旅行・地域

2016年2月10日 (水)

人類みな対等

先日とある観光地のお土産屋さんにいた時のこと。

中国人らしき女性がお店に入って来た。

お土産を選び、レジで支払いをする際、店主に「No Discount?」 と笑顔で問いかけ、それに対して店主は、「NO~」と答えるという場面をみた。

これを見て、あ~世界は変わったんだなと思った。

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もう20年近く前のこととなるが、かつて僕がバックパッカーをしていた頃、

東南アジア放浪の際、お土産などを買う時は値段交渉が当たり前のことだった。

相手は、日本人はお金を持っているとのことで最初はかなりの額をふっかけてくる。

その為半額、あるいはそれ以下で交渉するのが当たり前だった。

きっと団体旅行などのツアーで来た人たちにとっては、ふっかけられた金額でもそこそこ安く感じられるのでそのまま購入する人も多かったのだろう。

けれども値段交渉は(ガイドブックにも書かれているぐらい)当然すべきこと。

ある意味その駆け引きが東南アジア諸国を旅する楽しみでもあった。

貧乏旅行の身としては粘りに粘っての交渉をしていた。

きっと今もそうなのだろうと思うのだが???(もうずいぶんと海外に出ていないので分からない…。)

ちなみに(僕の場合)欧米諸国では、マーケットなどでは値段の交渉するけれど、建物を構えたお土産物屋さんなどではしなかった。


それが現在では、かつてふっかけてきた(東南アジア諸国の)人々が日本にやって来て、お土産屋さんで「負けてくれないの?」というようになったのだ。

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これは日本の凋落を意味するのだろうか?

それともアジア諸国が力を付けてきたということなのだろうか?


東南アジア諸国を旅していた頃、現地のいろいろな人々と笑いあっていたし、遊びもした。

僕にとっては農村地帯を訪れ子供たちと一緒に遊ぶのが一番の楽しみだった。

けれども今思えば当時は発展途上国といわれていたこともあり、貧しい国の人びとと思っていたところが僕の中にもあったのは確かだ。

決して見下していたつもりはないのだが、それでも無意識に日本よりも格下と思っていたところがあったのだと思う。

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でも、もう今や僕らはそれではいけないのだ。

対等な人々と見ないといけないのだ。

もちろん今でも東南アジア各国に生産工場を置いて、電気製品など数多くの製品を作らせていたりする。

それでもそれは人件費の安い国、まだ日本よりも発展していない国という、ある意味見下した考えはもう持ってはいけないのだ。


中国でも日本ブームが起こっており、日本食レストランも結構人気があるらしい。

値段もそこそこいい値段がするとのこと。

けれども料理に使われる素材(の質)はまだまだ日本からすると低いらしい。

それでも地域によっては給料水準は日本の水準に近づいてきているとのこと。

そんな彼らが日本にやって来て、日本の製品を見ると、品質がいいのに随分と安いと感じるらしい。

日本の製品は安い!と感じるのだ。

そんな社会状況となってきているのだ。

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グローバリズムは否応なしに進んでいく。

正直僕は好きではない。

けれどもそれには急速に地域格差を無くしていき、人間誰もが平等であることを説くというメリットもあるのかもしれない。


先進国、新興国、あるいは白人、黄色人種、黒人。

かつてあった区別はなくなり、僕らは地球人になりつつあるのだ。

みんな地球人として差別することなく、対等に付き合わなければならない時代になっているのだ!

どのくらい先のことかは分からないけれど、いずれ上下(の関係)なくひとつになる時が来るのだろう。

地球はひとつ、人類もひとつ!

One Earth, One Human being

LOVE & PEACE

Lovepeace






らいふあーと~僕らは地球のお世話係~

2015年10月 7日 (水)

「お遍路」という不思議の旅へ出かけてみませんか?

先行き不透明な現代社会です。一歩足を踏み外すと、何かに飲み込まれてしまうようにも思います。その漠然とした不安を解消するがために、多くの人々が四国88ヶ所の遍路旅に出ています。


もう十年以上前のこととなりますが、30代前半の時に歩き遍路をしました。42日間かけて徳島の1番札所「霊山寺」から香川の88番札所「大窪寺」まで歩いたのですが、札所から札所の間にあるいくつかの番外寺を訪れたのを含めると、歩いた距離は約1300キロになります。


その間毎日旅日記を付けていたのですが、それを久しぶりに読み返してみると、お遍路の旅は見えない世界を感じる旅であったと思うのです。そこで今回は旅の間におこった不思議な出来事を書いてみたいと思います。


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発心の阿波

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番札所の焼山寺を参拝した後、神山温泉の近くにある神社の境内にその日は泊まる(野宿する)こととしました。神社の拝殿で寝袋に入って寝ていたのですが、その日の深夜、ビュービューとものすごい強風が吹きつけ、その風の強さは付近のトタン屋根がバンバン音を立てるほどでした。その大きな音で目覚めたのですが、同時に何か私の身体の上1m辺りのところに魔物がやって来ており、グルグル回っているように感じました。けれどそこから下へは決して風が入って来ることはなく、ここから下へは少しも踏み込ませないというような不思議な力を感じたのです。そのお陰で私は安心して朝まで眠りにつくことができました。次の日再び歩いていると、途中に不動尊があり、最初は通り過ぎようとしたのですが、突然引き返したくなり、まるで導かれるようにその不動尊を訪れました。本堂でなんとなくそのお不動さんに昨晩は守られたような気がし、般若心経を唱えさせて頂きました。


鶴林寺から太龍寺を目指して山を登り始めた時に、振り返ると向こうの山の杉の木々が不動明王様のような形をしていました。不思議だなあと思い、山を登る途中途中で何度か振り返ってみたのですが、その度その不動明王様は私の方を向いており、まるでその不道明さまが私を守ってくれている気がしたのです。そして太龍寺では「」という石碑を見つけ、涙を流しました。


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修行の土佐

 
毎日毎日20キロ、30キロ、時には50キロ以上歩いているとさすがに歩き疲れます。その日も歩き疲れ、もうこれ以上は歩くのは無理な状態となり、その場で寝てしまおうと座り込んでしまいました。するとどこからともなく「もうあと少し歩きなさい」と言われたような気がしました。そこで疲れ切った身体と脚に鞭打って立ち上がり、再び歩き始め、200mほど進むとなんと公園がありました。そこにはトイレと水道もあり、安心してテントを張り眠ることができたのです。


同じように土佐の海岸をフラフラと歩いていると、トイレと水道がある砂浜を見つけ、そこにテントを張り、キャンプをすることにしました。その日の夜眠っていると、夢の中に若き日の空海さんが現れたのです。彼(空海)は浜辺で焚き火をしながら、ずっとその炎を見つめていました。そこで目が覚め、起き上がりテントから浜辺へ出てみると、正面に月が出ており、その月が海を照らしてとてもきれいだったのです。


須崎にある番外の不動尊を訪れようと山の中を歩いていた時、そこに近づくにつれて心が騒ぎ出しました。それからだんだん歩く速度が速くなり、最後は走るように山を下りました。そして不動尊に到着すると「ここだ!」と直観的に感じると同時に、涙があふれ出てきたのです。この不動尊とは何か縁があったのでしょうか?そして修行の土佐を終えようとした際、遂にこれまでの無理がたたり膝の靭帯を痛めてしまいました。テーピングを膝から下に巻き付け何とか歩いていたのですが、激痛が走るようになり、もうこれ以上歩くことは無理だと思いました。そこで1日休養日を設け、宿で寝て過ごしたのですが、すると翌日まだ痛みは残っているもの再び(ゆっくりながら)歩けるようになり、結果最後まで歩き通すことができました。


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菩提の伊予

 
宇和島にある公園でキャンプをすることになった時、たまたま同じくそこでキャンプをする一家と出会いました。その家族は車で88ヶ所参りをしていたのですが、ご主人が不動金縛りという数珠の結び方を教えてくれました。そこで自分で不動金縛りを結んでみたところ、エイッと結んだ途端に右の小指が金縛りにあったように動かなくなってしまいました。しばらく唖然として声も出せなかったのですが、数分後再び動くようになりました。小指だけでよかった…。


番外として石鎚山登山を終えて、下山は西の川コースを選んだのですが、途中登山道が十数メートルの大きな杉の倒木でふさがれていました。そこでその木を迂回していると足を滑らせそのまま滑り落ちてしまいました。そこから道に迷い、しばらく山の中をさまよう破目に陥りました。何度も足を滑らせながら、落ちながら、歩いていると、遂に23メートルの高さの滝に落ちそうになりました。落ちる~と思った瞬間バックパックの上に乗せていたテントに植物の蔓が引っ掛かり止まってくれました。その陰で下まで落ちずに助かり、やがて再び登山道を発見しました。


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ということで、これらは旅のほんの一部なのですが、私にとってお遍路の旅は不思議な世界との出会いであり、不動明王さまと空海さんが守ってくれた旅だったのです。いつしかいつもそばに空海さんがいてくれるように感じ、旅の間ずっと約60ℓのバックパックがパンパンになるほど荷物を詰め込み、更にテントを乗っけた状態で歩いており、大変重いのですが、私はまるでその重さが空海さんを背中に乗っけて歩いている気でいたのです。「空海さんは1300年も奥の院で座禅を組んでいるのだから、きっと今では足も立たない状態だろう」と思い、それなら同行二人ということで背負っていってあげようと歩いていました。その為バックパックはいつも本堂まで背負って行っていました。


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お遍路の旅は、自分を見つめ直す旅でもあり、不思議な世界と触れ合う旅でもあります。旅の途中には、出会いあり、感謝あり、涙ありで、きっとこれまでにない経験をすることができます。あなたも不思議な遍路旅に出て見られませんか?
 




らいふあーと~僕らは地球のお世話係

2013年12月26日 (木)

弱肉強食と循環

 「里山資本主義」藻谷浩介 NHK広島取材班 (角川Oneテーマ21)という本がある。その中に「52%、1.5年、39%の数字が語る事実」という項目があり、そこに出てくるのが以下のようなものである。

 52% … 発売から2年以内に消える商品の割合((社)中小企業研究所「製造業販売活動実態調査」2004)
 ちなみに1990年代まではこの数字は8%であり、9割以上の商品が発売後2年以上市場に残り続けていた。

 1.5年 … 新しく発売された商品が利益を得られる期間(経済産業省「研究開発促進税制の経済波及効果にかかる調査」2004年)
 1970年代は開発後25年ぐらいはもち、開発者は1つのヒット商品を生み出せば、定年までは喰っていくことができた。

 ちなみに
 39% … 仕事の満足度((独)労働政策研究所・研修機構 調査シリーズNO.51「従業員の意識と人材マネジメントの課題に関する調査」2007年)
とのことだ。

 この数字を見て大都市(大企業の中枢が置かれている)、大企業(電機メーカーなど)のの現状を考えた。多額の費用と人材を投入し何年もかけ新製品を開発してヒットを飛ばしたとしても、すぐに数多くの後発メーカーが追随しより安いものを出し、利益が得られなくなる。2年でその商品は消えていく。そして開発者達はまた次なる新しいものを要求される。

 例えば液晶テレビ。かつては「世界の亀山」と言われその名を轟かせていたのが、あっという間にメーカーの足かせとなる。稼ぎ頭だったものがすぐにアキレス腱となり、どうにもならないと思われればリストラという言葉が浮上する…。

 果たしてひとりの人間(部署)が次から次へと新しいものを開発できるだろうか。苦労して開発した製品がヒットして一時的に名声を得たとしても、あっという間に競争の波に飲み込まれ赤字となり、コストダウンを命じられるとともに、次なる新製品開発を迫られる。その後ろではリストラがちらつく…。これでは人も企業も疲弊していくのが当たり前だと思う。だから今ではかつての日本のフラッグシップ「ソニー」も「パナソニック」も息絶え絶え。

 それが今の大都市、大企業、そして世界共通品目の世界。苦労してエベレストに登ったとしても、そこにいられるのはほんのわずか。すぐに引きずり降ろされる。まるで足の引っ張り合い。グローバル経済は熾烈な競争社会。油断をすればあっという間に飲み込まれてしまう。更にその中の人々(+ポリティシャン)はあれこれと搾取の方法を考え出す。上記資料の数値は2004年時点だからそれから約10年たつ現在はもっとひどい数値となっているかもしれない。

 リストラ、プレッシャー、欲望、嫉妬etc人間のエゴが生み出した空間は今では多くの人間を苦しめる。そしてどこへ逃げようとお金という亡霊が付きまとう。壊しては作り、壊しては作りの繰り返しでお金を回さなければ成り立たない社会。都会の人々はそのような中に生きている。まさに過酷な弱肉強食世界。

 一方でそのような世界からもう降りようという思想がどんどん台頭してきている。それが里山資本主義。(地方の)地域の中で経済を循環させようとする。そこにはエベレストのような高い山はない。そこにあるのはせいぜい1,000メートルくらいまでの山であり、世界からすれば見えないようなもの。それらはGDPに乗っからないことも多い。けれどもそこには、その地域にしかないものがある。そしてその山や里を豊かにするものがある。それは世界を変えることはないけれど、地域の中で豊かさを循環させ、地域の人々がそれを享受する。もちろん外から来た人にもおすそ分け。外から来た人も楽しんで!

 都会(大企業の中)でしのぎを削って生きるか、それともそこから降りて循環型で生きるか。どちらをとるか。選択するのはあなた。




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2013年10月17日 (木)

念珠への想い+人間はあらゆる醜さを持つけれど花よりも美しい

 時々身に着ける白檀の御念珠。坊主頭に手首に御念珠姿。雰囲気もそのままで、一体どこのお坊さん?と思われがちだけど、至って本人は一般ピープルのつもり…。けれどもその御念珠は僕にとってはなくてはならない宝物。この御念珠があるからこそ今の自分があるんだな。

 振り返れば10年前。60ℓのバックパッカーをパンパンにして、誰が見ても「超重そう!」と思える荷物にテントを背負い四国を歩いていた。頭にバンダナを巻き、上のみ白装束。中途半端なお遍路姿で、88ヶ所寺およそ1200キロの道を来る日も来る日も歩いていた。

 はじめは恥ずかしがり屋のお遍路もどきで、寺に到着し本堂前で般若心経を唱えても、声を出すことができず、心の中でブツブツと…。お参りに来ていた人から「近頃のお遍路さんは声出して般若心経唱えんのやな。」なんて言われる始末。そんなシャイな素人お遍路が42日間のうちに徐々に変わっていき、最後は同じお遍路さんに有難がたがられ、さらには本職の僧侶から褒められるまでになってしまう。

 一体42日間にあのか弱いお遍路もどきに何が起こったのか?

 徳島の1番寺から歩き始めて最初に感謝したのが先達さん(※1)との出会い。その方がくれた歩き遍路の便利シート。そこには歩き遍路が泊まれる場所等様々な情報が1枚の用紙にまとめられており、その後の道中で大いに役立った。そして彼が体験したお遍路道中のことをいろいろと話してくれ、僕の中の不安を随分と和らげてくれた。
 
 初めは恥ずかしくて仕方のなかったお遍路姿も歩き続ける中で少しずつ、お遍路であることに慣れていき、段々それらしく歩いていくようになった。そして途中途中のお接待所でお茶やお菓子をいただいたり、善根宿(※)を使わせていただいたりした。また食堂で食事をした際には一品サービスしていただいたり、ある時には僕がテントをバックパックに乗っけているのを見て、軽トラを止め「ナベ持ってるでしょ?」と畑から摘んできた菜の花を大量にいただいたりもした。(←インスタントラーメンを買ってきてラーメンの具として頂いた。)

 88ヶ所のお寺は山の上にあることも多いのだが、山道をひたすら登っている時に、地元の軽トラのおばちゃんが僕が背負っているあまりにも重そうな荷物を見て、「乗っけていってあげようか?」と声をかけてくれ、僕は歩き続けることをモットーにしていたので断ると、「それじゃあ荷物だけでも、上まで運んであげようか?」といってもらった。ちなみにお遍路の途中からこの重たい荷物が僕の中では御大師様に変り、弘法さんも高野でずっと座禅を組んでいたのだから、脚も弱って歩くのも大変だろうと思い、空海さんを背負って歩いている気分となっていたので、荷物を運んでくれる申し出、あるいはお参りしてくる間(店に荷物を)置いておきなさいよという申し出も、(丁重に)お断りした。やっぱ空海さんも本堂までお参りしたいだろうからね。

 そして時には地元の人、あるいは車などでお遍路をしている人から「お接待させてください」とお金をいただいたりもした。時に福沢諭吉さんまでもいただいた。

 初めはいただいちゃったと嬉しく思っていただけなのだが、多くのお接待を受けるうちに、このお接待をしてくれる人々~親切に道案内をしてくれる人、お茶やお菓子をくれる人、宿を提供してくれる人、そしてお金をくれる人など~に対して感謝の気持ちで一杯となり、何かこの有難い行為を返さないといけないなと思い始めた。

 そんな時ひとりのお遍路歴の長そうな先達さんに出会った。その人は白いあごひげをはやし、片目が閉じた70歳ぐらいのいかにも…という感じの人であったのだが、目があったと同時に話しかけてきて、突然言い始めた。「途中、途中でお接待をもらったじゃろ。中にはお金をくれる人もいたろ。それはお前にくれたものじゃない。それは人々が(お前を弘法さんに見立て)お前に託したお金じゃ。中にはすぐに(好きなものを買って)使ってしまう奴も多くいるが、本来なら、半分はお参りの際にその人の分としてお賽銭箱に入れるぐらいの心がけが必要じゃ。お接待という行為をよく考えろ。」といって去って行った。

 一瞬「あの人は何だったんだろう?」と思いもしたが、言われたことも「確かにその通り」と思い、長老の言った通りにしようと思ったのだが、心のせこさが働き、「半分もお賽銭箱に入れるのはもったいないなあ。3分の1をお賽銭に入れて、残りは取っておこう。いくらかは使わせてもらって…。」と考えるようになった。

 そして再びお遍路道を歩いていく中で、テントで泊まっていると、おにぎりを作ってもってきてくれたり、お風呂屋さんがお休みの日なのに、シャワーだけでもとボイラーを沸かしてくれたりと、その後もいろいろなお接待を受けているうちに、感謝の気持ちとこのお礼を何とか返したいという気持がどんどんと強くなっていった。「なんとか返さなくっちゃ。」「絶対返したい。」「直接本人には返せないけれど、間接的にでも、今の僕にできることは…高齢者介護…」などと考えながら歩き、そして思いついたのが、

 「この気持ちを忘れないために、いただいたお金で(数珠か)何か記念となるものを買おう。そしてそれを見たら当時の気持ちを思い出せるようにしよう!できればお遍路歩きを成就させたときに買おう。」ということ。

 ということで、いただいたお金は使わずに歩き続け、山を駆け上り、88か所最後の大窪寺へ。本堂、大師堂でのお参りを済ませ、晴れて成就を果たし、すがすがしい気分でいると、お参りにきた方から一緒に写真を撮らせてといわれ、気持ちよくそれに笑顔で応じた。そして見渡せばそこにはお店があり、手ごろな御念珠があった…。

 その念珠はその後の寺修行の時にはずっと身に着けていたのだが、いつの間にか引き出しの中にしまわれてしまい、月日が過ぎていく。その間忘れていたわけじゃない。僕なりに高齢者の分野で働いて、入居者のためにがんばって…、それなりに社会貢献した。

 ある時再びその念珠をしまわれていた引き出しから取り出して瞑想用に飾っていたのだが、一昨年ぐらい前から再び時々(ここぞという肝心な時には)身に着けるようになり、最近はしょっちゅう身に着けるようになっている。

 その念珠には薬師三尊が彫られており、薬師如来を真ん中に日光菩薩、月光菩薩が両脇を固めている。薬師如来とは薬師如来は東方浄瑠璃世界(瑠璃光浄土とも称される)の教主で、菩薩の時に12の大願を発し、この世門における衆生の疾病を治癒して寿命を延べ、災禍を消去し、衣食などを満足せしめ、かつ仏行を行じては無上菩提の妙果を証らしめんと誓い仏と成ったと説かれる(ウィキペディアより)。そして日光菩薩は正式名称を「日光返照菩薩」といい、一千の光明を発して世の中全てを照らし出し、苦しみの根源となる闇を消滅させるとされる。月光菩薩は正式名称を「月光返照菩薩」といい、月の光を象徴して薬師如来の教えを守る役割を担うとされる(key:雑学辞典より)。

 その最強念珠を見ては思う。この念珠が守ってくれている!。この御念珠は心を落ち着かせ、力を与えてくれる。そして今ようやく僕なりに(お遍路時代に受けたお接待という『恩』を)社会へと返せるときがやって来た!

 そんな中でもちろん時には嫌だなと思える人にも出会う。理不尽なことを言っている人にも出会う。けれどもそんな時には数か月前に知った「人間はあらゆる醜さを持つけれど花よりも美しい。」という言葉を思い出す。この言葉を知ってからは、例え人から嫌なことを受けたとしても割と早くに気持ちを切り替えることができる。プラス手首につけている御念珠を見ればその効果は倍増。Wパワー。そしてそこにあるのは感謝。たとえ(というか、しょっちゅう)忘れても、忘れても思い出した時には感謝する。

 ということで、社会に返さないとね。社会の変化は速くなる一方。そしてその流れについていけない人は増えてく一方だろう。けれどもこんな時代だからこそ僕にもできることがある。ワクワクする想いと一緒に、念珠を身に着け、言葉を発し、未来を切り拓く力を与えてもらう。

 意識が現実を創造する。目の前に現れている世界は「どうなっているのだ!」ということもあるけれど、自分自身が思った通りの世界が展開されている。念珠と言葉をもってして、意識を進化させなければ!

 扉は開かれた!



先達…お遍路の先輩
善根宿…お遍路さんを無料で泊めてくれる場所




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2012年10月28日 (日)

お金になりはしないけど、価値はある。

とある一日
 瞑想
 レポート読み
 ホームページのアップ
 読書
 じいちゃん・ばあちゃんの入浴介助
 海辺のウォーキングと空き缶・ペットボトル拾い
 みかん畑のゴミ拾い
 映画館に行き映画鑑賞

 どれもお金にはなりはしないけれど、やる価値はある。

 僕のやりたいことのひとつは新しい価値を生み出すこと。あるいは再発見すること。

 大人になるとお金に換えられることが価値あるものの如くに動いているけれど、ホントはそれだけじゃないものが山ほどある。

 海が少しでもきれいになること…。とっても価値あることだと思う。

 介護が人任せになった今、じいちゃん、ばあちゃんを風呂に入れてやる。これまた価値あること。

 売り先もほとんどないけれど、無農薬みかんの栽培に、その環境としてなるべく石油製品類、ガラス類のないこと。(微生物いっぱい&はだしでも大丈夫な畑づくり。ヘビはいるけどね。毒は持ってないから。)

 稼ぐとは、元々、お金などを得ることが主ではなく、仕事に励むことを表した。あるいは、つむいだ糸を「かせ」という道具に巻くことを「かせぐ」という。かせは休みなく動いて見えることから、かせのように仕事に励むことを「かせぐ」といった。また、稼ぐの「かせ」は「かせ(日迫)」の意で、昼夜に迫り、泊るところを知らないことを言ったとする説もある。とのこと。(クリエイティブ・コミュニティ・デザインより)

 ということで、仕事に励むことは稼ぐことであり、僕にとってはその中からどのような価値を生み出すかが、「稼ぐ」ことの主題となる。

 最近思っていることのひとつに、お金には変えられないけれど、どれだけ豊かな価値を生み出すか。あるいは豊かな価値を見つけ出す(掘り起こすか。)ということに、すごく関心を持っている。

 それをたくさん増やしていけば、俗に中山間地域と呼ばれるところは、誰もが豊かな地であることを理解できるのではないかと思うのだ。ホントは中山間地域には豊かさがあふれている。けれどもそれらの多くが(一見すると)お金にならないものなので、誰もが忘れ去ってしまっている。

 稼ぐのはお金ばかりじゃない。「豊かさ」を稼ぐのだ。もちろん今の社会で生きてくためにはお金も必要だ。けれどもそこばかりに固執してしまうと、あまりにもちっぽけな世界に固まってしまう。

 だから、稼ぐぞ!働いて「新たな価値」に「豊かな価値」をいっぱい稼いでやる。そしてそれをいろいろな人に見せるんだ。そしてそのうちの何人かでも新たな価値観に気付いてくれたならば、これ以上なことはない。

 豊かさとはモノを持っていることばかりではない。それを感じられること。そしてそれは見えることばかりじゃない。見えないものの気付くともっともっともっと、そしてずっとずっとずーっと豊かになる!


2011年11月 1日 (火)

まじめにスピリチャルと合体

 「子供は親を選んで生まれてくる。」ってことを信じますか?
 僕は最近このことを本で読んだり、人から聞いたりしたのだが、先日どうも本当だなということに出会った。
 それは障害者の自立支援のNPOを立ち上げ、障害者も働くレストランをオープンしている人に出会い、話を聞いたのだが、そこでピン!!と来てしまったのだ。

 実はその方の子供は障害を持っているらしく、それがきっかけで、その方は福祉のことを学び始めた。そして福祉の現状を知り、もっと障害者も自立できる仕組みを作りたいと思い、そして考え付いたのがそのレストランだ。そこは障害者も働いているけれども、如何にも障害者が働いていますというような雰囲気は全くなく、ごく普通の…というよりも先進的なレストランだ。
 まずはバリアフリーとしてスロープがあり、車椅子でも入れる設計がされているのであるが、それがさも当たり前というか、普通に存在しているのである。
 そしてそのレストランでは3名ほどの障害者が働いているそうなのだが、僕は全くそれを感じることはなかった。もちろん僕はそこが障害者自立支援のNPOとしてあることを知っているので、どこかで障害者が働いていることは知っている。おそらく厨房かな(?)とか、この食器類は和風の弁当風な容器となっており、障害者でも洗えるように工夫しているのかなと、考えることがあったが、普通の人ならそこまで考えることはなく、このレストランの特徴とだけ理解するだろう。

 そして僕が何よりも驚いたことはトイレに入った時だ。そのトイレはやはり障害者が使用できるように設計されていた。当然と言えば当然のことなのであるが、そこは障害者向けのためのトイレというのではなく、一般者も障害者も一緒という雰囲気に作られていたことだ。しかもデザイン的にも美しかった!
 とにかくそこは障害者も健常者も一緒です。それが当たり前という雰囲気があふれているのだ。決してそれは押しつけではなく、あくまでもおしゃれで、人々が楽しくおしゃれに食事ができる場所なのだ。レストラン自体のデザインもすごくおしゃれだ。カップルで行っても全然okな場所だ。
 僕がレストランを訪れたのは平日の12時過ぎだったのだが、、子供連れのママさん達のランチタイムの場所ともなっており、すごく賑わっていた。

 ソーシャルインクルージョン、あるいはインテグレーションという言葉がある。これは僕が10年近く前に社会福祉士の資格を取ろうとしていた時に、授業で出てきた言葉だ。障害者も一般者も区別することなく、それが当たり前であること。例えば、ショッピングセンターに行くと、男女のトイレと、障害者向けトイレとに分かれているが、男女のトイレのどれもが障害者も使えるような設計であれば、そこに一般者と障害者のわけ隔てはなくなる。そんなふうに習った。そのときの記憶が僕の中で蘇った。

 そして僕は、その方から障害者を持つ母親として、障害者が自立していくことを考えて始めたということをきき、僕はその人の子供が、その人にその行動を起こさせるために生まれてきたのではないかと思った。

 僕は人間はなぜこの世に生まれるのかというと、「成長するため。」と第一に答える。人間は不完全な存在である。だから少しでも完全となるようにいろいろな経験を積み成長していく。だから人間は生まれてくるのだ。もし人間が完全ならばこの3次元という不自由な世界に生まれてくる必要はないはずだ。
 おそらくその子は母親を選び、母親に成長するきっかけを与えたのだろう。そして自らも成長するために、その(障害を持つという)ポジションを選んだのだろう。そんなふうに思う。

 最近僕は思うようになった。子供がもし親を選んで生まれてくるならば、僕はなぜ僕の両親を選んだのだろうかと。そこにはきっと理由があるはずだ。そう成長するための理由がきっとあるはずだ。そういう意味で考えてみることも秋の夜長にはいとをかし…。


 ちなみにこのお店は愛媛県北宇和郡鬼北町にある手作り菜宴あ×うです。その田園風景が心和む小さな町に、この素敵なレストランはあります。食事も町の風景にも癒されます。もちろん地産地消。


2011年1月19日 (水)

カンボジアの風

 12年ぐらい前のカンボジアでの出来事。ベトナムからプノンペン入りした僕は1泊4ドルの安宿を現地で知り合った日本人バックパッカーとシェアすることにした。そこは2階からが部屋で、1階はカフェ兼レストランとなっており、僕らは1階のカフェで食事をとりそしてビールとお茶を飲みながら話をしていた。
 そこには他にも数名の日本人旅行者がおり、いつしか合流して現地情報等の交換をしあった。当時のプノンペンの治安はまだまだ悪く、(今現在はどうなのか分からないが…)夜は1人では外を歩くのはかなり危険であり、もし出るとすれば、目的地まで車(タクシー)もしくはバイクタクシーで行くしかなかった…。そしていつも22時頃を過ぎると町のどこかで銃声が聞こえてきた。聞くところによるとそれはどうも警官が不審者に対して威嚇発砲をしているらしい…。(その銃声の音が僕らのそろそろ部屋に入って寝るか…との合図となった。)
 そこにいるのは薄汚く胡散臭い飢えた男たちの集団であり、話はどこそこの国や町の情報から始まり当然のことながら女性の話題にもなる。カンボジアで女性を買うには…という話が出てくる。それはそれでいい。それも飢えた男たちの楽しみ(?)だ。けれども学生を卒業したばかりぐらいの男が、「僕エイズが怖いから、11歳の女の子を買っちゃいましたよ。」と笑いながら話した時にはそいつを殺してやろうかと思った。
 話は変わり、その宿には「情報ノート」というものが置いてあり、そのノートには世界のバックパッカーたちからの旅の情報やら、日記のようなコメント等が書かれてあり、「船でシェリムアップ(アンコールワットのある町)に行っていたら、岸から鉄砲の弾が飛んできた。」などが書かれてあった。僕はこの後そのシェリムアップに行く予定だったので、ちょっとドキドキした。
 「どうやっていこうか?車で行くのはちょっと怖いし、やっぱり船?でも鉄砲の弾が飛んできたって書いてあるし・・・ここは安全策で飛行機?」と頭を悩ませた。結局行きは船、帰りは車で行くこととなるのだが…。ちなみに当時はポルポトがまだ生きているころで、タイとの国境付近に潜伏しているとの事だったが、その半年後ぐらいにポルポト死亡するとの記事が日本の新聞に大きく掲載された・・・。
 次の日の夜また1階のレストランでみんなと話をしていると、ひとりの若き日本人が「僕はカンボジアに来るのは今回が3回目なんですよ。」とのこと。「へえ3回目すごいねえ。そんなにカンボジア好きなんだ。でもこの混沌とした雰囲気イイよね。」と話たのだけれども、僕は内心「彼はカンボジアに女でもできたかな?カンボジアの女性ってどこか野生的な美があり、日本人の女性には決してない魅力があるからな・・・。」と勝手に想像してしまった。
 翌日僕は船に乗り込み、「鉄砲の弾が飛んできませんように。」と真ん中の席を陣取り、小さくなり座っていたのだが、高速船は無事に何事もなくシェリムアップに到着する。
 シェリムアップはプノンペンと違い、もっと平和的で安全な雰囲気で、スローガンにも「観光で豊かに・・・」のようなことが書いてあり、実際暗くなっても道路を歩くことができた。
 シェリムアップでも1日5ドルぐらいの宿をシェアし、翌日からアンコールワット、アンコールトム等の見学に出かけるのだが、その宿のカフェでボ~っとしていると、そこにも「情報ノート」が置いてあった。開けてみると、「青年よインドへ行け!」とか「陸路でタイに抜ける方法(ただしパスポートが血だらけになるかも・・・)」など書かれている。「いや~恐ろしいな。でもやってみたい気がする。でも死にたくないな…。でもインドは行ってみたいな・・・。」とブツブツ。ちなみに友達となった日本人の一人はタイとカンボジアの国境が開かれたという話を聞きつけ、“運だめし”で陸でタイに行きますと、行ってしまった・・・・。その結果は・・・後日彼とは日本で電話で話せました。)
 そして情報ノートをずっと興味深く読んでいると、ひとつ最近書かれたある文章を見つけた。そこにはこう綴られていた。
 「今回でカンボジアに来るのは3回目になります。今回も日本から古着をたくさん持ってきました。これをあげた時の子供たちが喜ぶ顔が見たくて・・・。」と書かれてあった。
 「ああ(プノンペンで出会った)彼だ!彼はこのためにカンボジアに来てたのか!」と僕は感嘆の声をあげた。それに比べて僕は・・・。(ちなみに僕は後日プノンペンにあるユニセフの事務所を訪れ、何でもいいからボランティアで働かせてくれと頼んだのだが断られ、仕方なくそこに売られていたレターセットを買った・・・。)
 このような若者がどんどん増えることを僕は望む。
 


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2010年10月31日 (日)

分水嶺

10年以上前のことだ。僕はアメリカのイエローストーンナショナルパークにいた。当時は企業に務めていたこともあり、一週間程度の短い夏休みだった。その夏休みをこのアメリカ最初の国立公園でキャンプをして過ごそうと思ってやってきたのだが、現地に到着してから時差ボケもあり体調が悪くなり、風邪を引き体が熱っぽくなってしまった。

当然体力が落ちてしまったこともあり仕方なくキャンプをするのをやめ、宿を取りゆっくり過ごすことにした。(せっかく巨大バックパックにテントを背負い成田まで電車を乗り継ぎそして、飛行機も3度も乗り継いでやって来たのに!しかも到着したのは夜中の2時ごろで、そこは小さな小さな空港で、外に出るとタクシーの一台もいなかった…。そこでその時空港にいた唯一の職員の人に頼み込んで、街のモーテルまで連れて行ってもらったことを今でも覚えていおる。あの時想像以上に寒くて震えたのだ。)

 休暇後半体調も次第によくなり始め、体も動くようになってきたので僕はイエローストーンナショナルパークの主要観光名所をバスで巡るツアーに参加した。 

 20人程度のマイクロバスには十数名の観光客が乗り込み、運転者はちょっと今で言うメタボリックな(当時はそのような言葉はなかったのだが…)30代ぐらいの、陽気でジョークを飛ばしつつもその仕事とこの国立公園いかにも愛しているという感じのアンちゃんだった。(名前を聞いたけれどももう覚えていない。仮にリックとしておこう。)

 リックは運転をしながらマイクを通じてこの国立公園のその広大さ、歴史、山や動物のことなどさまざまな説明をしてくれる。残念ながら僕の英会話能力は日常会話ができる程度で、その話のスピードについていけずに半分程度しか分からない。

けれどもその話の中で「ここイエローストーンのコンティネンタル・ディバイドは…片や…太平洋へ。片や…方向を変え…ミシシッピリバー…メキシコ…」と運転をしながらマイクで説明をしてくれ、「コンティネンタル・ディバイド?大陸・分割、太平洋へ・・・ミシシッピ川となりメキシコへ?」とよく分からないながらも、なんだか魅力に惹かれる話を聞いた。

 そしてその夜英和辞典と簡単な地図を見ながらその話をまとめてみた。「このイエローストーンナショナルパークはロッキー山脈の中にあり、ここは北米大陸の分水嶺に当たる。ちょうどここに降った雨は二手に分かれる。一方はスネークリバーの水となり太平洋に向かう。片やもう一方ではその雨水は一度この大陸の中央へと向かい山脈を迂回し、そして今度は大きく向きを南に変え合衆国で最長のミズリー河となり数千キロながれ、やがてミシシッピ河と合流する。このミシシッピ河は世界の3大河川といわれ、この北米大陸を南へと流れ、遂にはメキシコ湾へと流れていく。」ということだ。

 そして僕は想像した。もし僕がこの地の石ころだとしたら、どちらの川を転がっていくだろうか。片やロッキー山脈から(地図上では)急流のように太平洋という広大な海へと向かっていく。あるいは長い長い何千キロの流れの中を転がっていき、メキシコ湾を目指していくか。 

ちょうど僕はこの頃仕事を始めて4年近くになろうとしており、この先どうするか考えていたころなので、それは僕自身の人生のように感じ、人生物語として重ねていった。

 翌日イエローストーン最後の1日、僕は体力も回復したのでレンタサイクルでマウンテンバイクを借り、公園内をサイクリングすることにした。広大な公園なので限られた時間のなかではそのほんのごく一部しか走ることはできないけれども、その日は晴天に恵まれ、気持ちよく自転車を走らせることができた。調子の悪かったころの鬱憤を晴らすかのように、ワクワクしながらペダルを踏んでいく。まだこのころのマウンテンバイクは重かったけれども、それ以上に気分は高揚していた。

途中湿原地帯を通ると、そこを流れる川はグネグネと蛇行しながらゆっくりと流れていた。僕はそこで自転車を止めそばにあった岩の上に座りその河と風景を眺めながら、再び分水嶺のことを考え始めた。このまま今の会社にいるか、それとも飛び出して新しい道を歩んでいくか。その平坦な湿原の中をゆっくりと川の水は流れていく。ここから見るまるで止まっているかのようだった。けれどもその水は確かに流れている。そしてその湿原の中にポツリと1,2本の木が立っていた。なんだかその木が今の僕を象徴しているように感じた。

「よし歩みを進めよう!僕が選ぶ道はでっかい太平洋に行くのか、それともメキシコ湾に向かって長い長い旅をするのかどちらか分からない。けれども確実に一歩を踏み出そう!とにかく転がり始めるんだ。」と僕は決断した。

あれから10年以上の日が経過した。振り返ってみると僕が選んだのはどうやら長い長い道のりのようだ。今どの地点にいるのだろう?ようやく山脈を迂回して新たな方向に向かおうとしているのか。それともまもなく大河に合流するのだろうか。いずれにしろまだまだ先の長い道のりであることは確かなようだ。このちっぽけな僕という石ころはまだまだ転がっていく。いつかは分からないけれど、やがて出るであろう大きな海を目指して。

・・・・・・・・・

それまでこの石ころはあるのかな。削られて丸くなって、やがて粉々になり水と一体化してなくなってしまうかな。それもいいだろう。万物と一体化するのなら。&その頃にはきっと汚染された海もきれいになっているかな?