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2015年9月

2015年9月30日 (水)

あの世とこの世の境界線をみた

見えない世界があることを信じる人もいれば、信じない人もいることでしょう。魂の話しも、幽霊の話しも、すべて信じないという人も多く、逆にそのような話しをしようとすると変な目で見られることも多いのも事実です。けれども見えない世界を体験した人にとって、それは夢や幻ではなく、確かに存在する(もうひとつの)世界なのです。


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私が初めて見えない世界があるということを感じたのはタスマニアで遭難しかけた時のことでした。(その時のことは別の記事に書いてあるので、興味のある方はそちらをご覧ください。)二度目に別の世界があると感じたのは、それから67年後のことで老人病院(療養型病床群)と呼ばれていたところで働いていた時でした。今では老人病院という言葉はなくなりましたが、かつては脳梗塞などの後遺症により家に帰れなくなり、かといって老人ホームにも入れない高齢者たちが、社会的入院と称して、病院で暮らしていたことがあります。そのような行き場のない高齢者が暮らす病院を老人病院と呼んでいました。そこで働いていた時の出来事です。



その日私は夜勤だったのですが、夜間に患者さんの1人が亡くなられました。亡くなられた方がいらっしゃった時には、死後処置として、その方の体を拭き、着物を替え、口や鼻などに綿を入れ、死後の姿を整えます。(ちょうど映画の「おくりびと」のようなものです。)看護師さんと一緒にその方の最後のお世話をさせていただきました。そしてその後その方をご家族と共に霊安室までお連れしました。



患者さんが亡くなられた時というのは、何度経験しても悲しいものです。たとえその方が問題の多い患者さんだったとしても、その思い出が懐かしいものとして蘇ってきますし、あるいは例えその人が入院してから数日間だったとしても、その数日間の出来事が思い出されたりするのです。ましてや何カ月もお世話をさせて頂き、一緒に笑い合った患者さんなど、走馬灯のように思い出が蘇り、涙をこらえるのが精いっぱいです。お別れの時というものはいつも辛いものです。


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さて霊安室にその方をお連れしたと言っても、その方がそこに長時間いるわけではありません。お迎えの車がやって来るまでの数十分から数時間です。そこから家に帰る人、お寺に行く人、あるいは今ではそのまま葬儀場に行く人など様々なのですが、いずれにしろそこはお迎えが来るまでの一時的な場所にしかすぎません。そしてお迎えの車が来るとその方の最後のお見送りとして、その方に関わったできる限り多くの職員が1階へと降りていきます。私もその1人として最後のお顔を拝見し、お見送りするために降りていきました。



その患者さんは深夜に亡くなられ、6時過ぎの朝早くにお迎えの車がきました。その為お見送りする職員も数人だけでした。ご家族の方数名もその場にいらっしゃったのですが、その中におそらく曾孫さんらしき、まだ3歳になるかならないかの小さな子供が母親に抱かれていました。その子は曾婆ちゃんが亡くなったことなどきっとまだ分からないことでしょう。母親に抱かれながら、時折何かしゃべりながら笑顔で曾婆ちゃんの顔を見ていました。



運転手の方がその方をストレッチャー(台車)に乗せ換え、霊安室から車まで移動します。それに付き添って家族と職員も車まで移動します。車に到着し、運転手はその方をそのまま車に乗せられました。そして手を合わせて拝んでから振り返り、家族に向かい「ドアを閉めさせて頂きます。」といってドアを閉められました。


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ガチャッという音と共にドアが閉められた瞬間何だか世界が区切られたように感じられました。するとそれと同時に母親に抱かれていた小さな子供が突然泣き出したのです。ついさっきまで笑っていたその子が突然大きな声を上げて泣きはじめたのです。



「ああ、この子もきっと何かを感じたのだな」と思いました。この子はまだものごとを論理的には分からないけれど、直観ながらに曾婆ちゃんが亡くなり、もう会うことができなくなることが分かったのだなと思いました。その子と亡くなられた曾婆ちゃんがどれほど会って、話したことがあるのかは分かりません。けれども子どもながらに死を感じたのだと思いました。同時に、大人にはもう分からなくなってしまったけれど、子供には何か見える(感じられる)ものがあったのだ(あるんだ)と思ったのです。



子供の心は純粋です。その純粋な心であるから感じられる世界があります。もしかすると子供や動物などには見えたり感じたりする世界が当たり前のようにあり、(その純粋な心を失ってしまった)大人には見えない(忘れてしまった)世界があるのかもしれません。


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以上が、私が見えない世界があることを感じた二度目の出来事です。これと同じようなことが皆さんにもこれまでにあったのではないでしょうか? 私たちはあまりに見える世界にこだわり、そしてエゴに囚われるあまりに、いつしか子供の頃には見えたものが見えなくなってしまっています。それさえも忘れてしまっていると言ってもよいでしょう。けれどもそれを取り戻すことは不可能ではありません。意識と心がけ次第で取り戻すことが可能です。その為の努力をしてみませんか。きっとそこには新たな世界が広がります。






らいふあーと~僕らは地球のお世話係~

2015年9月23日 (水)

瞑想効果

現代社会はストレス社会といわれます。誰もが大なり小なりのプレッシャーを感じ、ストレスを抱えながら暮らしています。中には栄華を誇る人もいますが、けれどもそれが永遠に続くわけでもなく、多くの者がその人の足を引っ張る機会を狙っているようにも思います。

そんな中人々はやすらぎを求め、何かにすがろうとします。ネコブームもそうなのでしょうが、中には宗教に走る人もいるでしょうし、あるいは占いにハマってしまう人もいます。現在空前のスピリチャルブームが続いているのもそれが理由のひとつではないでしょうか?そういう私もそのブームにハマっている1人です。

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瞑想(座禅)を始めてずいぶん経ちます。

私が初めて瞑想をしたのは、バックパッカー時代に訪れたカンボジアのバイロンです。別名アンコールトムとも呼ばれます。あの有名なアンコールワット寺院の近くにある遺跡(お寺?)です。それまで瞑想の「め」の字も知らなかったのですが、バイロンの中心に行くと突然座りたいと思い、周りに何人かいるにも関わらずその場で座り込み瞑想を始めたのです。

私がカンボジアを訪れた当時はまだポルポトが生きている頃であり、それほど観光客が現在のように訪れることもない頃でした。当時はバイロンの中で住んでいると思われる人もいて、また(そこに住んでいる?)子供が中を案内してくれたものです。きっと今では彼ら(彼女ら)は強制退去させられていないと思うし、おそらく今やバイロンも毎日観光客でごった返しているのではないかと思います。その為夜中や早朝に行くならまだしも、日中は決して瞑想などできる状態ではないことでしょう。そう考えると、私はバイロンで瞑想をした歴史的人物の1人かもしれません(自慢!)。

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そこで瞑想したから何かを得たということもないのですが、それでもそれがきっかけとなったのか、その後海外放浪を終えて日本に帰ってからすぐに福井県にある禅寺(曹洞宗)の総本山永平寺にまで行き、3日間の座禅研修を受けました。それから定期的に自室で座禅をするようになり、数年後に今度は広島にある禅寺道場の門をたたき、1週間の本格的な座禅修行を受け、禅三昧に浸りました。


そんなわけでバイロンでの瞑想以来ほぼ毎日続けているのですが、私の中では座禅といえば、最初は「悟りを開く」ということを目的にしていたのですが、残念ながら何年たっても悟りが開けることはなく、あいも変わらず煩悩にまみれたままです。その為今では「悟り」を開くためのものではなく、気持ちを落ち着ける、あるいは自分の心の中を見てみる時間ということを目的としています。時にはひらめきを得る時間ともしています。それゆえどちらかといえば坐禅というよりも瞑想といった方がよいと思います。

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さてその瞑想ですが、開始直後はザワザワと心はざわついているのですが、時間が経ち、うまく瞑想が深まってくると徐々に心が落ち着いて来て、シーンと静かな世界へと入っていきます。

それを例えていうならば、太平洋、インド洋、大西洋などの外洋と呼ばれる大海は、時に波高く、嵐の時など高さ30メートルの波となって大荒れの時もあります。けれどもその波の下は、潮流もあるものの、深さが増せば増すほど静かになっていきます。

心も外洋と同じでなのです。時に心の表面は荒れに荒れ、自分ではコントロール不可能のようになってしまうこともあります。けれども例えそのような状態であったとしても、心の奥底は、どんなに表面が荒れていようとも、深海のように物言わず、音もなし、動くこともない世界となっているのです。そこは目には見えない世界です。けれども限りなく奥深さを「感じられる」世界が続いているのです。

そして何よりもそこはとても穏やかで温かい場所なのです。まるで何かに包み込まれているようにも感じます。その暖かさはまるで静かに湧き出る泉のようであり、永遠に枯れることがないものと思われるのです。もしかするとそこは魂に通じているのかもしれません。そうでなくとも心の故郷じゃないかと思うのです。

その暖かさの中にいると私は確信できることがあります。それは私には帰る場所があるということです。だから例えどんなに嫌なこと辛いことがあっても、どんな状況にあっても「大丈夫!」と思えるのです。

この世の出来事はみな過ぎてしまったならば幻…。

そしてこの心の中の暖かさを見つけられた時には、「幸せ者だ!」と思えるのです。

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といってもそう簡単にいかないのも現実です。今や数多くの人々が心を病んでいます。太平洋の30m級の波が立っている時代といってもよいかもしれません。更に社会の波だけでなく心の波も荒立っている人も多いようです。プレッシャーやストレス、あるいは不安に飲み込まれてしまい、遂にはこころが壊れてしまう人も数多くいます。本当に難しい時代だと思います。


生きていくためにはある程度海面にも行かなければなりません。心の波が荒立つこともあります。けれども波の下深く、そのまた奥深くに行けば、そこは表面の世界と違い静かな世界が広がっています。その下の世界への行き方を知っておけば、自分自身を上手にコントロールできるのではないでしょうか。


阿字の子が、阿字の故郷たち出でて、また帰りくる阿字の故郷。

弘法大師空海が詠んだ詩です。このうたの奥深さは底知れぬものがありますが、瞑想もそれと同様、あるいはそれ以上の深さがあります。

だから、みんな大丈夫。みんな帰るところがあるんだよ!そう思うのです。






らいふあーと~僕らは地球のお世話係~

2015年9月16日 (水)

メシア論

 先日法政大学大学院政策創造研究科教授であられる坂本光司先生にお会いした。坂本先生は現在累計65万部を突破しベストセラーとなっている「日本でいちばん大切にしたい会社」シリーズの著者である。

 坂本先生はこれまでに全国の中小企業7000ヶ所を訪問し、その結果いい会社とは人を大切にし、幸せにする会社でありとする。そして企業経営とは、1.社員とその家族、2.社外社員とその家族、3.現在顧客と未来顧客、4.地域社会・地域住民、5.株主・出資者の5人に対する使命と責任を果たすための活動と定義されており、その使命と責任とは5人の「幸福の実現」「幸福の追求」とする。中でも経営者がとりわけその幸福実現を図らなければならないのは、1から4の人びとであり、またこれからは高齢者、障害者、女性の活躍こそが必要とも説かれている。

 坂本先生は現在の私の仕事のメンターの1人である。

 そんな坂本先生に以前から一度お会いしたいとずっと思っていたのだが、1ヶ月ほど前仕事先で講演の案内を頂いたのだが、それがまさに坂本先生の講演であり、まるで引き寄せられたかのような展開であった。

 今回の先生の講演の内容は女性をテーマにしたものであったのだが、講演の最初先生はここ数日のスケジュールを話され、一昨日は北海道、昨日は京都、そして今日は愛媛、明日は…、と連日日本全国を飛び回っていることを話されていた。

 その話を聞いて、全国各地から坂本先生に来てほしいという要望が殺到していること、そしてできる限りその要望に応えて企業の経営の在り方を変えていくという坂本先生の使命感と責任感が強く感じられた。しかし同時にそれだけのフル回転による先生の疲れも感じられた。

 そこから自分の想像の世界が始まった。

 それは坂本先生に来てほしいという数多くの依頼があるということは、企業や組織で働く人々の多くの人々が現在悲鳴を上げており、助けを求めているのではないかということである。

 現在組織に属し働いている人々のおよそ半数がストレスを抱えている状態だ。そして中にはそのストレスがどんどん大きくなり、孤立してしまい、そこでSOSを発しても届かず、あるいは助けが現れなかったために、鬱状態や統合失調状態となり、遂には精神障害として手帳を持つまでになっている人が大勢いる。

 現代社会はグローバリゼーションの真っ只中にある。そのグローバル世界は今や秒速で進むようになり、人間や社会のスピードをはるかに超えるようになっている。そのような状況の中で多くの企業は日夜激しい競争をしている。そしてほとんどの企業がその中で自社の利益と成長を最大限にすることを目的としている。このような状態が続いている限りストレスを抱え遂には精神疾患となる人々が増えている事態は改善されない。(それを変えてくれる理論を持っているのが坂本先生ではないかと思う。)

 更に現代社会は西洋文明をスタンダードとしている。この西洋文明とはひとことで言えば搾取の文化である。それは自分と近親者以外の人、あるいは自然やモノを犠牲にしても自分たちの利益を追求するという欲望とエゴを満たすためのものである。

 それが世界中に広がり自然を破壊し、地球を破壊している。このことは近年の異常気候、そしてこれまでにない災害の度々の発生により誰の目にも明らかなってきた。それが故に地球環境を守らなければならないことが盛んに叫ばれている。けれどもほとんどの企業は環境を守ろうとする素振りはするものの、実際のところはなおも破壊に加担しているのが現状である。

 そしてその活動は自然や地球の破壊は許容レベルを超えただけでなく、人間自身をも破壊するようになっている。人々は自然災害に巻き込まれるだけでなく、精神を患い、鬱、統合失調、その他さまざまな病気となり、時に自ら命を落とし、時に死に追いやられている。あるいは廃人のようになっている。

 ではその先は何があるか?それは人間の自滅である。

 この自滅こそが、終末論の正体であり、人間の遺伝子に残された記憶ではないだろうか。そしてこの自滅から救ってくれる希望をもたらす人がメシアと呼ばれるのではないだろうか。

 そんな記憶が人々の潜在意識の奥深くにあり、この終末と自滅を人々は恐れている。それを防ぐために人々はメシアを求め、その影を坂本先生に見いだし、先生に来て下さいと要請する。それにまた坂本先生の潜在意識が応えているのかもしれない。

 と、そんな想像をしてみたのだが、ちょっと大げさだったかな~?




らいふあーと~僕らは地球のお世話係~


2015年9月 9日 (水)

カルマに向き合う

 もう5,6年も前のこととなるが、介護業界で働いていた時のこと。働き始め10年目にして初めて納得いく看取りができたと感じた。それと同時に背中がス~ッと軽くなった。長年のカルマが解消されたと感じた。それをきっかけに自分のやりたいことは何かを考え始め、地域づくりなど好きなこと、楽しいと思えることをやって来た。

 けれどもカルマが解消された後ずっと自分が楽な状態にあったかというと、もちろんそんな状態ばかりではない。嫌なことも沢山あったし、大きな苦悩を抱えてきたことも確かである。

 そしてこれはずっと以前からのことなのだが、自分の弱さという(心の)カルマに何度もぶつかって来た。看取りカルマよりももっと大きなカルマが今度は真正面に現れた。一時は自分の弱さを認め受入れることによって、楽になるかなと思いもしたが、やはりどこかにしこりがあって、自分の弱さに再び向き合わされた。

 その為一時は夜な夜なうなされることもあり、起き上がるのがやっとな状態となったこともあり、数か月前は内臓機能の低下で毎晩痛みも感じ、もうすぐ死ぬのではないかと思ったほどだ。

 更には1年半ほど前から独立した形で仕事を始めたものの、収入面での実入りはほとんどなく、こちらの方でもプレッシャーを感じると共に、自分自身に自信のない状態がずっと続いていた。それ故に心技体ともにどん底状況。

もう逃げられない。逃げたくない!

 どん底ということは後は上昇するだけ。最近ようやく自分のこの弱い心に再び正面から取り組む覚悟ができてきた。今度こそ(何千年という)長年かつてのカルマを解消し、看取りカルマ時のような感覚をもう一度味わいたいと思い始めた。いやきっとその際はあの時以上の感覚を得られるハズ!

 生まれてくる前に自分がどのような人生を送るのか計画をしてくるともいう。あるいは宿命は変えられないが、運命は変えられるともいう。どちらか分からない。もしかするとこれまでの人生はすべて計画通りなのかもしれない。あるいはどこかでもっと早くにカルマに取り組んで解消しておけばよかったのかもしれない。

 どちらにしろ、今回カルマを解消したい!来世に引きずりたくない。

 何千年と引きずり続けてきたカルマを解消してアセンションだ!!!




らいふあーと~僕らは地球のお世話係~



2015年9月 2日 (水)

いざ覚悟!

 最近のマイブームは斎藤ひとりさん。斎藤さんは銀座まるかんの創設者で、納税日本一にもなったことのある人。実はそちらの方はほとんど知らないし、あまり興味もないのだが、本屋さんにからの自己啓発の本などが並んでおり、僕の場合はコチラの方でひとりさんのことを知っていた。

 けれどもこれまでひとりさんの本は何度か手に取り目を通したことはあったものの、買うことまではしなかった。唯一ひとりさんの弟子が書いた本を数カ月前1冊買っただけだった。

 それが現在1枚のひとりさんのCDを何度も何度も繰り返し聴いている。

 そのきっかけはかつての同僚が紹介してくれたこと。数カ月前に仕事中偶然に会うことがあり、その後メールしたところ、渡したいものがあるので会いましょうということになり、もらったのがひとりさんのCDと新聞だった。

 最初は「へ~。」「なるほどね。」「そうだよね。」のレベルでごくごく普通に聞いたり、読んだりしていたのだが、ある1枚のCDを聴いてびっくりした。

 大抵のひとりさんの本やCDは優しい口調でユーモアを交えたものなのだが、その1枚は、やさしさを含みつつもある意味とても厳しい話しをするものだった。
 
 その話しとは「覚悟の話し」なのだが、お釈迦様の修行の話しから始まり、孔雀明王の修行を迫り、幸せになりたいならば「幸せになる覚悟」を決めろと言う内容。

 普段僕たちは当たり前のように「幸せになりたい」ということを日々思い考え、あるいは口にしているけれど、本来「幸せ」になるためには覚悟が必要であり、その努力をしなければならないものなのだ。

 そして僕たちは意外にも無意識のうちに自分自身で不幸を選んでいることが多いのだ。というのは実は幸せになるには一定の努力が必要だけれども、不幸せになるには特に努力も必要なく楽なのだ。だからついつい僕らは楽な方の不幸を選んでしまっている。

 では幸せになるための覚悟とはどのようなものかというと、「幸せになる」と決心し、どんな時でも幸せな表情でいつづけ、幸せな言葉を使うこと。

 簡単なようで結構難しい。なぜなら僕らはついついいつの間にか不平や不満を口にしてしまうことが多いし、あるいは誰かのその言葉に乗せられ、それに同調していることが多い。あるいは悩みを抱えた時など特にそう。

 そうではなく、誰がどのようなことを言っても、どのような状態であっても、幸せな心を持ち続け、幸せな表情と言葉でもって表現すること。それが「幸せになる覚悟」だ。

 僕自身を振り返ってみれば、何と覚悟からほど遠いことか…。

 ひとりさんはこのCDを100回は聴くように言っている。その位聴かないと覚悟が定まらないということなのだろう。またそのくらい聴かないと潜在意識に届かないということでもあるのだろう。

 現在80回ぐらいは聴いたかな?あと20回聴いて覚悟を決めよう!

 


らいふあーと~僕らは地球のお世話係~



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