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2017年10月

2017年10月29日 (日)

選択の時:茶番劇の中に生きる or 大地に根を下ろして生きる

イタリアにあるコロッセウムと呼ばれる競技場をテレビやネット等で見たことがあると思います。中には実際に現地に行ってみたという人も多いことでしょう。そこでは征服した地から連れて帰った奴隷に剣を持たせ戦士として実際に戦わせ強い方が生き残る闘いが行われたり、剣闘士と猛獣が戦いどちらが勝つかという闘いが行われていました。


中世の時代広大な領土(属州)を得たローマ帝国は市民に無償で食糧を配布したり、剣闘士試合や競技といった見世物を毎日開催して娯楽を与えました。そうしてローマ市民はそれらの恩恵を享受したわけですが、権力者がそれらを行った目的は市民を政治に対し盲目状態にとどめえおくためでした。この愚民化政策を詩人ユウェナリスは詩篇で「パンとサーカス」と表現し、当時のローマ社会の世相を揶揄したのです。


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さて現在社会に戻り、ここ数年実施日本の現政権が行っている政策は、株価を上昇させることと、オリンピックを始め数々のスポーツに熱狂させることです。


考えてみてください。今の日本はかつてないほどにスポーツがクローズアップされているのではないでしょうか。オリンピックは当然のことながら野球、サッカー、陸上、水泳、スケート、最近では卓球にバトミントンなど様々なスポーツが連日メディアに取り上げられ人々の興奮を煽っています。そこには文化が成熟したということもあるのでしょうが、スポーツに熱狂させることによって国民の社会に対するフラストレーションを発散ということもあるように思えます。


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さて、このような記事を見つけました。

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毎日160億円を株式に投資する謎の人物(団体)Xがいるそうです。お陰で株価は下がることなく毎日上昇し、連続上昇記録を更新しました。


またこのような記事もありました。

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これらの記事が意味することの想像はお任せしますが、現政権がとる政策はまさに現代版「パンとサーカス」ではないでしょうか。「株価とスポーツ」名付けてもいいと思います。


さて今回衆議院が解散され総選挙が行われたわけですが、結果自公の政権が3分の2以上の議席を維持したということで、日本人の多くがこの「パンとサーカス」ならぬ「株価とスポーツ」政策を選択したのではないでしょうか。


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多くの属州を得た結果ローマは潤い、沢山の食料を得ることとなります。そのため当時の貴族たちは有り余る料理を食べるために、嘔吐するための薬飲み、食べては吐き出し、また食べるという生活を繰り広げたそうです。


一方現在の日本では多くのテレビ番組等でグルメが紹介され。芸能人をはじめレポーターがそれらがいかに美味しいかコメントしています。中には大食いタレントがいかに食べるか、あるいは激辛グルメをいかに食べるかなどの様子が放送されたりもしています。またネットでもグルメレポートが人気となりカリスマブロガー達がいかに美味しいものが提供されているか、そしてそれらを食べての感想が日々更新されています。現在の日本はなんだか現代晩ローマ帝国と似ているように思うのです。


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さてそのローマ帝国において、その後の歴史をみてみると、強大な帝国の衰退が起こり、東西に分裂します。そして遂には消滅に至ります。一方日本はここ四半世紀以上前のバブル経済の崩壊から一貫して衰退してきているわけですが、現在のグルメの状況はバブル時代からの延長線上にあるといってもよく、更に今回懲りずにそれを助長する「株価とスポーツ」政策が支持されたこととなります。さてこの先一体どうなるのでしょうか???


ただ私が思うことは、今回の選挙の投票率は戦後2番目の低さということもあり、日本人の多くは愚民化が進んでいることもあるのでしょうが、選ぶべき政党も政治家もいないということではないでしょうか? 今や国民が信頼するに値する(国政)政治家はいないというのが私の実感です。


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現代の日本の社会において権力者の象徴が政治家(+官僚)大企業(いわゆる財界)、そしてメディアであると思います。そしてそれらは一緒になって狐と狸の化かし合いを繰り広げ、国民に茶番劇を演じています。しかしながらそれらの様子はどんどんネットでネットで暴露され、多くの国民が真実に気づき、それらにつきあうことにうんざりしているのではないでしょうか? 更に一部の国民は未来を見据え始めたのではないかと思うのです。それは国家の時代、大企業の時代は間もなく終わりを迎えるということです。


これからはグローバルな時代でありつつも地域社会の時代へとなりつつあります。また多くの人を標準化させシステムに組み込むことよりも、一人ひとりの特性を生かす時代へとも移ってきています。それは強力な国家システムも大企業システムとも相反する世界です。つまり国家も大企業も衰退していく運命にあるのです。そこで今本当に問われているのは、この先この茶番劇に巻き込まれ翻弄されて生きていくか、それとも自分自身を生きていくかということだと思うのです。


自分自身を生きるとは、自分の土台をしっかりとすることです。(世の中)何が正しく、(自分の人生で)何をなすべきなのか、そしてどこへ向かって生きていくか、つまり自分自身がどう生きていくかを定めるということです。


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パンとサーカスならぬ「株価とスポーツ」に群がりそれに熱狂していくのもありだと思います。それはそれなりに波乱万丈に飛んだ生き方ができるのかもしれません。一方で大地に根をおろして生きる、自分自身の足元をしっかりさせて生きていく。どちらを善しとするか、そして天はどのような世界を祝福してくださるのか、それぞれの次元でもって判断する時が来ているのだと思うのです。





らいふあーと~僕らは地球のお世話係~

2017年10月11日 (水)

仕事って何だろう②:その意味と価値を広げる

働く(仕事する)ということについて改めて考えていますが、前回は仕事するとは、社会に必要(と思われる)ものを提供し積み重ねていくこと。そして社会のニーズに応えていくこと。あるいはそこから社会をリードしていくことということを書きました。


それが現時点での私が考える「働く(仕事する)」ということの定義なのですが、実はもうひとつあります。それは現代社会の中でほとんどの人が、「働く(仕事する)」とは、お金がつきものである、つまりお金に換算できるという考えを持っているということです。いえ、そこに縛られているともいえるでしょう。私はこの「働く=お金に換算できる」という概念、縛りを変えられないものかと思っています。というのはかつて重症心身障がい児者と呼ばれる人たちとの出会いがあったからです。


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重症心身障がい児者とは、重度の肢体不自由(身体障がい)と重度の知的障がいを併せ持つ人たちのことです。もっと簡単に言えば、小学校12年生ぐらいまでの知能かつ、寝たきり状態の人たちといえば想像できるかと思います。そのような人が日本には約43,000人いるとされています。


このような状態の人たちですから、一般的には働くことはできないと言われています。実際かつてある(ビジネス)プレゼンテーションの場で彼らのことについて話しをすると、プレゼンの後その場にいた人から「彼らは働くことができないですよね。」といわれたことがあります。その時「そうじゃない!」と説明したのですが、彼は「はあ?」と分かってもらえませんでした。


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私は数年前に初めて重症心身障がい児者たちに出会いました。彼らの在宅生活の調査を施設から依頼されたのがきっかけです。その際多くの重症児者と出会いました。私と同じぐらいの年齢の人から、20代、10代、小学1年となったばかりの子など様々な年代層の人たちと出会い、そしてその家族とも会いました。そのような状態の彼らとの(初めての)出会いはあまりに衝撃的であり、かつ深く考えさせられるものでした。


彼らとの出会いを通じて、生きるとは何なんだろうと考えたこともあります。また彼らから(仕事を遂行する)力を与えられたこともあります。あるいは彼らがそこにいるだけで、心を落ち着けられたりもしました。更には家族をつないでいる、時には彼らの存在が地域をつないでいる光景を見ることもありました。話しをするわけでもなく、寝たきり状態であるにも関わらず、彼らは周りの人々に影響を与えているのです。それを通じて私は、たとえ寝たきりで言葉がしゃべれなくても彼らは彼らなりの役目があり、その役割を果たしている、彼らには(生きる)価値があり、彼らは働いてもいるのだと思ったのです。


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彼らはお金を稼ぐわけではありません。癒しを与えたからといってお金を請求することもありません。ただそこにいるだけです。けれども彼らはそこにいて人々に影響を与えるだけの価値を持っているのです。そしてその価値を日々積み重ねているのです。この価値(の積み重ね)こそ彼らの働きであり、仕事ではないかと思うのです。


つまり働く(仕事する)とは、社会に必要とされる価値を提供すること、それを積み重ねていくこと言えるのではないでしょうか。そこにお金に換算できるとかできないということは関係ないのです。言い換えると、働く(仕事する)とは、人々に喜びを与え、幸せにしていく行為と言えるのではないかとも思います。


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もしこの概念が広がると働く(仕事する)ということがもっと自由になものとなって来るのではないかと思うのです。人々は豊かになり、いろいろな人やものを大切にするようになるかと思うのです。そして共生社会が広がってくると思うのです。


現代社会は何もかも使い捨てです。それはモノだけでなく、人や人の心までも使い捨てとします。そのような社会に未来はないといってもよいでしょう。持続可能な社会、本当の意味で社会を発展させていくために何のために働く(仕事する)のか、私たちは再度考える必要があるのではないでしょうか?





らいふあーと~僕らは地球のお世話係~

2017年10月 4日 (水)

仕事って何だろう ①:積み重ねていくこと

大人となったら働く(仕事をする)ことは誰もが当然のことと考えていると思います。このことは日本だけでなく世界共通のことでしょうし、太古の昔から人々は働き続けてきています。けれども現在二ートと呼ばれる若者だけでなく中高年の引きこもり者も増えていく中で「働く(仕事する)」ことの意味が問われているようにも思います。そこで改めて私たちは一体何のために働くのかを考えてみたいと思います。


ライオンやゾウ、イノシシにしろ鹿にしろ動物にとっての働くとは食べ物を得るということになるのでしょうが、脳を発達させてきた人間にとって「働く」ということはそれだけではなくなっていることは確かです。食料の安定的な確保、寒さと雨露をしのぐ住処と衣類を得て、更には「学問」という知を学び続けるようになった人間において、働く(仕事をする)とは「生」の意味を問いかけるものになっているのではないでしょうか。


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そこでまずは一般的に働く(仕事する)とは何なのかと思いインターネットで「仕事 何」で調べてみたところ、「社会に貢献すること、人とのつながり、自身の成長、人生そのもの、そしてお金を稼ぐことetc」ということが出てきました。面接上の文言では、社会に貢献すること、人とのつながり、自己の成長などが模範解答となっているようですが、実際のところは20代ではお金を稼ぐことから始まり、年を重ねていく中で、成長、貢献、そして人生となっていくのがおおよそのパターンであるようです。(ちなみに「仕事 目的」で検索するとまた違ったものが出てきてこちらも面白いです。)


私自身を振り返ったところ、これまで何のために働く(仕事をする)のか節目節目で考えてきたように思うのですが、私の場合どちらかというと、「Live to work(働くために生きる)ではなく、Work to live(生きるために働く)」ということを常に考えてきたことが挙げられます。そのためいかに(人生を)生きるかを重視し、働くことはその手段としてしかとらえて来なかったこともあり、正直40半ばを超えるまで「仕事って何か」ということを正面から考えてこなかったように思います。


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現在私は仕事として、「一般企業における障がい者の雇用を通じてよりよい職場づくり」を行う(営利)事業、そして障がい者の支援を通じて誰もが暮らしやすいまちづくり」を行う(非営利)事業等を実施しています。これらは私の人生経験を通じて、今必要であると感じたこと、やりたいと感じたことを事業として行っているのですが、様々な事例を参考としつつも、私自身が考え組み立ててきているものです。ある意味オリジナルといってもよいのではないかと思います。


これらの事業は3
年前から始め最近ようやく少しずつカタチになりつつあるのではないかと思っているのですが、正直(お金の面も、精神的にも)しんどいと思うことも多々あります。それでも楽しいと思える感覚もあり、それを感じた時には喜びが湧き上がってきます。そして同時にこのところのカタチになりつつあることを通じて思うことは、「仕事とは、積み重ねていくものだと」言うことです。


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「仕事」とは、その字の如く「事(こと)に仕える」ということです。この仕えるとはもともとは君主や目上の者のために(自身を)用いるということから「捧げる」という意味が込められていると思います。それでは今の時代何に自分自身を捧げていく(奉仕する)かということになると、まさに「人(他者)」であったり、「社会」であったり、あるいは「地球(大自然)」であったりするのではないでしょうか。それが現在の「仕事」の大前提となってくるのではないかと思うのです。もちろん中にはお金ということもあるのでしょう。それも確かです。まだまだ今の世の中お金がなければ生きていけません。けれども世界中でお金の獲得合戦が繰り広げられ、その振り子が振り切った現在、(日本の)若い人を中心にお金への関心が薄れ、シェアする概念が広がり、モノにこだわらなくなる現象が広がる中で、あるいは田舎に移住し物々交換する機会が増えてきた人々を見ていると、この先お金が一番の重要要素として取り上げる必要はなくなってくるのではないかと思うのです。


「自分が(人や社会に)今必要と思うこと」、「自分のやりたいと思うこと」を行っていると、最初はどれほど自分がよいと思ったことを提供しようとしても、それは(社会とは)ミスマッチなところも出てくるかもしれません。すなわち受け入れられないこともあります。(私の場合実際にありました。)けれどもその次また自分が必要と思うこと、やりたいと思うことをやり続けて行くということを繰り返していくうちに、いつしかその積み重ねが、自分の腕を磨き、自分自身を高め、そして遂には社会のニーズに合ってくると思うのです。(今の私がそうです。)


そして社会のニーズに合ったものを提供していくこと、あるいはいつしか社会をリードしていくものを生み出し提供していくこと、その積み重ねこそが仕事ではないかと思うのです。そして気がつけばいつしか自分自身がかつての自分よりもずっと高みにいるのではないかと思うのです。残念ながら現在の私は今の仕事においてそこまでの領域には達していませんが、本来の仕事、あるいは未来の仕事のあり方とはそうなっていくのではないかと思うのです。そうなると社会も随分とかわって来るのではないでしょうか。


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残念ながら今の仕事や、働き方はお金を大前提にしており、その中でいかに自分自身の喜びを見つけるかというものです。随分と歪められてきたものがあると思います。けれども時代は少しずつ、会社に貢献するだけでなく、社会への貢献や、何のために働くかの意味を問う人が増えてきています。私たちは1日のうちの1/3~半分近くを「働く(仕事する)」ことに費やしています。世界の国々の経済水準が同一化していく中で、働く意味を問うこと、特に四半世紀社会停滞を続ける日本では、その意味を見いだすことはこの先新たな未来を創っていくことにおいて必要ではないでしょうか?


そこでまずは働く(仕事をする)とは、自分自身が社会に必要と思うこと、やりたいことを「積み上げていくこと」。それを通じて腕を磨き、自分を高め、社会のニーズにマッチさせていくと同時に、社会に新たな価値を生み出していくものと定義してみたいと思います。


 



らいふあーと~僕らは地球のお世話係~


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