一般的なオフィス環境とは異なり、コワーキングを行う人々は同一の団体には雇われていないことが多い。通常、在宅勤務を行う専門職従事者や起業家、フリーランス、出張が多い職に就く者など、比較的孤立した環境で働くことになる人が興味を持つことが多い。
(ウィキペディアより)


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2013年6月26日 (水)

人間に宿る狂気

 鬼才スタンリー・キューブリック監督の「時計仕掛けのオレンジ」。この映画前々から気になっており、いつか見てみようと思っていたのだけど、何故かいつもいつも先延ばしとなっていた。けれども先日遂にレンタルし見てしまった!

 で、見終わった直後の感想をひと言でいえば、「なんやこれ、全く意味わかんね~。お下劣なだけじゃん。きっと見る人によっては吐き気を催すんじゃないの?作者も監督も何を意味したかったのか全く分からない。」あるいは「時間の無駄。」と最初は思った。

 映画の概要としては、暴力やセックスなど、欲望の限りを尽くす荒廃した自由放任と、管理された全体主義社会とのジレンマを描いた、サタイア(風刺)的作品。近未来を舞台設定にしているが、あくまでも普遍的な社会をモチーフにしており、映像化作品ではキューブリックの大胆さと繊細さによって、人間の持つ非人間性を悪の舞踊劇ともいうべき作品に昇華させている。皮肉の利いた鮮烈なサタイア(風刺)だが、一部には暴力を誘発する作品であるという見解もある。(ウィキペディアより)

 ということで映画は主人公のALEXとその仲間たちのやりたい放題から始まり、ALEXが逮捕されてから後の無茶苦茶な展開と、それぞれのやりたい放題でもって映画は終わるのだけど、最初の「意味分からない」状態から、せっかくなのでこの映画で作者や監督の世間への問いかけを考えてみると、気がついたことがある。

 映画の最初から最後まで続く狂気。もしかするとこれは世界に宿る狂気を現したのではないか。無茶苦茶なことをする主人公、無茶な治療をする精神科医、そして彼らを利用しようとする政治家などそれぞれの登場人物から読み取れる狂気。それぞれ一歩踏み外せば狂気の世界が宿っている。これは人間の中にある狂気を描いた作品なのか?

 そう解釈しているうちに、ふと自分の中にある狂気を感じた。自分の中には確かに狂気がある。いくら世間体には真面目(?)に見えても、怒り・暴力・憎しみ・欲望など確実に自分の中にある狂気。

 普段はそれを抑えて生きている。でも時にちょろちょろ出る。なれた場所、なれた人の前ではチョコチョコと…。でもそれをもろに出してしまうとアウト!全てがぶっ飛んでしまう。

 よく殺人事件等の(テレビ)ニュースで近隣や親しかった人のインタビューが映されており、「普段は真面目でいい人だったのに…。」「いつも挨拶をしてくれて…信じられません。」なんてのがあるが、まさにこれなど狂気がモロに表沙汰となったケースと言ってもよいのではないか。

 人間の中には確実に大なり小なりの狂気があると思う。そしてそれを僕らは理性や道徳心でもって抑えて生きている。あるいは学びを通じて抑えていく。一生を通じて抑え続け、それをできる限り小さく、あるいはなくしていく。そうすることである人は「人格者」と呼ばれたりする。

 人間の中には狂気があることとして、例えばかつてはとても上品だった人が認知症となり、急に下品な言葉を言ったり行動をとり始め周囲の人を戸惑わすことがある。これなどまさにずっと抑えていたものが解き放たれたと言えるのではないか。

 ではなぜ人間には狂気が宿っているのか。どうせならない方が全然いいに決まっている。けれどもそれは確実にある。何故か。世の中すべて必然・必要のはず。なぜならそれを通じて学ぶため。人間が学び成長するため。もっといえばそれは魂を成長させるため。

 学びや魂の成長には相対的なモノが必要。相対的なモノがあることによって人は比較ができ学ぶことができる。狂気を通じて学び、成長させていく。自分の中にある狂気を抑えていくことにより相対的かつ普遍的に物事が見られ、そしてそれが魂の成長の糧となる。

 なので「狂気を宿している」ことは人間に課された使命のひとつと言ってもよいかもしれない。人間は狂気を宿しながらそれを抑え、できる限りなくしていくことが必要なのである。すなわち狂気とは魂を成長させるために人間に与えられたひとつの要素なのである。

 ついでながら現代社会(現代の人間のレベル)とは残念ながら(魂の成長よりも)狂気(により地獄に落ちる)の方が勝っている社会と言えるかもしれない。

 結論として、映画「時計仕掛けのオレンジ」とは、今でいえばR18の映画であるけれど、魂の成長を気付けせるために、あえて暴力にフォーカスした映画である。

 めでたし、めでたし。

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2013年6月 2日 (日)

CMに騙される~

 某除菌スプレーのコマーシャル。
 カーペットの上を男達が裸足で歩く。
 それを奥さん(?)は見て、汗をかいた足でカーペットの上を歩くので菌がいっぱい。「イヤ~!」と悲鳴を上げる。
 男たちは「それなら除菌スプレーできれいに除菌!」と、某スプレーをカーペットにシュッシュッとスプレーし、カーペットは再びきれいに。

 何かおかしくない?

 夏裸足で歩くのは当たり前。カーペットの上、畳の上、あるいは夏ならゴザの上。少し高級路線なら竹や籐の上どう見ても当たり前の行為。なぜそれを「菌がいっぱい!イヤ~」って叫ばなければならないのか。

 それって奥さんが潔癖症を超えた異常。精神疾患。実はこれは除菌スプレーのコマーシャルではなく、このような症状の方は心療内科へどうぞというCMじゃないの?

 そもそも夏に毛やアクリルのカーペットを敷いたままにしているのが悪い。絨毯からゴザに変えろ!怠慢じゃ!ついでに近頃の日本の住宅は高気密だから高温多湿の気候では余計に菌が繁殖するのじゃ。近代テクノロジーに頼りすぎ。

 何でもかんでも除菌して、本当は必要な菌まで殺している日本。だからアレルギーやアトピーやら増えるのだ。そもそもじゅうたんや畳の上に菌がいるのは当たり前のこと。それをCMはそれがあたかもいけないことのように言っている。

この前テレビ番組の宣伝で、フランス人は3日に1回しか髪を洗わないということで、驚いていた。でも昔の日本はそうだったのではないか?それに本当はそちらのほうが髪に優しいんじゃないの?化学物質ばかりのシャンプーリンス使うのだから…。

 僕らはあまりに企業の戦略にはまりすぎ。そしてうのみにしすぎ。企業は常に利益の最大化を求めるもの。ある調味料の会社が調味料と一緒に小さじをつけ、それ1杯で適量だったものを消費量を増やすために、匙をなくしふりかけ式にしたという歴史話もある。

 僕らはもっと企業のもうけ主義を見破る目を養ったほうがいいんじゃないだろうか。賢くなろう日本。企業に踊らされるのはもうやめにしよう!企業を監視してよい方向に誘導するのが、これからの消費者の役目。

 

2013年4月29日 (月)

しっちゃかめっちゃか

 映画「ヘルタースケルター」。沢尻エリカ演じる日本のトップモデルリリコ。世間はリリコ一色に染まる。けれども彼女は実は全身整形をしているという秘密を持つ。そしてその後遺症に怯えるリリコ…。

 映画のホームページに書かれてある「きれいになりたい」「幸せをつかんでやる」そして「欲望だけが真実!!」とあるように、この映画はまさに欲望の地獄絵巻図。欲望と金の渦巻く世界の中で生きる人々をスピード感あふれる展開で描いてエンターテイメントに仕上げられている。

 しかし女性にとって『美』とは永遠の欲望。そしてそれにつけ入り、取り巻く人々。時にその欲望は嫉妬を生み出し、事件を起こさせる。女の業が深いというのも嘘ではないよな…。けどそれをそそっているのは男だから、やっぱりどっちもどっちか。

 まあ、映画だから過激に描写しているところも多いのだろうけれど、きっとモデル業界(芸能界)というのは、大なり小なりそのような世界なのだろう。ある意味若さと美しさを利用した使い捨てカルチャーの中での、人々の夢も怨念もごちゃ混ぜになっている世界であり、実のない幻の世界だ。

 この映画を見て「虚空の世界に群がる人々」について考えた。虚空の世界なのだからそこには掴めるものなど何もない。けれども人はそこにそれがあたかもあるように思う。本人はもちろんのこと、ある者はこのままこの人についていけば、一緒にそれが手に入れられると思い、またある者はつかめるものなどないことを知っていながらも、とことん利用しようとする。

 そして彼女(あるいは彼は)このまま進めばプロミスランド(約束の地)へ行けるのではないかと夢を見る。しかしながら、あと一息でつかめるかのように思えた瞬間にそこは地獄へと変わる。深い穴へと落ちていく。それは神が与えた試練なのか、それとも悪魔の微笑みか?

 今や美容整形の技術が進み、お金さえ払えば、美が(誰もに?)簡単に手に入る時代となってきた。お隣の韓国ではかなりの人々が利用しているとも聞く。美容整形に限らない。世の中さまざまなものが簡単に入るようにされていく。そしてそこには(企業や人々の)お金儲けが渦巻いている。

 かつては女性なら自分たちで作ることも多かった服も今ではデコレーションされることはあっても、作られることはなくなり、某ショッピングセンターや〇クロなど、安く手軽に入るようになった。料理に自分で作るということは省かれ、でき合いのものとなり、そして外で食べることとなっていった。今では休日昼の時間Mバーガーショップのドライブスルー前は子供を連れた家族で渋滞だ。

 さまざまなものが手軽に手に入るようになり、失われていくのはそのプロセス。プロセスとはいいかえれば手間。服を作るプロセス(手間)。料理を作るプロセス(手間)。プロセス(手間)は省かれ代わりに代金を払う。得られるものは出来上がりの一時的満足。

 ああ、人間のファストフード化現象は進んでいく。そしてプロセスが省かれることにより、人間の心は、一方で確実にすさんでいき、弱くなっている。

 プロセスという手間。それは一歩一歩確実に階段を上っていくこと。それはいわばしんどいこと。同時にお金では買えないこと。そしてそれが確実に自分を高めていく方法。

 映画の中でのセリフに「若さに美はついてくる。若さ=美である。けれども美は若さとイコールではない。」というのがあった。年をとるほど美しくなる女性がいる。一方で年をとるほど耐えがたくなる女性もいる。できるならば前者であって欲しいもの…。

 しかしながら神様仏様はどのような人にでも、そしてどの時点からでもやり直しを与えてくださる。ありがたい存在。

 どのように生きるのかはあなた自身が決めること。誰もそれを決めてはくれないし、責任を持ってもくれない。結局はあなたがどうなりたいか。どうありたいかということ。

 私は一歩一歩確実に歩ませて頂いております。ありがたいことです。



 

2013年3月 9日 (土)

生きてく自信

Another night in any town
You can hear the thunder of their cry
Ahead of their time
they wonder why

新たな町の新たな夜に
君は都会のざわめきを聞くだろう
時代を先取りする彼らは
わけを知りたがっている

In the shadow of a golden age
A generation waits for dawn
Brave carry on
Bold and strong

ゴールデン・エイジの暗がりで
一つの世代が夜明けを待っている
勇者たちは前進を続ける
たくましく、強く

 僕の30年来好きなJOURNEYの“ONLY THE YOUNG”という曲。

 映画「ヴィジョン・クエスト~青春の賭け」 マシュー・モディン演じる高校生のラウデンはレスリング部に属し18歳の誕生日を機に階級の転向を申し出る。その理由は史上最強といわれる全米高校チャンピオンのシュートに挑戦するため。

 映画の中で主人公のラウディンが街の中をランニングするシーンがある。そのシーンの中でこの曲は流れていた。歌詞からも分かるように、気分が高揚するよなアップテンポな曲だ。スティーブ・ペリーのハイトーンのヴォイスとニール・ショーンの透き通ったギターの音色がまるで大空を駆け巡るかのようだ。

 この曲は以前から好きな曲で、よくお気に入りのテープ(今はCD)をつくる時に入れていた曲なのだが、そのサビのメロディが大好きでよく口ずさんでいた。

Only the young can say
They're free to fly away
Sharing the same desires
Burning like wild fire

発言力を持っているのは若者だけだ
彼らは自由に飛んでいく
同じ望みを分かち合いながら
野火のように燃え広がりながら

 きっと憧れだったのだろう。そうやって生きてみたいという…。

 また、かつてのアメリカには大陸というスケールのでかさがあった。(懐のでかさがあった。) それにもあこがれた。

 これまでいろいろな人、本あるいは映画に影響されながら生きてきた。時に迷い、時に苦しみ・・・。そんな時がほとんどだったような気もする。大いに悩み、吐き気を催した。

 そんな中でもがくかのように、バックパックを背負い放浪した。時にバスや電車に何十時間も乗り続けケツの痛みに耐えていた。時にビビりながら親指をあげてヒッチハイク。山の中を1週間分の食糧とテントを背負って歩いたこともあった。あるいは毎晩酔っ払いながら野宿をしてた時もあった。

 またあるときは、お寺の門をたたき、坐禅にふけったこともある。あるいは四国88ヶ所を歩いて回り、そして炎の行者のもとで顔や手にやけどをしながら、法衣を燃やしながら修行した。そして何冊もの宗教の本や哲学の本あるいは自己啓発本を読みあさった。

 それでもまだ自分が見つからなかった。どんなに仕事で一生懸命に働いて例えよい成績をあげても、他の職員から称賛をえても何かが足りず、迷いも消えず、転職を繰り返した。その数一体いくらだろう。思い出すのが大変なぐらいだ。

 旅を通じてどんなことがあっても生き延びてやるということには自信があった。もう大丈夫だと思ったりもしたが、やはり弱かった。とにかく弱かった。

 そんな僕に変化の兆しが見えたのは数年前。高齢者の福祉に携わり10年。ひとりの人を見送った時。ようやく自分の仕事に納得した。自分の中のカルマがひとつ成就した気がした。

 けれどもその後も何をしたらよいのか分からずに迷走した。迷走しながら、瞑想もしながら日々を生きてきた。そして「公」という見知らぬ世界に足を踏み入れ、それプラス「地域づくり」という未知なる世界に飛び込んで、これまた迷いながら、僕なりに手探りで進んできた。差別も受け、裏切りにもあい、血尿出しながらも、歩んできた。

 ずっと独りで歩んできたつもりだったが、気がつけばそこには仲間がいた。一緒に育ちながら来ていた。

 振り返るにはまだ早いけれども、少しばかり振り返ってみると、そこには細いながら自分という道ができており、そして前を見れば、未知なるだだっ広い世界が広がる。まだまだ先は長そうだ。

 まだまだ弱い。弱っちょろい。

 それでも少しばかし生きてく自信ができてきた。小さいながら切り拓いていく自信ができてきた。

They're seein' through the promises
And all the lies they dare to tell
Is it heaven or hell
They know very well

彼らは約束の真実を見抜いている
そしてどんな嘘でもあえてつく
それは天国なのか、地獄なのか
彼らはよく知っているのさ

Only the young can say
Only the young can say
Only the young can say
Only the young can say

発言力を持っているのは若者だけだ
発言力を持っているのは若者だけだ
発言力を持っているのは若者だけだ
発言力を持っているのは若者だけだ

 年齢的には中年域となってしまったが、精神はまだまだ若くありたい。ずっと若くありたい。

 そしてこの先もぼくなりに新たな世界を切り拓いていきたい。人生を創造していきたい。

 意識が現実を創造する。

 僕が(僕の)世界を創造する。


 最後に、映画でラウデンがどうなったかは、DVDでも借りてみてください。
 歌詞の対訳Kuni Takeuchiさんのを拝借しました。




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2013年2月20日 (水)

食が危ない!

 「モンサントの不自然な食べ物
 「ありあまるごちそう
 「FOOD,INC
 「未来の食卓

 と立て続けに4本の食に関するドキュメンタリー映画を観た。

 ついでながら最近読んだ本に「タネが危ない」(野口 勲著)がある。

 それらの感想をひと言でいうならば、「やばいな!」。

 近頃冬場になるとニュースになる「O157」って人間が牛に餌としてトウモロコシを与えるようになって発生したそうだ。元々牛は雑穀を食べないのだが、人間が与えるようになり、牛の胃の中の細菌が突然変異を起こし、それが人間へと感染したらしい。

 そういえば、狂牛病だって人間が牛に牛骨粉を与えて、まるで共喰い状態にしたため発生したそうだし、その狂牛病の牛の肉を人間が食べ、その人も罹り・・・。

 アメリカの養鶏場では普通ヒヨコがニワトリに成長するのに3ヶ月かかるのが、怪しげな技で7週間で成長させ、食肉処理場に送られるそうだ。そしてそのニワトリといえば、すし詰め状態の中で飼育されているため、数歩歩けばこけてしまうような状態。そしてそこで飼育する人もニワトリの餌に抗生物質を多量に混ぜるために、抗生物質のアレルギーとなってしまったって。

 ひえ~!

 大豆といえば、今やモンサント製の遺伝子組み換え大豆。モンサントが製造する除草剤ラウンドアップに耐性を持つ遺伝子を組み込まれた大豆が市場を制圧している。

 またトウモロコシも同様にモンサント製のラウンドアップ耐性遺伝子組み換えが圧巻しているのだが、フランスの研究機関で実験したところ、このトウモロコシを与え続けたネズミはガンだらけになったそうだ。月刊フナイの12月号の中でその写真を見たが、それはもう驚くような姿だった。

 また近頃の野菜類の種はF1といわれる交雑種がほとんど。それらのほとんどが流通市場に載りやすくするために改良されたものであり、またその改良の仕方がいかがわしい。

 こんなモノばっか食べてんのや!食品添加物といい、化学肥料といい、なんやねん!

 こりゃ、ガンは増えるわ。アレルギーを持つ人が多くなるわ。アトピー増えるわ。化学物質過敏症も出るわ。出て当然や。そう思わざるをえない。

 しかしこれらのどれか一つとっても、言えるのは「企業論理」が優先されているということ。人間なんて後回しで、企業の儲けが最優先なんだってこと。小さなところでいえば、産地偽造も、消費期限すり替えもすべてそこに行きつく。

 人間よりも企業論理、経済論理が優先されるなんて、どう考えてもおかしいはずだが、それが当たり前となっているところが今の世の中なのだ。原発にしてもそう。人間の安全よりも企業存続の方が大切であり、みんなで一致団結して嘘をつく!

 公害、薬害エイズ、予防接種、すべてそう。

 このマインドコントロールは一体何なのだ!

 一体いつ目を覚ますのだろう。外からドンドンと音は叩かれているのだが、まだまだ日本人は夢の中…。みんなが夢を観ている間に、米国産は日本人のタンス貯金をせっせと懐に入れている。ついでにイビキをかきながら開いている口に毒まで入れていってくれてる。

 モ~どうしようもないな。「狂牛病です。」ってどこかの大臣が言ってたことがあるな…。あの人は何処へ行ったのだろう。

 目覚まし時計のベルはドンドン大きくなってます。いつ起きますか~?&そのグルメの品ホントに大丈夫ですか?




 

2013年2月17日 (日)

理屈なんていらない。それだけで十分。

 「僕たちは世界を変えることができない
 主人公の甲太は浪人生活を経て医学部に入り、学生生活を送っている。東京のマンションで暮らし、そこそこ欲しいものが手に入り、そこそこ楽しめ、不自由なわけでなく、それなりの生活を送っている。なんとなくの生活。

 今では当たり前の学生生活。(まあ近頃は苦学学生も再び増えてはいるのだろうが…。)授業もちゃんと受けるけど、バイトもしている。苦労な生活をしているわけでもない。大半の若者達は、楽しみを見つけながら、なんとなくの生活を送っている。

いや若者だけじゃない。大半の大人たちがそんな生活を送っているんじゃないだろうか。

 不満もないわけではないけれど、満足しているわけじゃない。「何かが足りない」。なんとなくの生活。何か夢中になれること。熱中できること。

 そんな甲太がある日、ふとしたことでカンボジアに学校を建てるパンフレットを見つけ、「カンボジアに学校を建てたい!」と思い始める。そして仲間に相談して、やろうということになり、サークルを結成する。スポンサーを見つけ、イベントを行い、募金活動を展開する。

 甲太を始め4人は実際にカンボジアに行き、カンボジアのさまざまな現状をみて打ちのめされ、そして考えさせられ、認識を新たにし、活動に力を入れようとする。

 けれどもある時、スポンサーが逮捕され、サークルの掲示板は誹謗中傷で炎上する。募金箱にも批判がマジックで書きなぐられる。そしてサークルメンバーが集まり議論する。

 メンバー達はいう、
 そもそもなんでカンボジアなの?
 軽い気持ちで入っただけなのに…。
 ボランティアすると就職に有利だと思って・・・。
 日本にだって困っている人がいるじゃん。
 学校建てても、教師が足りてないんじゃないの?
 サークルは崩壊の危機にさらされる。

 よくあるストーリーの展開だ。こうして観客は引き込まれていく。

 けれども、僕が思ったのはそんなことじゃない。このメンバーの議論のシーンで、僕もそんな目にあったことがある事を思い出した。それも1回だけでなく、大なり小なりしょっちゅうだ。きっと、誰もがそんな場面に遭遇したことがあるんじゃないだろうか。

 今では何かをする時には、理由や論理を求められる。そして人々はさまざまな視点からモノを言う。箇条書きにまでしてくれる。それらを乗り越えるのはひと苦労なことだ。僕もそれで何度折れたことか・・・。

 情熱に理屈がいるか!

 そう思ったんだ。僕らはあまりにも理屈をこねくり回しているんじゃないか?そして自分の中の情熱を自ら冷ましてしまっている。僕らはできない理由を探すのが大好きだ。

 甲太が「カンボジアに学校を建てたい」と思ったのは、郵便局でそのパンフレットを偶然に手にしたこと。そして建てたいという情熱が湧いてきた。ただそれだけ。

 それだけで十分じゃないか。ましてや学生ならば。いやホントは大人だってそれだけで十分なはず。心の奥底のふとした「揺れ」。それだけで十分。それが自然の論理。

 自然には理屈も何もない。秩序があり、時にそれは乱され、壊される。そして再び秩序が戻り・・・、その繰り返し。これこそ神の原理。この三次元世界の摂理。そんなことにいくら理屈をつけても仕方がない。

 ふとしたことで「やりたい」と思った。社会に役立つのに、それだけで十分じゃないか?理屈なんていらない。(理屈なんてあとからいくらだってつけられるでしょ。)

 今では誰もが理屈をこねる。ましてや大人になるとそこに必ずと言っていいほど金銭勘定が入って来る。そしてそれは不可能と結論を下してしまう。そこには無難な未来はあるかもしれない。けど明るい未来は見えない。

 甲太達はふとしたことから「やってみたい」と思い、未来を見つけた。

 未来を見つけた者には希望がある。

 今のあなたにはどのような未来がありますか?理屈抜きで情熱を持つことができてますか?



2013年1月19日 (土)

ホントウの自分

 寒さ厳しいこの頃。建物の中でPC使っての1日仕事。時に起るストレスフルな状態。まだまだ不自由に身を置く僕。解放しきれてないよね。疲れも覚え9時半にはスリーピー。ペットボトル湯たんぽをセットし、布団の中に潜り込む。そして午前1時半。目が覚めたので借りていたDVD観た。

トイレット」。一体どんな映画なのかと思い、始まりの日常の生活のセリフで、いや~これはもしかして…とバッドなイメージがよぎりもしたが、最後は感動した。内容もそうなのだが、監督の持つ独特の感性に感動した。

 勝手ながら、この映画の監督荻上直子さんずっと生きづらかっただろうな・・・。独自の感性の持ち主の故理解してくれる人少なかっただろうな。でも(映画という)表現の場を見つけたんだろうなって思った。

 映画の中でもたいまさこ演じる「ばあちゃん」は一種の独特の雰囲気を醸し出している。ある意味不気味な存在。でもばあちゃんは「ばあちゃんの世界」に生きている。そして孫3人は少しずつその世界を理解し引き込まれていく。

 ばあちゃんは偉大な存在だ。

 うちのばあちゃんも今やボケちまって、半野生状態。昨晩も訪ねてみると常夜灯の灯りの下で、布団に包まったままおかずを食べており、こっちを見ながらもモグモグと口を動かし続けていた。

 何をしでかすか分からないところもあり、今ではある意味どうしようもないばあちゃんではあるが「ばあちゃんの世界」に生きている。そして育ててもらったばあちゃんである。

 ばあちゃんと暮らし始めた孫3人はばあちゃんの世界に引き込まれると同時に、自分たちの持つ才能を見つけていったり、自分自身を(再)発見していく。

 「ひきこもり」。それは社会と自分自身のギャップを埋める防衛手段。

 「オタク」。それもまた自分自身のオリジナリティ。

 それぞれモノカルチャーな経済システムの世界に対する抵抗であり、防衛だ。

 映画のキャッチコピー「みんな、ホントウの自分でおやんなさい」。

 誰もが自分自身の表現を求めているのだ。

 僕はこの映画の中に、自分の中にあるオタクを発見した。

 金星に帰りたい。金星人は大地と共に生きている。プレディアスに帰りたい。プレディアスは宇宙とともに生きている。けれども僕はまだプレディアスからは許されていない・・・。金星はどうか?分からない。

 そしてこの地球。地上に住む人間は分離している。残念なことに地球と人間は分離状態。大地とともに生きるどころか、自身の欲望を満たすことで一生懸命。自分自身とも分離状態。けれども人間は未だそのことを理解していない。

 けれどもこの地球に生まれてきた限りは、「地球でおやんなさい。」っていうことなのだろう。僕は地球オタクだな。

 ばあちゃんは、ばあちゃんの世界のうちに孫たちをつなげていく。そしてそれぞれの世界それぞれの表現方法を導き、やがては灰となっていく。

 偉大なる日本テクノロジー。その技術は世界を驚かすとともに、快感を与えることもできる。輸入されてきたばあちゃんは3人の孫たちにまさにそれを与えたようだ。

 さあ、オタク的技術でもってこのモノカルチャーな世界に色をつけることができるだろうか。さまざまな土台こそが、豊かな世界を築いていく。まずは大地とともに生きよう。

 そしてそのことに気付いた時には、自動的に流され去っていく。それぞれの星へと帰っていく。



2013年1月16日 (水)

トウモロコシの向かうところ①

 映画「The River(ザ・リバー)」の主人公はメル・ギブソン演じる頑固ながらも正直に生きている一農民。彼は移民代々の土地でトウモロコシを育て生活している。

 その土地は元々は湿地帯であったために、時折の大雨により川が氾濫し、農地が水没してしまう。映画は大雨で川が氾濫し、農地が水没しようとしている場面から始まる。それを必死に防ごうとするトム(メル・ギブソン)とその家族。しかしながら自然は彼らの行為に対して、無残にも即席の堤防を崩し辺り一帯を水没させてしまう。

 水没により農作物(コーン)がダメとなり、トムは銀行に融資を申し出るが、これまでのローンの積み重ねもあり担保が足りないと断られてしまう。しかし実は裏にはダム建設のためにその土地を没収しようとする企みが…。

 というわけで、メル・ギブソンほか俳優たちの名演技が光ると同時に、川の氾濫など迫力あるシーンも見られ僕の中では古きアメリカの農民の姿を描いた名作品なのである。僕は随分昔にこの映画を中古のビデオ販売店で見つけ購入し1度見て以来ずっとほこりをかぶっている状態だったのだが、VHS復活とばかしに久々に見た。

 この映画の中では真面目に実直に農業を営みながらも、自然災害、農産物価格の下落、機械の購入等で借金を重ね、ついには土地を奪われ、農業を放棄していく農業者の姿も描かれている。

 ああ、これがアメリカの近代農業の変換の歴史なのだ。小規模農家はこうして農地を失い、一部の大規模農業へと変わっていく。きっとかつてはあった家族経営、大草原の中の小さな家のアメリカの家族像もこの過程の中で失われていったのだろう。

 実は僕もかつてアメリカで農業をしたいと思ったことがある。そこにはでっかい農場の中に小さな家があり、牛や馬もいる。ニワトリもいる。大草原の中で人間のちっぽけさを感じたり、自然のでっかさを感じながら生きていくということを夢見ていたのだが、きっと今ではそれは映画の中だけの世界となってしまったのだろう。

 映画のラストでは再び雨が降り、川が氾濫しそうになる。それを必死で防ごうとする農民たち。川が氾濫し今度こそ土地を没収しようとするダム建設を計画する者たち。彼らの対決が描かれるのだが、最後は正直で実直なトムの姿にみなが心を打たれ、農民たちの団結にダム建設計画者は白旗を上げる。

 けれどもダム計画者はトムの元を去る前に次のように言う。「いいだろう。今回は待とう。けれども、いずれまた洪水が襲う。あるいは干ばつが襲う。もしくは(過剰)豊作でコーンの値段が崩れる。それまで待とう。」

 きっとこの主人公の農民たちはやがては負けていく者たちなのだろう。現実アメリカ社会を見ればそれが分かる。それでも彼らはその日が来るまで農地を守り家族を守ろうとする。

 映画の中で、トムの娘が兄に手綱を持ってもらいながらも馬にひとりで乗れるようになるシーンがある。それを見て笑顔で手をたたくトムと妻のメイ(シシー・スペイセク)。厳しい彼らの生活の中にあるほんの小さな幸せの一シーンだ。

 映画のラストは、家族みんなで川の氾濫を免れたコーン畑で収穫車に乗りコーンを収穫するシーンだ。娘がコーンを手に取り、頭上に投げながら言う。「このコーンはミリオンダラーとなるわ」と。それを聞いて微笑む家族。

 最後は実に微笑ましく終わるのであるが本当はそれで感動して終わればよいのだが…。いや以前この映画を見た時は感動と心強さで終わったのだ。

 だが今の僕はこの映画の終わりと同時に寂しくもなったのだ。それはこの時のコーンはまだ幸せのコーンだった。しかしそれはやがて、「キングコーン」という世界支配を企むモノへと変わっていくのだと…。(もちろんその時にはもうこの家族は農地を没収されていなくなっているのだろうと…。)

 キングコーン。それは人類がつくりだした恐ろしき化け物か?

次回へと・・・。




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