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2015年3月

2015年3月25日 (水)

生きる理由

振り返ればもう20年以上前のこととなるのですが、オーストラリアをワーキングホリデーを使って1年間滞在している時のことです。

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タスマニアにレイクセントクレア・クレイドルマウンテン国立公園という現在は世界(自然)遺産となっているところがあるのですが、そのセントレイククレアという湖のそばの森(山)の中で遭難しかけたことがあります。

前日に何もない小屋(ベース基地)に泊まり、翌日ひとりで朝から湖のそばにある山の周りを一周するようなコースをトレッキングをして楽しんでいたのですが、山を越えたあたりで、いつの間にかコースから離れ、西も東も分からない状態となってしまったのです。

コース上には、行く方向を印した三角印があるのですが、いくら探しても見つかりません。

探せど探せどそれは見つからず、時間はどんどん過ぎていくばかりで、遂には夕方近くとなってしまいました。

その間徐々に体力は消耗する一方です。

その焦りで精神的疲労はどんどん積み重なっていきました。

何度も何度も大声で助けを求め叫んでも、何の反応もありません。


「Anybody Help me!」

シーン

(周辺に誰もいない…。)


遂にどうすることもできなくなり、倒木に腰掛け途方に暮れ始めました。

どうしよう。

当時の私は大学休学した若造であり、山歩きなどほとんどしたこともない人間で、こんな時の知識は全く何も持っていませんでした。

(方位磁石さえ持っていませんし、もちろん当時は携帯電話なんてありません…。)

一体どうすればいいだろう?

このままあきらめなきゃならないの?

怖い!

本気で怖いと思いました。

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何もできずに途方に暮れること数十分。

バックパックに入っていた最後の食糧を食べ、わずかな気力を取り戻しました。

もう一度道を探して見つからなければ、あきらめるしかない!

そう思った時、一瞬日が差しました。

(その日は朝は晴れていたのですが、途中から曇り空で、時々雨が降ったりしていたのです。)

その時影ができたのです!

自分の影、木々の影ができたのです。

今この時間帯だから、影の方向からするとおそらくこっちが南で、こっちが東…?

何も分からない状態にもかかわらず、その時はとっさにその判断ができたのです。

こっちに湖があるはずだ!

そう信じて一か八かで(湖があると思われる方向に)走り始めました。

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するとしばらくするとコース目印を発見したのです。

そして湖に出たのです!

助かった~。


それから湖に沿ったコースを再び歩き始めました。

夕暮れ近くとなり、日が暮れるまでにベース基地に戻れるかと時間を気にしながら、残りの体力を振り絞って、必死でコースを歩きました。

水は山から湧き出る小さな水の流れを見つけて飲んだり、いざとなったら湖の水を飲むしかありません!


歩きに歩き、数時間後遂に出発点にたどり着きました!

よかった~。

あたりはすっかり薄暗くなっていました。


すると急にお腹がすきました。

へとへとになった上に、もう何も食べる物はありません。

ベース基地においている(大きな)バックパックにも食べ物はありません。

ベース基地といってもただの小屋でしかないため食べ物が売られていることもありません。

そこでそのそばにあるお店を訪れドアをノックし、(閉店時間を過ぎ入り口の鍵も閉め、)レジのお金をチェックしている店員さんに頼みこんで、大きなチョコレートを売ってもらいました。

そして小屋に戻り、ベッド(?)に倒れ込みました。

それから3日間精神的にも肉体的にも疲労困憊し動くことも困難な状態が続いたのです。

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数年後、仕事でしんどい頃、ふとあの時何故助かったのだろうかと思うようになりました。


あの時日が差したのはなぜなのだろう?

もしかして何か意味があるのだろうか?

僕には何かやるべきことがあるのだろうか?

いくら考えても答えが出て来ません。

たまたま通りがかった教会に入り、牧師さんにそのことを話し、何か意味があるのかを尋ねてみたのですが、「何かあるのかもしれないし、ないかもしれませんね~。」とのことで答えは得られませんでした。

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そしてまた十数年が経ち現在となります。

スピリチャルな世界に足を踏み入れてもいれば、ひたすら社会貢献や自然(地球)に関心を持ち活動している私がいます。

今していることがその答えなのでしょうか?

やはり分かりません。

けれども何となく分かってきたこともあります。

それは「(あの時助かった)その理由は分からないけれども、何か意味がある。」ということです。

もしかするとそれは生まれてくる前に描いたシナリオかもしれませんし、そうでないかもしれません。

けれども一つ言えることは、私の人生を形成するうえで、あの日のことは確かに意味を持っているということです。

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死ぬまでにその答えは見つかるのでしょうか?

分かりません。

それを探すのが生きていく理由のひとつかとも思うのです。


人生とは時に摩訶不思議なもの。

それもまた愛あるアドベンチャー!

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らいふあーと~僕らは地球のお世話係~

2015年3月18日 (水)

アドベンチャーは続く

最近の習慣は、月曜日から土曜日の朝毎日NHKの朝ドラ「マッサン」を見るということ。

このドラマ、最初から見ているわけでなく、昨年11月か12月の途中から見るようになったのだが、いつからか面白くなり今では毎回欠かさずに見るようになった。

朝ごはんを食べ、マッサンを見てから仕事を開始するというのが日課だ。

このマッサンはニッカウヰスキーの創業者夫婦をモデルにしているのだが、そのテーマは「人生は冒険」ということ。

ドラマはまさに「人生は山あり谷あり」の黄金ストーリーを走っている。

僕がこのドラマに魅かれるのはそのテーマが自分に重なるところがあるからだと思う。

けれどもこのマッサンが間もなく終わる。

巷でもマッサンは大人気なようで、既にマッサンロスという言葉だけでなく、実際に人も発生しているようで…。


そこで最近思うのは、マッサンが終わった後は、その続きは自分自身が冒険しようということ。

最近の僕のテーマは、

人生は愛あるアドベンチャー。しかも期間限定。だから楽しまなくては!

ということ。

このところどういう訳か「人生の貴重性」をしみじみと感じるようになってきた。

かつてはそんなこと全く感じることもなかった。

いくら本でその大切さが書かれていても、いくら人から説かれても、「うんうん」と頷くことはあっても、すぐに消えていく言葉だった。

それが今ではその実感を伴うようになってきた。

しみじみ感じるようになってきた。

それだけ年を取ったのか、それとも経験を積み重ねてきたのか…。

どちらにせよ時間は貴重。

自分の残りの時間はあとどれだけあるのだろう?

30年?40年?それとも50年?。

そう考えると、まだたくさんのことができるようにも思う。

けれども、もしかすると明日終わるかもしれない。

そうなるとその貴重さがより増してくる。

こりゃアドベンチャーしなくては!

しかもそこに愛が伴っていなくっちゃ!


これまで僕が行ってきたアドベンチャーは一匹狼なアドベンチャー。

つっぱって、とんがって、時に人を斬りつける。

そんな風にして自分自身のためにアドベンチャーをやって来た。

それはそれで面白かったのだからよかったと思う。

けれども今は人や社会に貢献するということもベースに置いて仕事をしている。

まだまだ独りよがりな想いでもって行っていることもあるのだろうけれど、それでも他者のため自然のためということを念頭に仕事をしている。

それはこれまで以上に心を満たしてくれる。

テレビ番組でのマッサンの冒険は終わる。

けれども僕の冒険「愛あるアドベンチャー」はこれからだ!

アドベンチャーしなくっちゃ!!



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http://lifeart.eco.coocan.jp/


2015年3月11日 (水)

向き合う

3.11から4年。

未曾有の大震災、大災害。

僕にとって一番心の中に残っているのは、まさに震災の発生した時間に、新たな人生の一歩を踏み出します!と宣言していたということ。

高齢者福祉の仕事を卒業し、もっと自分の好きなこと、やりたいことをやっていこうと話しをしていた時だった。

話しを終え1時間後、震災が発生していたことを知り、この一致は何を意味するのだろうとものすごく考えさせられたことを覚えている。

その時出した結論は次の世代につなげられるような(社会を創る)仕事がしたいと思ったこと。

そして地域づくりや障害者支援のモデル事業などのいくつかのプロジェクトに携わり、現在大胆にも新しい社会の仕組みを作ろうと事業を行っている。

あの時思った通りのことをしていると言えばそういえる。

それを考えると好きなことをしている羨ましがられることなのかもしれない。


けれども同時にいろんな課題や悩みにもぶつかっている。

只今まさにその真っ只中。

自分の人望のなさ、いい加減さ、中途半端さetcどうしようもない自分にうんざり。

次々と自分の欠点が襲い掛かり飲み込まれている状態。

その為この先どうすればいいのだろう、やって行けるのだろうかとネガティブで不安な心理状態。

果たして乗り越えられるのだろうか?

けれども考えてみればこんな自分がよくひきこもりにもならずにこうしてやっているとも思う。

(引きこもり状態に近いと言えば近いが…。)


世間の風は冷たい!

本当にそうかもしれないし、自分がそう思っているだけか、あるいは自分がそうしているのかもしれない。

自分の弱さ。

自分の中の恐怖。

自分の中のコンプレックス。

全てこれまでの人生で逃げてきたこと。

それらがまた形を変えて襲ってきている。


何処かでけりをつけなくっちゃ!

腹をくくるために、しばしの間真剣に自分と向き合いたいと思う。




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2015年3月 4日 (水)

戦争なんていらない

昨年のいつごろからか覚えていないのだが、連続テレビ小説「マッサン」を見ている。

ご存知のことだと思うが、マッサンはニッカウヰスキーの創業者夫婦をモデルにしたドラマである。

そのマッサンで現在太平洋戦争時のストーリーが展開されているのだが、現在の国の状況と重なり、戦争について考えさせられた。


当時の日本は兵隊として召集されることは名誉なことであり、お国のために死ぬということは英雄的なこととされていた。

しかしそれは現代から見れば一種のマインドコントロールであり、当時の国が作り上げた雰囲気でしかなかったと思う。

あの時代のメディアと言えば、新聞にラジオ。

日本は欧米を相手に敵を撃破し、例え戦死してもそれは「お国のために死んだ」のであり名誉なこと。

そう国民は信じ込んだ。(信じ込まされた。)

けれどもやはり夫や息子が戦場に向かい、そして戦死するということは悲しいことであり、名誉とは表面的に過ぎないものだろうとしか思えない。

しかしながらそれを表現することは、当時の世論や国の政策により「してはならない」こととされていたと思う。


そもそも戦争とは国と国の利害の衝突である。もっと極端に言えば、一部利権屋の利害・プライド、意地の衝突に過ぎない。

それに国民の多くが巻き込まれ犠牲になる。

現在もその基本的構造は変わらない。

イラク戦争、911しかり。

国の利権、一部利権屋の利益、競争、そして欲。

それらのために国民は犠牲となる。

大半の国民は戦争など欲していない。

その多くの願いは、平和に暮らしたい。

安心して暮らしたい。そして幸せに暮らしたいということ。

ごくごく当たり前の純粋な願いである。

けれどもその願いは一部の権力者たちの利害のために無残にも破壊される。


現在インターネットの発達により、誰もが自分の意見や思いを発信できるようになった。

そのような中で、これまで隠されていた真実(秘密)が暴露されるようになってきた。

私たちは利権屋たちがいかにうまく自分たちの欲望を満たすために国民を操作しているかが知るようになった。

けれども残念ながら、それを知る者はまだまだ少なく、利権屋たちはメディアを使い国民の願いをうまく取り込んでいるように見せ、大衆にオピニオン操作し世論を形成している。

当たり前に考えて、戦争とは愚かなこと。そ

れによって喜びを手にするものなどいない。

一部の心ない人だけ。


マッサンに戻る。

エリーもエマも国と国の争いと言う愚かさ、そして当時の雰囲気に苦しみ、葛藤しながら生きている。

戦後70年経った今、その愚かさを再び繰り返すようなことだけは御免だ。

武力でももたらせるものは破壊と恐怖のみ。

欲の突っ張り合い。

それよりも愛あるアドベンチャーを楽しみたい。

平和な社会(世界)となって欲しい。




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