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2015年8月

2015年8月26日 (水)

学ぶ心

理想的な心のありかたとはどのようなものなのでしょうか?

男性であれば、どんな時も自分の心をぐっと掴んでおり、自分を客観的に見ることができること、あるいはいつでも自分を取り戻せること。そんな心に憧れたりもするのではないでしょうか?女性であれば、人をやさしく包み込むことができること。これは私の願望でしょうか?でもこの能力は男であってもそうありたいものです。

けれども実際は何度もそう思いつつも、いつの間にかそのことを忘れて自分自身を見失っています。ある時ふとそのことに気がついて、「しまった!またやってしまった…。」と後悔の念が湧くという、そんな日々の繰り返しではないでしょうか?

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子どもの頃には自分のこころについてなど全く考えたこともありません。大人になっても
30過ぎて少しだけ、40となってようやく考え始めるというものなのでしょうか?かの孔子は三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順う、七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず。(三十才で学問の基礎ができて自立でき、四十才になり迷うことがなくなった。五十才には天から与えられた使命を知り、六十才で人のことばに素直に耳を傾けることができるようになり、七十才で思うままに生きても人の道から外れるようなことはなくなった。)といいます。(「故事ことわざ辞典」より)

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さて、私の自身のこととなりますが、私にはすぐに格好良くあろうとすること、あるいは格好良く見せようする悪い癖があります。かつて新入社員として入社した際に、その企業は毎日運転することが多いので、車の運転の適性判断がされたことがあります。その時のコメント欄には「あなたは自分を格好よく見せようとする傾向があります。」ということが心理面の欄に見事に書かれていたことがあります。(残念…。)

そしてそのコメント通り、若き頃は運転経験がまだまだ浅く運転も下手であるにも関わらず、格好いいと思われる運転をしようとしては、逆に事故を起こしたり、車をぶつけたりしていました。今振り返ってみるとあのころの私は格好いいどころかその正反対で、格好悪すぎ~穴があったら入りたい~と思うのです。頭の中の私と実際の私との乖離が相当激しかったのです。

何度も車をぶつけたり、警察につかまったり、あるいは事故を起こしたりすると、いつしかさすがに私は運転が下手であるということを認識し、心からそう思いました。そしてもう格好いい運転をするよりも安全運転をしようと心がけるようにしました。するとその時からようやく事故を起こすこともなくなり、ぶつけることも減っていったのです。今ではたいていの場合周りの状況を見つつ、どちらかというとゆっくり目に車を運転するように心がけています。お陰でぶつけることも極めてゼロに近くなっています。

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さて思うに、心もこれと同じではないかと思うのです。今でも私の中には「格好良くありたい。」という心があるのも確かです。振り返れば確かにこれまでに仕事においては、格好いいと思われるようなことをしたこともあります。更に私の中には完璧主義なところもあれば、一番になりたいという心もあります。それが故に、未だにどこかギラギラしているところもあります。けれども本当の私は超内向的で、臆病であり、無茶格好悪いというのが真実なところです。それ故乖離が激しいのです。


そこでこれもまた反省をしようと思うのです。ダメな私を受け入れてみようと思うのです。心から反省して、ありのままの私を受け入れたいと思うのです。そして私の心を見つめられるペースで物事に取り組み、そして周りを見渡せるペースで歩んでいこうと思うのです。


誰かに格好いいと思われたり、憧れられたりする自分よりも、自分が自分らしいと思える自分を形成していくということ。それが本当に大切であると思うのです。テレビの画面では、いつも明るい人もいれば、格好いい人もいます。けれどもそれは画面を通してだけのことも多く、結局自分というものは自分以外にありえないのです。そしてその自分とはこころ次第です。


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今からだって遅くないはずです。人間気付いた時がいつだってスタートです。瞑想をして心の中を見つめつつ、そして自分をしっかり掴んでおくことを意識して、自分らしい心を形成し人生を創造していけばよいと思うのです。私は孔子には足元にも及ばないので
40を超えても惑いの連続です。けれどもあの孔子ですら自身の天命(使命)を認識したのは50です。いつしか車の運転と同じように周囲の状況を見ながら、自分の心をうまくドライブできるようになりたいものです。そして使命を果たしたいものです。

 
人生いくつになっても学びの真っ只中です!

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らいふあーと~僕らは地球のお世話係~

2015年8月19日 (水)

心の安全運転

車の免許証には普通のブルー免許証とゴールド免許があります。ゴールド免許証がもらえる条件は「5年間無事故・無違反」です。ゴールド免許の人は、免許証の書き換え時の講習が短くなったり、あるいは車の保険料が安くなったりする特権(?)が付きます。この車の免許証とおなじで「心」のゴールド免許証があったらいいと思いませんか?もしそれがあったならば、人々はもっと心の在り方に注意を向けるようになるかもしれません。


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私が車の免許を取ったのは18歳の時です。そして初めて車を買ったのは20歳の時で、トヨタのかっ飛びスターレットでした。しかし買ったそばからぶつけ、事故もしました。それ以降、時に電柱、時に壁、ありとあらゆるものにこれでもか!と言うぐらいよくぶつけました。別の意味で本当にカッ飛んでいました(涙)。その後も仕事の車をぶつけ、遂には人を
跳ねてもしまいました。(※ただし相手の飛び出しです。)これまでに一体どのくらいぶつけたものか回数は覚えていませんが、私ぐらい車をぶつけた人間はいないのではないかと思えるほどです。


あまりにも車をぶつけるので、その時東京(埼玉)に住んでいたこともあるのですが、転職をきっかけに車の運転は一切しなくなりました。みんなに「自分は車の運転が大嫌いだし、大の苦手です!」と公言し、仕事においても一切の運転を拒否するようにしたのです。


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今思えば若き頃の私の運転は、超ヘタにも関わらず、とにかく格好イイ運転をしようとしていたのです。その格好イイ運転とはどのようなものだったのか、今ではよく覚えていないのですが、もしかするとアイルトンセナに憧れカーレーサー気取りだったのかもしれません。なんたってよく捕まりもしたのですから…。


またこれも今だから分かるのですが、当時の私は運転中に周りを見る余裕が全くなく、前方3メートル、幅30センチの視野しか見えていない状態でした。そのため先の予測など全くできませんでした。そこに身勝手なプライドと見栄だけが先行する運転をしていたのです。正直最悪なドライバーだったと言っていいでしょう。けれども当時はそのようなことは全く分からず、なんで自分はこうも事故を起こしたり、ぶつけたりするのだろう??と思っていたのです。それが故に遂には運転をやめることにしたのです。


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ところが約10年前東京を離れ故郷に帰って来こととなり、再び車を運転しなければならなくなりました。地方都市は東京のようにいつでもどこにでもバスや電車を使っていけるわけではありません。ある程度離れた場所に行くには車が必要となります。そこで仕方なく再び車を運転するようになったのですが、やはり最初はぶつけました。ブロック塀、車庫etcぶつけること数知れず…。けれども少しは成長したのでしょうか?他の車にぶつけることはなくなったのです。その代り何故か今度は大いにぶつけられるようになりました???


年を重ねたためか、車をどこかにぶつけるたびに、次からはあそこを気をつけなければいけないとか、こんな時はこうしなければいけないと反省しながら車に乗るようになりました。運転を再開してからようやく(?)運転に関して反省と学習ということを身につけたのです。すると気がつけばいつの間にか、ほとんどぶつけることがなくなっていったのです。今では安全運転率99.5%となり、十分に周りを見ながら、ある程度余裕を持って運転している私がいるのです。自然に先々の予測も付けて運転しているようになりました。そしたら人から「キミ運転が上手だね。」と言われるようにもなりました。もちろんぶつけられることもなくなりました!(それでも今も運転は嫌いなのですが…。)人間いつになっても学習能力はあるようです!


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さて先日車を運転している際に、「ああ、今の車の運転のように、もし自分の心をもっと上手にコントロール(運転)することができたならばどれだけいいことだろう。もっと(運転と同様に)自分自身に余裕があり、ものごとを大きく捉えることができたならば…、そしてある程度先の予測もきくようになれば…、どんなに人生が楽になることだろう。」と思ったのです。


残念ながら今の私には人生経験がまだまだ足りないのでしょうか、暇はあっても、心の余裕がありません。車でいうならばぶつけまくっています。人身事故、車両事故、玉突き事故、様々な事故を何度も起こしている状態です。


娑婆ではついつい「欲の心」が顔を出し、ガツガツしてしまいます。その為心が乱れて、行動も乱れてしまいます。緊張したり、慌てたり、イライラしたりと次々と感情が変わっていきます。運転のように適度な緊張も持ちつつ、もっと落ち着いて行動したり、話しをすることができたりすれば…。もっと自分自身をうまくドライブすることができたならば…。そうすることができるようになれば私の人生はもっと豊かになる!そう思うのです。



車と同様もう少し年を重ねていけば自然と心の余裕をもてるようになるのでしょうか?も反省がまだまだ足りないのでしょうか?瞑想をしている時は、心は落ち着き、深い沈黙の中にいます。それは心地よくあり、幸せでもあり、あるいは「無」でもあるのです。瞑想時のあの感覚が、日常でも続くようにして、穏やかにいられないだろうかと思うのです。次回の瞑想時は心の安全運転ができるようになっている自分をイメージしようと思います。


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もし心のゴールド免許証があったとしても、それはどこかの機関から発行されるわけではありません。自分自身を振り返り、日常生活の中で大きな心を持っているかどうかです。自身が発行するのです。その特権は豊かさです。みなさんは心の安全運転できていますか?






らいふあーと~僕らは地球のお世話係~

2015年8月12日 (水)

揺れる心をのぞいてみれば

突然ですが、何かと心が揺れ動いてしまいませんか?ああしようと思いつつも、やっぱりこうじゃないだろうか、こっちの方が…、と迷ってしまう。本当は一本道を真っ直ぐ進めればいいのでしょうが、なかなか心を決めることができなかったりします。一体どうすればいいのでしょうか?


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スピリチャルな世界に興味があるだけに、スピリチャルな人と繋がることも多いです。その人たちの中には私よりもずっとスピリチャルな人が何人もいます。その1人は本当に様々なものや機会を引き寄せ、更には出会いも引き寄せており、「どうしてそんなに次々と引き寄せたり、繋がれたりするの~???」と、私から見れば思い通りの生活を送っているように見える人です。だからその人のことをずっと羨ましく思っていました。


ところが先日その人も課題を抱えていることを知ったのです。朝早くに目が覚めて、それからずっとその課題について考えているということを話していました。その話を聞いていたアドバイザーの人は、その人に対してアドバイスを与えていたのですが、それはスピリチャル的な答えでは全くなく、誰が聞いてもごくごく当たり前と思えることを述べていたのです。そしてその人はそれを聞いて涙を流していたのです。


別にその様子や話しを盗み見ていたわけではなく、たまたま隣のテーブルに座っていたために全部聞こえてきたのですが、その人が課題を抱えていることを知って、「あ~、みんな悩みを抱えながら生活しているんだな。すべてがうまくいっているように見える人でも、決して全部が全部うまくいくとは限らないものなのだなあ。」と思ったのです。



神様(天)は、この世に生まれてきたすべての人に、それぞれの課題を与えているのです。そう思いました。


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私たちがいるこの次元では、私たちは肉体、心、そして魂をもって生きています。そしてこの肉体は物質であり、物質=カタチあるものは、いつかは壊れます。つまり劣化していくのです。その劣化していく中で、身体や心にそれぞれに応じた課題が生じ(与えられ)て、それを解決しようとするのがこの世界だと思うのです。


世の中には権力を持って、人を操り、贅沢三昧できる人もいます。私たちからすると彼らは全てが思い通りに進められるように見えます。けれどもやはりその人なりに課題が与えられ悩むこともあるのでしょう。本当かどうかは分かりませんが、世界皇帝(ワールドトゥワーリー)だってリーマンショックで財産を失い、その補てんに走り回ったともいわれます。この世の天使も悪魔も悩むのです。



結局この世に生まれてきた限り、どのような人であっても何らかの課題が与えられ、それに対して大なり小なり心が動かされ、悩まされるものだと思います。そのようにこの世は出来ているのです。例え聖人君子と呼ばれる人であっても悩むのです。ただその課題をどう捉え、どのような態度でいるかというところが違うのでしょう。そしてそれを突き詰めてみれば、魂や天に行き当たり、魂の成長のためとなるのだと思います。


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宇宙は、この世は常に変化しています。一見何も変化していない、動いていないように見えても、ミクロの世界で動いていますし、あるいはあまりにも高速過ぎて私たちが感じないだけです。もし動かなくなった世界があれば、それは死の世界ともいえます。そしてその動き(変化)が「生」を産み、成長し、そして壊れていく(死を迎える)という永遠のサイクルを繰り返しています。そのサイクルの中で、どんな人も魂の成長のために、課題が生じ(与えられ)、心が揺れるのです。


その揺れる心を少しでも落ち着かせるために、コントロールすべきは意識であり、それはある程度は可能なものであると思うのです。例えもしそれが耐え難きものであったとしても、意識をどこに持って行くかで変わってくるのだと思います。より高い視点に意識を持って行く、あるいはより(心の)奥深くを見ていけば、そこに答えはあるのです。いえ、もともと私たちはその答えを知っているのです。もしかするとその心の奥深くにある答えを知るために心は揺れるのかもしれません。そしてどのような答えを導き出すのか試されているのかもしれません。


結局引き寄せにしろ、課題の解決にしろ、そこには難しい理論があるわけでなく、ただ心の声に素直になった時、それをありのままに受け入れられた時に必要なものも解決方法もも現象として現れるのかもしれません。そしてそれは決してスピリチャルなものではなく、ただ目の前にあることある「こと」や「もの」をどう捉えるか、そしてどう生きていくか、その姿勢にあるのかもしれません。揺れる心は私たちに心の声(天の声)にもっと耳を傾けるなさいと言っているのかもしれません。

 

 

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らいふあーと~僕らは地球のお世話係~

2015年8月 5日 (水)

神国日本 

 現在の日本社会をひとことで言うならば、「危機的状況」から「終わっている」に変ったと思う。

 今や日本国中放射能に汚染され、福島原発は、ニュースによれば作業が開始されたとされているが、ソースによってはノン・アンダーコントロール状態(放射性水蒸気の中)としか思えない。日本の危機状況どころか世界的危機になりつつあるのではないだろうか?

 経済は相変わらず停滞し続け、今やすっかり影をひそめたアベノミクス。結局大企業のみが優遇されその恩恵を受け、富のあるところに更に富を集中させただけだ。挙句の果てが一般庶民には商品券配り。現代経済学の失敗のすべてが現れている。(正直日本に関してもはや経済成長の考え方そのものが間違っているとしか思えない。)

 そして政治は完全に終わっている。ただ「戦争」をしたい人達の回りくどい表現合戦。現代経済学でいうならば、経済回復の最終手段が「戦争」。そしてその為に世界の戦争の大半を仕掛けてきた国の護衛をするなんてナンセンス以外の何ものでもない。毎日繰り広げられている政治家達の茶番劇。もううんざり。

 このような状況の中で、変わらずに発達し続けている世界。それが科学の世界であり、「IT」の世界。その発達スピードは今や誰もついていけない。社会も人間も置いていかれている。それが故に人間のこころはどんどん荒んでいる。まるで誰もコントロールすることのできない世界に足を踏み入れているようだ。

 そんな中で、世界を完全なる支配をたくらむ輩もいることも確かであり、大抵の人間がうろたえている中で、大なり小なりの権力者たちは未来に責任を負おうとすることなく、今だけ、自分だけよければ良いかのようなふるまいを続けている。

 格差社会は広がり続ける。一般庶民はなすすべもなく不平等を押し付けられ、弱者はその状況にあえぎながら生きている。小金のある人々も、この状況の社会に対して何かしようとするのではなく、自分とその家族それだけで精一杯の状況だ。自己防衛とわずかな快楽の中で生きている。これが従順なる人間をつくり出すことを第一にしてきた戦後教育の成果なのだろう。

閉塞感

 何もしなければ、社会も心も「閉塞感」に被われる。そして身体は放射能に破壊され、死を待つのみ。

黒い霧の中

 黒い雨ならぬ、白いけれども黒い霧に覆われ、熱中症だか、放射能の影響だか、バタバタ倒れ、若くとも次々突然死する。それが今の日本。


 ブルースは満足し、クラッシクカーいじりで、かつてのスピリットは失われてしまった。尾崎は自ら命を絶ち、その謎は伝説となった。世界に気付いたジョンやマイケルは闇に葬られた。

 25年。

 戦後の日本は何を目指してやって来たのだろうか。そしてバブルの崩壊とともに沈み続けてきた日本。

 遅れてやってきた青春。誰もが発達障害と診断され、いくらでも精神性疾患が生み出される。化学物質でできた薬でコントロールされ、更に蝕まれていく。体制に従うのが嫌ならば引きこもればいい。今の社会では青春なんて子供のけん玉遊びみたいなものだろう。


 そんな中、世間に飛び出し実力をつけ、そして新しいものを創造する。

 それが今の日本の唯一の希望だと思う。

 時代の終わりは、新しい時代の始まり。

 だから今こそおもいっきり「反抗」してみたい!おもいっきり「社会をよくしたい!」と思う。



参考「日本の終宴




らいふあーと~僕らは地球のお世話係~もよろしくお願いします。


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