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2014年1月

2014年1月29日 (水)

江戸の生活(太陽と共に在り、月の導きに従う)

 少し前のこととなるが、意識研究家のエハン・デラヴィ氏の講演を聴いてきた。講演の中でエハン氏は500年前の日本人と今の日本人は全然(考え方が)違うこということを話された。ちょうどその日は冬至の日だったのだが、今では冬至を意識する(日本)人はほとんどいない(お風呂にゆずを入れようと思う人も中にはいるが…、)。けれども昔の人は冬至や春分・秋分そして夏至などをはじめ、季節の節目(の日)を知っているのが当たり前だった。そして、それは日本人だけでなく、世界中の人々がそうだったことを話された。

 人々は季節と共に生きていた。ということで、昔の人々(江戸時代の人々)の生活を考えてみた。

 例えばそれは次のようなもの。江戸時代の人々は季節に実る野菜や果物を収穫し食べていた。そしてそれらは基本的に地元で採れたもの。もちろん露地もの。地元で採れた旬のものを食べ、季節を感じながら生きる。(ついでながら江戸時代の野菜は固定種(伝統野菜)であり、形はまちまちで、収穫時期に幅があるけれど、現代のF1種(交雑種)よりも味が濃い。つまり美味しい。)。季節のものを自然な形で頂く生活をしていた。
一方で現代社会は季節を選ばずにものが手に入る。スイカを冬に食べることもできれば、イチゴも年中手に入れることができる。けれどもその多くがF1(交雑)種。一体どのような劣性遺伝のものを掛け合わされているのか分からない。

 また江戸時代の暦は太陰暦。それは月の満ち欠けを基本とするもの。ひと月の単位は月の月の姿の見えない新月から始まり、月の半ばに満月を迎え、そして月の陰りと共にひと月を終えていく。そしてそれぞれの月の状態に呼び名をつけていた。例えば三日月、十五夜、座待ち月、寝待月等。当時はカレンダーなど誰もが持っていることもなかっただろう。けれども肌で月を感じ、月の満ち欠け具合で日を知ることができた。
もちろん人々は月の満ち欠けが地球に及ぼす影響を知っていた。海の潮の具合、出産(産卵)への影響。もしかするとその他にも現代人が知らない(忘れてしまった)月と地球の関係を知っていたかもしれない。

 人々は日の出とともに働き、日の入りと共に仕事を終える。太陽と月を見て季節を感じ、時を知る。時には太陽や月を称え祝う。そして季節の収穫に感謝する。太陽や月は恵みであり、すべてを司るものであった。まさに太陽と共にあり、月の導きに従う生活を送っていた。

 更にもうひとつ。ここに1冊の本がある。田中優子+辻信一著「降りる思想 江戸・ブータンに学ぶ」(大月書店)という本。この中に江戸時代の人(の考え方)について次のように書かれていた。

 「一人の人間、たとえば、今、私の前に辻さんがいますね。辻さんであることは確かだけど、それだけじゃないかもしれない。もしかしたら、この人は、過去の時代にいた安藤昌益かもしれなくて、もしかしたら普賢菩薩かもしれなくて、もしかしたら大日如来かもしれなくて、というふうに何重にも見えてくる。存在ってそういうものだという、その感覚です。江戸時代の人は、そうやって人をみているんですね。それと同時に、自分もそうだと思っている。自分自身が名前を変えながらいろんなところに出現して、いろいろな人と関わりを持っていく。自分の中にある多層性というものを認めているんです。そういう人たちの暮らす社会が江戸なんです。」

 そういえば「袖振り合うも多生の縁」という言葉があるけれど、これは人とのちょっとした関係も前世からの因縁によるものだとの意味であり、まさにこのことを指しているのだろう。人々は自分を含めそれぞれの人に多重の生(輪廻)を見て、過去世の縁を感じて生きていた。

 となると、江戸の人々は太陽や月を見て季節や時間を感じ、旬のものを食べ、季節と共にあり、そして人を見て多重の生を感じて生きていた。自然と縁とのつながりの中で生きていた。縦につながり、横につながり、そしてそれぞれが循環する。

 少し前まで季節に関わらず野菜や果物が手に入ることが素晴らしいことであると思っていた。輸入されたワインやお酒が価値あるものと思っていた。より多くのお金をかけ(珍しいものを)手に入れることが贅沢なことだと思っていた。けれども今ではそれは他国の人々の生活を貧困に陥れるという誰かの犠牲の上に成り立っているものであったり、この美しき地球環境を破壊する行為であることが分かった。

 それよりも自然を感じ、自然に従い、そして多様なる縁を感じ、そして循環する生活。共にあるという感覚のもとでの生活。そちらの方が断然よいと思える。それに何よりも理屈抜きで、旬のものはうまい!そこにひと工夫凝らして、おまけに(?)愛情を注げば、これ以上のものはない。30年物のワインなど何のその!(飲んだことないけれど…。)

 最後に最近以前買って最近再び読み返している本~若杉智子著「『一汁一菜』食養生活」(主婦と生活社)~に次のように書かれてあったので紹介する。

 自然界には、ちゃんと1年のリズムがあります。綾部では3月頃にはフキノトウやヨモギが出てきて、その後、セリが出てきて、ヨメナが出てきて。うちの畑で芽吹く野草を見ているとそれがよくわかる。
 大事なのは、その自然界のリズムを、からだでいただくこと。旬をからだで知って、自然界のサイクルにからだのリズムを合わせていくこと。だから、旬のものを食べなきゃいけない。これはもう、自然界の摂理なの。(転載終わり)

 私たちは宇宙の中のひとつであり、太陽系のひとつであり、地球の一部であり、そして身土不二である。果てしなく大きなものから、身近に触れる土に至るまで、つながり、循環している。

 今からでも遅くはない。太陽と共にあり、月の導きに従う生活をしましょう。そしたら魔法使いにもなれるかもよ。



  詩「太陽と共にあり、月の導きに従う」




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2014年1月23日 (木)

Welcome to Helter Skelter World

先日仕事の関係で2日間「小児在宅支援研修会」に参加した。セミナーでは重症心身障害についての説明から、訪問看護の在り方、摂食機能、先天性心疾患、相談支援についてまでガッツリ講義を受け、終了時には脳ミソが腫れ上がり、更にはおなかの調子までも悪くなるぐらいだった。次の日冷静となり研修のことを考えていると、僕は一体何をしているのだろうか、とこれまでの人生を振り返ることとなってしまった。

 自分自身で自分の人生を歩み始めたといえるのは、約5年間の大学生活を終え、就職し、自分自身で生活費を稼ぎ始めてからと言えるだろう。最初に就いた仕事は某ボイラメーカー。ボイラのことなど全く何も知らないくせに、ただ大手企業だから給料もいいのではと思い潜りこみ、営業やメンテナンスを行った。今思えば入社して2年間は全くもって釣りバカ日誌の浜ちゃん以下のダメ社員であり、多くの人々に迷惑をかけた。(なので近頃の若い人たちを笑っていられない…。)。それでも3年目からは一応使える社員となり、ある特定のボイラに関しては誰よりもよく知っていると言えるほどの自信を持つまでになり、最終的にはそこそこ会社に貢献することができたのではないかと思う。今では全くもって理解できないけれど、あの頃は一応シーケンス(電気回路)も読めたし、多少の配管修理もできていた。(配管に関しては今でもその構造は理解できる。)

 およそ4年間のボイラマン時代を終え、(大学4年目から覚えた)バックパッカーとして放浪者となり、1週間分の食料を背負いキャンプをしながら大自然の中をひたすら歩いたり、多国籍軍で2週間野宿をしながら旅したり、世界遺産を訪ねてみたりして、地球のでかさを感じ、ネイチャリストとなり、その後何故か仏道に目覚め、仕事をしつつ寺を訪れては修行を申し入れたり、お遍路となり四国を歩いたり、埼玉近郊等の山で独自に修験道に励んだりする。

 仏道に励む間、たまたま老人ホームでボランティアをしたことが縁で、その後十数年高齢者福祉に携わるのだが、仏道修行のお陰か、夜勤の際電気が消され静まり返る病棟で僕の名前を呼ぶ声が聞こえたり(幻聴?)、ある時期は人の死が分かって(予言できるようになって)しまったりと、~今ではその能力は全くないのだが~、実にユニークな日々だった。今思えば唯一よかったのは、夜に足のない人の姿を見なかったことだ。しかし振り返れば高齢者福祉(医療)の現場で働いている間、一体何人の旅立ちを見送ったことか?もうひとつおまけに何度自主転勤したことか…。

 十数年間の高齢者福祉時代の終盤からまちづくりがしたくなった僕は、その世界を飛び出し新たな仕事を求めた。そしたら「求めよ、さらば与えられん」と言われるが、運よく「新しい公共」と呼ばれる事業に巡り合い、NPOやボランティア(団体)を支援する仕事を得る。そこで、上司から中間支援組織を立ち上げよとの仰せを受け、「新しい公共って何?」、「中間組織って何?」と分かりもしていないのに、人々に「これからはいろいろな人が『地域づくり』に参加することが大切で、そのためには中間支援組織が必要となります。」と訴え、ひたすら車であちこちを駆け巡る。
 
 結局僕の力では中間支援組織を立ち上げることはできなかったのだが、代わりにまちづくりの専門家の力でひとつ立ち上がりお役目御免。僕が2年間でできたことは、多少まちづくりに携わる人を増やせたことと、ひとつの市がNPOやボランティアを支援する制度を作ってくれたことのみ。けれども僕にとって良かったのは、その2年間に数多くの人と出会い、その出会いの中から自分のやりたいと思った映画会やイベントをさせてくる人が現れたこと。そして次の仕事へとつながったこと。その次の仕事というのが、今行っている重症心身障害児者の支援だ。

 「重症心身障害児者?」「何ですかそれ?」「重度心身障害者手帳を持って、医療費が免除される人たちのことですか?」と、これまた何も知らない僕。けれども、そんな僕に声をかけてくれた奇特な人がいた。そんな状態ながら走り始めて7か月、今や重症心身障害者の支援にすっかりはまってしまい、この子(人)達そして家族を何とかしてあげたいと思う僕がいる。けれども残念なことにこの仕事ももうあと2か月半で終わる…。

それでもこうして大病院の講堂で「小児在宅研修会」に参加し、小児科医が話す嚥下機能の講習を受け、大学病院の心臓外科医(?)が話す先天性心疾患の研修を受けて子供の心臓病の講義を聴いている僕がいる。さっぱり分からないのだけど…。というよりもかなり場違いな気もして…。

20年近く前、「♪おいらはボイラマン。やくざなボイラマン。おいらが怒ればボイラが止まる~♪」とマイテーマソングを歌いながら工具に部品を積み込んだボロボロの車で走り、中野通りの桜の木の下で、大いびきをかきながら昼寝をしていた僕が何故かこんなところにいる。営業・機械のメンテナンスから始まり、今ではゆりかごから墓場まで携わっている。思えば高齢者福祉時代にはある人から、死んだら骨を海に流してほしいのだけどという相談を受け、葬儀屋さんに電話したり、遺言講座をしてほしいのだけどという相談を司法研修所に持ち込んだりしてた僕。その僕が「生まれてくる子供の1.06%が先天性心疾患を持っており…、」なんて講義に耳を傾けている…。一体何してんだろ?

更に冷静に考えてみれば、ホームページではかつてのバックパッカー時代の経験から地球を大切に、「僕らは地球のお世話係」なんて訴えてみたり、社会問題を訴えてみたり、スピリチャルなことを書いてみたりと色々なことを行っている。おまけにみかんづくり…。好きなことをチョロチョロっとしては、また次の興味の惹かれたところへ。その繰り返しだ。だから中途半端なのだ。どれも広く浅く…、社会福祉士やないか!だから業務独占ではなく名称独占なんだ。(僕は一度は捨てたものの、今でも一応社会福祉士なので…。)

ヘルタースケルター~沢尻某が主演した映画。「しっちゃかめっちゃか」という意味らしい。以前DVDをレンタルし見たのだが、全身整形した女性が織りなす奇想天外な人生、欲望のままに突き進む姿が描かれた映画なのだが、次から次への展開にスピード感があり結構面白かったのを覚えている。今思えば、なんだか僕の人生と重なっているように思える。もうちょっとグレードは高いと思うけど…。

僕の人生振り返ればしっちゃかめっちゃか。今もしっちゃかめっちゃか。いったい僕はどこへ向かっているのだろう。導かれるままに進んでいるわけだけど、この先どのようなことが展開されていくのか。そしてどのようなゴールを迎えるのやら…。おそらくまだ数年から数十年生きるのではないかと思われるけれど、次は何をしでかすやら。

分からない。何が起こるか分からないのが人生。更に分からないのが僕の人生。神のみぞ知る。だから面白い!だからお天道様に祈りを捧げる。不安15%、好奇心85%。だから未だに落ち着かないのか…。そろそろ落ち着きたいともう十数年思っているのだけれど…。

同年代の人たちは子供もおり、しっかり稼ぎ、家も建て、安定した生活を送っている。僕の場合お陰様でそれとは正反対で、お金に縁はない生活。けれどもいろいろな経験をさせてくれる縁には恵まれている。世間からすればどうしようもない中年フリーターだけど、僕からするとフリーランスであり、半農半Xの共生生活であり、未来先行型。この先どこへ行くのやら?人生を振り返ってみれば、思わず吹き出してしまった僕がいた。

いい意味で捉えると縦横無尽で、面白い。(ポジティブ・シンキング!)

まさにらいふあーと。一体どんな作品が出来上がるのだろう。

人はみな意識次第でどうにでもなる!




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2014年1月15日 (水)

徒然福祉日記

 今や地域にひとつは必ずあるといっていいぐらいの高齢者介護のサービス事業所。デイサービス、グループホーム、有料老人ホームにホームヘルプetc。朝夕あちこち高齢者を乗せて走る送迎車。一体日本はどれだけ高齢者大国なんだ!と思わずにいられない。まさに老人大国日本。

 新聞に挟まれていた広告に、サービス付き高齢者向け住宅のチラシが入っていた。そのチラシを見てみると、そこで暮らすには家賃をはじめ諸々の諸費用がかかり、それらを合計すると結構いい値段がする。その中のひとつに生活支援サービス費というものがあり、要介護(要支援)区分によってそれぞれ費用とサービス提供時間が違う。例えば要介護3だと1か月15,000円でサービス提供時間が5時間までとなっている。そしてこの5時間を超えると、1分毎に50円が掛かってくるそうだ。

 この1分毎に50円というのが心に残った。というか引っ掛かった。1分ごとって…。何だか寂しい時代に入ったものだと…。貧乏性なのでタクシーにひとりで乗るとついつい料金のメーターが変わっていくのが気になるのだが、介護もタクシー的時代に入ったような気がした。

 介護士さん、サービス提供時間を超えた場合は、ちゃんとメーターを表示してね。年金厳しいから…。払えない場合は途中で降ろされるのかな…。

 以前僕が書き上げた介護論。全く注目されないのだけど…。これからの介護の在り方について解説した。「QOLからQODへ」、「認知症生涯発達論」などなど、イイこと書いてるのになあ。もっとマニュアルとして使えるものを作らなければならなかったか。儲け損ねた…。

 大手企業がどんどん参入してきて、今や土地活用のひとつともなって来たこの業界。きっとこれから益々マクドナルド化していくのだろうな。それを思うと、ひどく悲惨だったこともあるけれど、何でもありで、何でもできた昔が懐かしい。

 ただ思うのはこうして多様なサービスが支援や介護を必要とする高齢者に提供されるようになったことはとてもよいこと。それぞれが必要とするものを選択し、最期まで自立した生活、あるいは自己実現を果たすことができればいいと思う。

 障害者の人々へのサービスもこうしていろいろと利用できるものができればいいのに。極論を言ってしまえば、高齢者介護において介護者たちは、その人が亡ればそれでおしまい。またしばらくは自由にできる。けれども障害のある子供をもつ親たちは、「私たちが年を取って動けなくなった時、あるいは私たちが亡くなった時、この子はどうなるのだろう。」と不安は続く。

 障害者と(その親)と関わり始めて半年以上が過ぎたが、今でもどのようなことが生じて障害者と言われる人(子ども)たちが生まれるのか分からない。以前よりも分からなくなった。そこには遺伝的要素もあるのだろう。今では放射能●●…。またスピリチャル的に言えばカルマ等の影響も考えられるのかもしれない。けれども普通に見るに、どんな人たちにも障害を持つ子供が生まれる確率は等しくあると思う。そうとしか思えない。

 だからこそ両親・子供両者が安心できる仕組み(社会)ができればいいのにと思う。社会一般にもう少し認識が生じればよいと思う。決して他人事ではない。けれどもそう考えると、犯罪被害者の会だって、薬害エイズ、交通事故、冤罪、虐待、自殺などどれもが他人事ではなく、もしかすると自分たち、あるいは家族がそこに巻き込まれる可能性はある。

 そう思えば、それぞれ個別に対処することも必要だけれども、全体を俯瞰することも必要だと思う。大きな全体像を描き、それに向かっていくことも必要だろう。いわゆる虫の眼鳥の眼(?)というやつ。 けれどもひとつ言いたいのはタクシー的社会となるのはやめて欲しいということ。生きていくのにメーターは見たくないし、変なことでドキドキしちゃうから。小心者だから心臓に悪いから…。



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2014年1月 9日 (木)

2050をイメージする

 2014年。2000年のミレニアムから14年が過ぎ去った。さてこの14年間を振り返ってみれば…、
 
 政治の世界を見てみると、かつてのバブル時代をもう一度取り戻そうとすることばかり。それはまるでそれはイギリスがかつての大英帝国を取り戻そうとするようなもの。一時は世界の七つの海を支配するだけの力を持っていたけれど、周りの諸国が力をつけていくにつれ、その力は落ちていくと同時にかつての誇り高き地位も下がっていく。今ではヨーロッパの一諸国にすぎない。

 同じように20数年前日本もその経済力で世界を制する勢いを持つまでになった。けれどもその力はそぎ落とされると同時に、アジア諸国が力をつけてゆき、その独占的な技術は各国の普遍的なものへと変わっていく。それ故にかつてのような我が世を謳歌することは不可能である。 

 にもかかわらず政治家は強い経済や経済回復(成長)を掲げて、国民に訴えている。けれども実際のところは過ぎ去った時代を回顧し、もう一度あの快感(贅沢)を味わいたいとの欲望ばかり。過去を取り戻そうとするだけで、将来のビジョンは何も持っていないのが実状。本来の仕事であるはずの人々が目指すべき未来を示し導くどころか、あるのは自分たちの(将来の)身を守る手段と政策だけ。そしてそれを後押しし支持する大企業群。

 だからそこには犠牲が生まれている。その犠牲とは社会のひずみであり、その結果として毎年3万人の自殺者、100万人のうつ病、60万人のニートなどとなって現れている。それにもかかわらず、更に追い打ちをかけるように大半の国民を縛りつけ、不安にし、苦しめる政策を次々と生み出している。

 今本当に必要なこと。それはもちろん経済の見せかけの回復ではない。それは21世紀のビジョンである。2050年まであと40年もない。2050年がどのような世界となり、人々の生活がどのようになっているのか(国民が納得する)しっかりとしたビジョンが必要である。

 ではそのビジョンをどのようにして描くか。何も全くもって突飛な世界を描けということではない。現在の危機を乗り越え、そして未来の予兆を発展させた社会を描けばよい。

 では、現在の危機とは何か?ひとつは経済の時代が終わろうとしていること。経済成長の終わりは、もう誰もがそれを感じるようになってきた。これを何とかしようとしても仕方がない。これまでにあまりに「経済」を大きくしすぎてしまった。そしてそこに「マネー」を加え支配の手段とし、「経済」そして社会を血みどろの世界にしてしまった。本来経済とは循環するための手段であり、人間生活の一部でしかない。それをここまで大きくし、人間生活を支配するものとしてしまった。だから矛盾が生じている。この先小さくしていくしかない。そして再びバランスを保つようにできるかである。
 
 ただ人々が不安なのは、私たちはすっかり経済に支配される生活に身を置き、それ以外の方法を忘れてしまった〈知らない〉ということ。だから人々はこの経済の終わりが来ているのを感じつつも、その先が見えないが故に不安となり、一歩を踏み出すことができずに、現状を維持しようとしている。

 そしてもう一つは地球の環境危機。人類は地球(の環境)がもたらしてくれた恵みでもって生きている。それが破壊されたならば、人類も滅びるしかない。滅びたければこのままいく。滅びたくなければ、地球との共生できる道を選ぶ。そのどちらかである。これまで人間はあまりに地球環境を破壊してきた。経済が拡大していくにつれ、そのスピードは速くなる一方。地球環境は排ガス、放射能に被われるようになってしまった。にそして現在そのしっぺ返しを食らうようになっている。これまでにない気象状況、環境変化に人間は苦しめられている。もちろん地球環境の変化は太陽や宇宙環境も大きく作用しており、人間の破壊活動だけではない。けれども人間の活動が地球を破壊してきたのも事実である。これを反省の材料とし、共生の道を模索するのか、それとも更に挑み続けるのか、今問われている。

 そしてもう一つ付け加えて精神の危機。20世紀は経済の成長とともに人間(日本人)の精神は低下し、破壊された。今では日本人の多くは魂を抜かれてしまい、考えることをやめ、与えられるものをそのまま受け取るだけとなってしまった。けれども現在精神の大切さが見直され、叫ばれ始めたのも確か。精神の復興なしに未来はない。

 これらをもとに未来をデザインしていく。もしかするとそれは一つだけの絵(デザイン)ではないのかもしれない。宇宙の法則はその多様性。共通項をもとに多様なデザインを描き、一人一人がそれに向かっていく時代がやって来た。

 未来とはその人その人が描いた未来がやってくる。この世の法則とは思い描いたことが、そのまま現実世界となり現れること。その時間の流れはますます速くなっているともいう。

 21世紀のデザインを描きましょう。そして未来を創造していきましょう。2014年から始まる未来デザイン。ワクワクしましょう!




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2014年1月 1日 (水)

途上~私はこれで介護の仕事を辞めました~

 マザー・テレサの言葉に「人生の99%が不幸であったとしても、最期の1%が幸せであったならば、その人の人生は幸せなものに変わる。」というのがあるそうだ。

 かつて僕は十数年間高齢者福祉の現場で働いていたのだが、その間相談員、介護職員、(ついでに補助看)その他何でも屋として働き、いろいろな経験をさせてもらった。そして現場で働いている間に何十人という人の最期を看取ってきたのだが、10年目にして初めて満足いく看取りができ、その人も満足してくれたろうと思ったその時の話しを。

 タカさんはいわゆる認知症。けれどもしっかりしているところもある。口は達者で文句を言わせばそのフロア1番。でもよく人に対して気も使い、時には誉めもしてくれる。いわゆる江戸っ子気質的お婆ちゃん。僕もタカさん節で説教されたり、時には「あんたは〇〇だから。」と涙の出るような言葉もかけてくれた(もちろんよい意味の言葉!)。そんなタカさんの気分転換は屋上や施設周辺の散歩、それと近くのスーパーへ買い物に行くこと。よく時間に余裕があるときに車椅子を押して連れて行った。

 ある夜勤の日、タカさんはナースコールを押しまくった。特に大した用はないのだが、10分位毎に鳴らした。けれども時にはおむつを替えてほしいというまっとうな(?)訴えもあるので、都度ナースコールに対応した。またその日はもう一人の認知症のお婆ちゃんマッさんもトイレやら何やらでナースコールを鳴らしまくった。そのお陰で0時過近くまでは数分おきにナースコールが鳴り、その度対応する、プラスみんなの排せつ介助や投薬業務、洗濯などなどのルーティンワークもこなさなければならないというひどく疲れる夜勤だった。(夜勤は1フロア16人の入居者を1人で対応)

 そのタカさんがある日入院した。そこは病院併設の有料老人ホームだったので、入院したといっても隣の建物。このところ食欲がないので、様子見(?)の入院だったのだが、入院中に脚の血栓も生じ、約2か月後には帰らぬ人となる。

 当時僕は介護の主任代行をしていたのだが、出勤した日はほぼ毎日休み時間などに病院へ入院している入居者のところへ様子を見に行っていた。そしてみんなに声掛けをする。もちろんタカさんのところへも行く。タカさんはかつての快調な口調ではないものの話はする。けれどもやはり食欲はなく元気があまりない。

 話しは変わり同じフロアにアイさんという方がいた。アイさんは多少認知症はあるもののしっかりしており、本人自身にそして職員にも厳しい人で、職員への注文(特に布団のたたみ方)も多かった。基本姿勢は自分の(できる)ことは自分でするというスタンスの人だった。そのアイさんが亡くなった時のこと。

 アイさんの最後は腰の痛みがひどく、ベッドからポータブルトイレに行くのにもかなり難儀した。おむつは付けはするのだが、なるべくトイレに座ろうとする。なのでトイレに行く際はナースコールを押し、職員に少しばかし介助をしてもらうようになった。ある時アイさんからのナースコールがあり、それを僕が対応しトイレの介助をしたのだがあまりに腰が痛そうなので、僕の持つ技術(と力)でもって介助し、できる限り痛みが生じないようにした。そしてその介助を何度か続けた。

 (おそらくアイさんは僕が行ったその方法が一番楽だったのだろう。それでナースコールで女性職員が対応した時に、きっと僕の名前を出したのだろうと思われる。)ある時女性職員からクレームが来た。アイさんのトイレ介助を(力でもって)するのをやめてほしいと。そこで僕は考えた。アイさんのあの苦痛の表情を見ると、アイさんになるべく痛みが生じないように援助してあげたい。でも僕ひとりでアイさんを援助することはできない。施設介護は24時間休みなし。みんなの力が必要だ。けれども僕の技術(と力)をもってしてならばアイさんは辛い思いをしなくて済む…。おそらくアイさんの状態からするとターミナル。今やるべきでは…。しかしながら僕は今主任の立場。全体を見なければならない。

 そして下した結論は僕もアイさんのトイレ介助を少し支えるだけとした。辛い決定だった。アイさんはそれを知ってか知らずか、痛そうな顔をしながらも自分でやらなきゃとPトイレに座った。

 数日後アイさんは亡くなった。アイさんの死に目には会えなかった。なんだか後悔と非常に苦々しい思いが残った。

 ある日昼休みの時間にタカさんのところへ行くと、全く食事に手を付けていなかった。看護師さんに聞くと食べないという。声をかけても食べようとしない。少し介助して食べるよう促すが、やはり食べようとしない。その時以前タカさんは結構甘いものをスーパーで買って食べており、今もその時に買った水羊羹がタカさんの部屋の冷蔵庫の中にあるのを思い出した。看護師さんに食べさせてもよいか尋ねると、よいとのことだったので、部屋までダッシュして取りに行き、介助すると食べてくれた。ここなら何をしようと(?)文句は言われないし、言わせないぞと思った。思えばあれがタカさんへの最期の食事介助だった。

 数日後、その日僕は遅番出勤。10時半から勤務開始で、途中交通渋滞等で10時25分職場に着いた。義替えをしてフロアへ上がると、職員から「タカさんが亡くなった。」ことを知らされた。携帯を見ると着信表示が…。

 タカさんの病院出発は10時の予定だった。けれども諸々の事情が重なり出発は結局10時40分となった。なので僕はタカさんを見送り、別れを告げることができた。出発が遅れたのは偶然かもしれない。けれどもタカさんは僕が来るのを待っててくれたような気もした。

 タカさんが亡くなられ寂しい思いもあったが、僕の中にはようやくいい介護(看取り)ができたという気持だった。僕のできる限りのことはしてあげられたと思った。きっとタカさんも満足してくれたのではないかと思った。フロア職員もなんやかんやと言いながらもいろいろとタカさんのお世話をしていたし…。

 自慢じゃないが一時期僕は高齢者介護の仕事は天職だと思っていたことがある。東京で働いていた時も介護をさせればトップ20に入るぞという自信はあった。でもこうして納得いく看取りができるようになるのに10年かかった。

 タカさんが元気なころどのような生活を送っていたのか分からない。タカさんのファイルにとじられている事前調査票などで読んだのだろうけど今となっては覚えていない。けれどもそのころがよくとも悪くとも、きっと最期の1%は幸せだったと思う。だからタカさんの人生は幸せであり、笑顔であの世に旅立ったと思う。

 今から4、5年前の出来事。それから僕は新たな道を歩み始めた。まだまだ途上、道半ば。

 最後にマザー・テレサの言葉をもうひとつ。

 「私の行いは大河の一滴にすぎない。でも何もしなければその一滴も生まれないのです。」

 新たな世界を切り拓くぞ。




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