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2016年11月

2016年11月30日 (水)

限界と可能性

先日6日間に渡りまちづくりと障害者の理解を兼ねたイベントを開催しました。期間中計3つの企画を実施し、なんとか無事に(?)終わることができたのですが、このイベントを通じて僕の限界と可能性の両方を感じることとなりました。

まず限界ですが、ひと言で言うと「ひとりで行うことの限界」です。
企画を立てた当初は何とかなるだろうと気楽に考えていたのですが、準備を進めていくうち、そして実施日が迫ってくるにつれ、1人では到底できないことを思い知らされ、イベント期間中には限界もろに感じることとなり、至らないところだらけとなりました。

自分ひとりでできることは限られている。仲間が必要である。

ということをつくづく感じました。
しかしながら企画によっては多数の人がボランティアとして参加してくれ、それは感謝以外のなにものでもなく、仲間や協力者のありがたみを感じると同時に、僕の呼びかけに応じてくれる人がいる、僕はひとりではないということを感じさせてもくれました。

そして限界と同時に感じた「可能性」ですが、
イベント実施までに数多くの不安に襲われました。時にはいつも協力してくれる人に改めて頭を下げに行ったこともありました。そうして協力してくれることを約束してもらったりしたのですが、それでも不安や課題は次々とやってきました。

そこでそれらの課題や不安に対してとにかく対処するための行動を起こしました。課題と思ったことがあれば、その対処に取り組む。そうすると行動するたびに一つひとつそれらが無くなると同時に、大丈夫という確信に変わり、やがてそれはイベント実施への自信へとつながっていくことになりました。

結果、行動したところは確実にうまくいき、策を講じられなかった(一人では何ともできなかった)ことは、そのまま如実にボロが出ることとなりました。まるでそれは自分の行動や意識がそのまま現われたというものでした。

天は見事にそれを現実として現わしてくれました。

準備片付けを含め8日間にわたるイベントでしたが、結果体はボロボロ、しばしの休養期間が必要状態となりました。それでも前準備の際に感じた疑問の解決のために気がつけば再び行政を訪れ提案をしている僕がいたのでした。

なんだか最近僕自身がやりたいと思ったことの実現に向け、いつしか行動を開始している自分がいるのです。

僕自身が自ら行っているのか、それとも天が動かしているのか分かりません。それでも時代の移り変わりをひしひしと感じている僕がいるのは確かなことです。果たして僕は蛹からかえったのでしょうか???

いずれにせよ仲間をつくらなければいけません。



らいふあーと~僕らは地球のお世話係~



2016年11月23日 (水)

人生の目的

「火事場の馬鹿力」という言葉があります。危機的状況やいざという時には思わぬ力が発揮できるということです。日常では無理と思っていることが、非日常的状態では可能となってしまう。そんなことってありますよね。これ何故だと思いますか? 何が変わったかというと「意識」が変わったことだと思うのです。

以前俳優の榎木孝明さんが30日間の不食を成功させ話題となりました。実は世の中には食べなくても大丈夫な人、あるいは150cc程の青汁一杯でずっと生きている人など結構いるようです。人間普段食べないと飢え死にしてしまうと思っていますが、実はそうとも言えないようです。私が思うに、不食を成功させた(させている)人たちは、これもまた意識を変えた結果そのようなことが可能になったのだと思うのです。


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話は変わり、人間誰もが卵子と精子が受精してから1010日間はへその緒を通じて母親から酸素も栄養をもらいながら成長していきますが、いざ誕生時、つまりは母親のおなかから体外に出る時になると、心臓は肺呼吸に切り替わるため劇的な変化を遂げるのだそうです。おそらくその変化の過程は産道を通る際に生じるのでしょうが、それは産む母親の苦しさだけでなく、きっと生まれてくる子供も、狭くて窮屈な中で呼吸もできず、多大な恐怖や不安を抱える苦しみの経験だと思うのです。だからこの世に生まれてきた時の最初の行動は泣き声をあげることになるのだと思うのです。(もちろん鳴き声を上げることによって肺呼吸ができるようになるということもあるのでしょうが…。)

逆説的な考えとなりますが、すべての人間(生命)は誕生と同時に死へと向かって進んでいきます。ある程度まで肉体は成長していきますが、一定期を過ぎると下り始め、いつしか老いへと向かい、やがては死を迎え、元の土へと帰っていきます。これはどんな聖人であろうと、あるいはいかなる権力者であろうと誰にも避けられないことです。


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さて、人間は「肉体」を持つ存在であると同時に、「意識」も持ち合わせています。では生まれてから死ぬまでのこの間意識はどうなのでしょうか?同じように成長し、下って行くものなのでしょうか? そうではないと思います。たとえ体力(肉体)的に衰えが来たとしてもそれもまた経験の一つとして意識は広がり続けます。もし認知症のように脳の機能が衰え、知的に衰えることがあろうとも、意識は実は絶え間なく広がり続けているのではないでしょうか?脳と意識は別物です。

例えば東田直樹さんという若き作家がいます。彼は自閉症です。一見すると跳びはねたり、声を上げたりして明らかに自閉症障がいのある人だと分かります。けれども彼はパソコンの前に座り、キーボードをたたき始めると、そこには驚くような文章が画面に出て来て、彼には私たち以上の純粋で素晴らしい感性があることが分かります。そして彼はきちんとものごとを見て、考えていることが分かるのです。脳の機能障害によって自閉症という障がい特有の症状(動作・行動)は出ていますが、意識は普通の人以上にしっかりしているのです。


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そこで私が思うことは、人間の一生を通じての成長とはこの意識の変換過程ではないかということです。

先にも書きましたが、人間生まれてくるほぼ誰もが母親の産道を通ってこの世に誕生します。そして最初にすることは泣き声をあげるということです。けれどもそれは同時に呼吸を始めるということであり、人生が始まったということでもあります。

この世に生まれるにあたって、これまで1010日の間子宮の中で羊水に浮かび快適に過ごしてきたものが、いきなり産道という狭く、苦しい場所に突入し、しかも呼吸系統が変化し、酸素が(一時的に)得られなくなり、それは不安や恐れ、そして苦しみ以外の何ものでもないでしょう。だから生まれてくる際の最初の経験とは、ネガティブなものだと思うのです。

そしてこの世に誕生してから、私たちは死ぬまで毎日さまざまな経験を積み重ねていきます。いいこともあれば、悪いこともあります。平凡な日もあれば、刺激的な日もあります。それらすべてを通じて意識を成長させていくのです。

更に私は思うのです。人間とは生まれてきたときの最初の経験、不安や恐れを自信に、苦しみを喜びや楽しみに、そして泣くこと(涙)を笑うこと(笑顔)に変えていくこと、ネガティブから始まった経験をポジティブなものへ変えていくこと。つまりは「辛さ」を「幸せ」に変えていくことを通じて成長していくことこそが必要ではないかと思うのです。


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魂を信じる人もいれば、信じない人もいると思いますが、私は信じています。魂は永遠であり、輪廻転生を繰り返していきます。その時代時代でさまざまな経験を積み重ねていきます。それをきっと魂の成長とするのでしょう。ある意味それは魂にするとゲームのようなものかもしれません。

その際もしこれまでの記憶を持っていたとしたら私たちはその記憶にとらわれてしまいます。過去の体験に囚われ、それに固執してしまうかもしれません。せっかくもう一度赤ん坊から始めるのですから、これまでの経験と記憶無くしたほうがさまざまな経験をすることができますし、きっとその方が都合がよいのでしょう。だから産道を通る際にそこにある羊水が忘却の水へと変わるのだと思うのです。


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そして私たちはこの世に生まれる時、さまざまな条件下で生まれてきます、顔も、肌の色も、国も、家庭も、肉体のハンディも、一人ひとりが違います。でもそれはある意味私たちが生まれる前に選んできたものです。

それらの条件でもって今回の人生でどれだけのことをするか。計画と期待を込めて選んだものです。けれどもそのことさえも表面的には忘れて生まれてきます。なぜなら魂の成長とは意識の変換過程であり、それは意識が自由自在であることを知ることだからです。

さまざまな時代背景、条件によって肉体的な自由度は違ってきます。そして生まれる場所などの条件でも変わってきます。あるものは権力者の子として生まれ、ある者は貧しい者の子として生まれ、更には障がいを持って生まれるかもしれません。その中で栄華を極めることも結構なことです。あるいは落ちていくのか…。

けれども私が思うに、どのような背景に生まれ、そしてどのような人生を送ろうとも、もっと大切なことは、その条件の中で「どれだけ生命を輝かせることができるか」ということこそが大切であり、この世に生きる目的ではないかと思うのです。

さあ、今そこにあるネガティブをポジティブに変えて、命を輝かせることに全力を尽くし、最期を「やれるだけのことはヤッタ。満足した~!」といえるものとしましょう。


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解説はコチラ



             
らいふあーと~僕らは地球のお世話係~
             
             
             

2016年11月16日 (水)

チラシ配りを通じて学ぶ

商店街を使ったイベントを開催するので、このところその商店街の入り口の交差点でチラシ配りを何回かに渡り行っています。通行人に渡していくわけですが、次々と捌けていけばよいのですがなかなかそうもいきません。受け取ってくれない人も多いです。

交差点の広場に立ち初めてチラシ配りを行う際には、みんな受け取ってもらえるだろうかと結構ドキドキしました。勇気を出してチラシを通りがかりの人の手元に差し出したところ、運よく(ビギナーズラックで?)2,3人に連続して受け取ってもらえ、もしかして簡単?と思い調子に乗れるかと思いきや、そんなはずもなくその後は続けて拒否されテンションダウン…。それから再び緊張気味となりました。

イベントの内容的に小学生ぐらいの子供を連れた家族、あるいは中高年以上の人が来てくれる確率が高いと思われるので、その人たちをメインに配るわけですが、時には学校帰りの高校生グループや専門学校生や大学生と思われる人たちにも渡そうとします。けれどもほとんど受け取ってもらえないことが大半です。

中にはチラシを持っている自分を見て離れていく人もいれば、受け取りを拒否した後友人同士で「受け取るわけないじゃん!」と話す人もいます。それでまたこちらはテンションダウンするわけですが、配らないわけにもいかず、改めて受け取ってくれそうな人を選びつつ「今度イベントしま~す。」と言いながらチラシを差し出して行っています。

おそらく慣れてしまえば、仕事をこなすということで無機質に次々と差し出していくことができるのでしょうが、新宿や渋谷のように次々と大量の人が流れてくるわけでもなく、人が来たと思いながら、更にはこの人ならと選びながら配っています。

時に大学生らしき人がバイトでチラシ配りをしたりしているのですが、やはりドキドキしているようで、なかなかチラシを差し出す勇気が持てないようです。グループならば集団の力を持って次々とめげずにやることができるのでしょうが、ひとりとなるとそのドキドキ感は10倍、20倍となるのでしょう。

そんな情景を見つつ、自分も勇気を出してチラシ配りを行うわけですが、ふと思えば普段はほとんど反対の立場にいるわけです。大抵は配る側ではなく受け取る側にいるのです。

その時の僕を考えてみるとほとんど受け取っていないことが多いことが分かります。配っている人を見ると、距離を置いて通ること、目をそらすこともあります。「いらねーよ」と思う時もあれば、「はいどーも、でも結構ですよ。」と思うことも…。友人等と連れ立って歩いている時は、ほとんどの場合何も考えずに「結構です」。時々もらうのはティッシュ。その時は役に立つかなと思う時です。こう考えてみると様々な感情でもって配る人を見ていることが分かります。

でもひとつ言えることは、どのような状況であれ、配っている人の気持ち(感情)のことなどほとんど考えていないということです。配っているわ~、邪魔~、と思うだけで、相手の感情まで考えることは皆無といってもいいでしょう。チラシ配りを僕自身がひとりで行ったからこそ分かることです。人間立場が変わって、あるいは相手の立場となって初めてその人のことが分かります。そんなわけで最近あの子はあの時こういう気持だったのかな~と思ったりして…。

チラシ配りということからも学ぶこと、社会勉強になることってあるのですね~。何事も勉強! 経験することは大切です!

最後にひとこと、もしあなたがいい人であると思ってもらうためには、チラシを差し出されて時に笑顔で受け取るとことです。更に女の子が1人で(心細そうに)配っている時など、大丈夫だよと言う心でもって受け取ると好印象です。100万分の1の確率で惚れられるかもしれませんぞ!

それもまたチラシ配りから得た教訓です!!


PS:段々と慣れて来て4回目からは通路の真ん中に立ち、狙いを定めて声掛けし渡すと同時に、時々相手を選ばず渡すようになっています。今度は「慣れる」とは?ということで考えております。




らいふあーと~僕らは地球のお世話係~


2016年11月 9日 (水)

意識が現象として現われる

仕事において同僚や取引先の担当者の言動や態度でイライラしたことがあるのではないでしょうか?

相手が思ったように動いてくれない、スピード感があまりにも遅すぎる、やる気が感じられないなど、お陰でこちらの調子までもが狂ってしまう。

そんなことってありますよね。

あの人は一体何とかならないものか、そう思われることでしょう。

けれどももしかすると実はその人はあなた自身の姿を反映しているのかもしれません。


そんなことは絶対にない!

と思われるかもしれませんが、私自身がつい最近それを経験したのです。

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仕事のプロジェクトで20代前半の女の子と一緒に取り組むこととなりました。
             
しかし彼女の仕事の取り組み方は、ノラリクラリで仕事が遅く、優先順位が付けれられず、更にはわがままを言うなど、如何せんその子と息が合わず、何度もイライラさせられていました。

一緒に頑張ってプロジェクトを進めていき、しんどいことも乗り越えていかなければ!と思うのですが、どうもうまくいきません。
             
その後もイライラは続き、それに伴いだんだん私の中でプロジェクトに対する意欲が失せていき、遂には「もうどうでもいいや!」という気持が湧いてくるようになりました。
             
それでもやはりプロジェクトは進めなければなりません。

期日は嫌でも迫ってきます。

今思えば、いつしかその子が勤める会社の社長に、気を紛らわすために、あれこれと(彼女の)愚痴を言うようになってしまっていました。

そんなことをしても、やはり私自身の注意力は散漫になってしまっていたのでしょう。

ある時発注した印刷物に大きなミスを犯してしまう羽目になってしまいました。

結果その印刷物の修正(印刷のやり直し)は私が持つこととしたのですが、そうなって初めて今回の一連の事態について深く考えるようになりました。

             
するとある一つの大きなことに気づいたのです。
             
それは、
             
彼女(の姿)は私の心の中のものが現れたものである!
             
ということです。
             

私の心の中で、私自身の嫌いなところが現象として現われている!

つまり、彼女の行動や態度は私の意識が生み出したもの、あるいは私の意識が引き寄せたものだったのです。

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それに気づいてから、時に愚痴をこぼしてしまうことがあるものの、彼女の嫌な態度を見る度に、

「これは私自身の心が現象として現れたものである。」

ということを私自身に言い聞かせ、そして自らの心(のうち)に注目しながら、再度今回のプロジェクトに一生懸命に取り組むようにしました。
             

すると、ある時からなんとなくその子が変わってきたような気がするのです。

            
思い返せば数年前私自身の中でこれからはもっとゆっくりマイペースで仕事をしようと考え、それからどんどんさぼり癖がつき、ノラリクラリする私がいました。

そしてそれはどんどん悪化し、約束の時間に遅れたり、仕事も遅くなり、伸ばし伸ばしにしてしまうようになっていました。
             
まさに私自身の態度や状態が、彼女となって現われていたのです!

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正直言うと、それでもその子をまだ完全に認められたわけではありません。

不信感も残っています。

二人になるとイライラしてしまうかもしれません。
             
=(イコール)それは自分自身を認められていないのだと思います。

             
けれどもそれからというもの、今回のプロジェクトを手伝ってくれる人、協力してくれる人が現れ始め、良い方向に向かいつつあります。
             


私自身が変われば、周りも変わる!

自分自身をクリーニングするとともに、自分の想いや行動、そして言葉を揃えて(整えて)いく。
             
このことが大切だと思うようになりました。

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物質世界(見える世界)は、見えない世界の半歩遅れでやってくるといわれます。
             
今回の現象はすべては僕自身の意識が(半歩遅れた)現象として現われ、それに惑わされいた僕がいたのかも知れません。


いかがですか。

もしかすると相手に対するイライラは、あなた自身が嫌っていることが、相手の態度や行動に現れているのかもしれません。

一度見方を変えてみるのもよいのかもしれません。
             

             
             
             


らいふあーと~僕らは地球のお世話係~

             

2016年11月 2日 (水)

瞑想の迷走を修正する

近頃ヨガや瞑想をする人が増えているように思います。それはスピリチャル的なことを目的とした人たちに限りません。ビジネス界においても、「今この瞬間の自分に注意を向けることによって、ありのままの自分を受け入れていく」マインドフルネスと呼ばれるものが流行っています。

いずれの方法においても、自身の呼吸に注目すること、ありのままの自分を受け入れるということは共通しているように思います。

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さて、私も瞑想を始めてもう何年にもななります。そのせいか最近では瞑想中に脳内マリファナがじゃんじゃ分泌されることも多く、松果体もガンガン刺激されたりもします。
             
そんな時の瞑想は、頭やこころ、そして身体全体が平和な気持ち、幸福感、安心感、そして喜びの感覚に満たされます。
             
この脳内マリファナはランナーが走り続けている際に、永遠に走り続けられるのではないかと思える心地よい感覚に満たされるという、いわゆるランナーズハイの状態の時にも出ているといわれていますが、瞑想の場合は床にじっと座っていれば出てきます。
             
自然と脳内で分泌されるおかげで、本物のマリファナなど必要なく、(最近妙に取り締まりが厳しくなっているようですが…)捕まることもありません。(笑)
             
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そのような状況にうまくはまれば、とても気持のよい瞑想ができるのですが、最近本当にこれでよいのだろうか?実は良くないのではないか?と思い始めまるようになりました。

何故かというと、この状態はもしかしてマリファナを吸って気持ち良くなっている人と同じではないだろうか?もしかするとこうして脳内マリファナが出て気持ち良くなるのは、脳が私に錯覚させているのではないだろうか?今の私は脳に騙されているのではないだろうか?と思ったからです。
             
というのは、確かに瞑想中は気持ち良くなり安心感や喜びに満たされるのですが、一旦瞑想を終えると、しばらくはその感覚は残りますが、だんだんと薄れていき、結局は普段の状態に戻ってしまいます。

同じように、彼らは吸っている間とその後のしばらくは気持ち良い状態に満たされます。けれどもそれが無くなった時にはまた元に戻ります。
             
つまりこれは外から取り入れるのと中で作り出す、それだけの違いではないかと思うのです。
             
            
そしてこれは決して悟りでも何でもなく、悟りからほど遠い状態ではないかと思うのです。お釈迦様の場合で言うならば「マーラの誘惑」でしょうか?
             
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瞑想は心を落ち着けることも目的の一つですが、現在私が目指しているのは、心をでっかくして、常に平和な気持ちや幸福感を持ちつつ、堂々としていられることです。
             
それは最近私がよく思う「今ココに生きる喜び・自信・感謝」を感じて生きていくということです。
             
そのために必要なことは、脳内マリファナを出すことではなく、どちらかというと丹田に力を入れることではないかと思うのです。
             
ちなみに丹田とはおへその下10cmのところにあるとされます。けれども実際に丹田という器官があるわけではありません。なのでそのイメージに近づけるために肛門に力を入れギュっと締めるともいわれます。
             
丹田に力を入れるとは、ある意味想像と意識の世界です。あるといえばあり、ないといえばないつかみどころのない心のようなものであり、まさに5次元的なものです。意識的な存在ともいえるでしょう。
             
そこに力を入れるということは、そのあるかないか分からないものをギュッとつかんでおくことです。つまりは自身の意識をしっかり保つということだと思います。そういう意味では、マインドフルネスにおける「今この瞬間の自分に注意を向けること」と同じともいえます。そしてそれが自然の状態となった時には、自分自身に腰を据えることができるのではないかと思うのです。つまり常に堂々としていられると思うのです。
             
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密教の経典「大日経」では、悟りとは大空の如く形なきものといいます。


空があることは確かですが、空はこれだというカタチはありません。また空に手が届き、つかむことができるかといえば、それも決してできることはありません。

けれども空を実感すること、つまりは自分自身がここにいるという実感は持てるはずです。
             
それを目指して瞑想し、精進していくのです。
             

ただ単なる脳内に分泌される物質によって満足を得るだけではなく、自分自身はここにいるという感覚をしっかりと持てるようにしたいと思います。

そうすれば世間に流されることなく、自分自身の道を歩むことができるのではないでしょうか?


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らいふあーと~僕らは地球のお世話係~






             
             

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