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2013年12月18日 (水)

咳をしてもひとり

 咳をしてもひとり

 尾崎放哉の句。自由律俳句と呼ばれる。

 この詩を知ったのは確か中学生ごろだったのかな? 国語の教科書に載っていた。おそらく俳句を習ったときに、俳句の発展形として出ていたのだと思う。でも深く習うことはなく、このような句もありますよという程度だったような記憶がある。授業でどのような形で習ったにしろ、それ以来この詩句そのもののが持つ情感もあれば、自由律という文体も僕の中にある。

 まずこの句。

 孤独。僕はこの尾崎放哉という人がどのような人生を歩んできたのか知らない。けれどもこの句からにじみ出てくる何とも言えない寂寥の雰囲気をありありと感じる。風邪をひき寝込んでいた時に出てきた句なのか、それとも夜ひとりでいる時に出てきた句なのか分からないけれども、その時に感じた孤独がずっと響いている。

 人間は孤独な生き物である。あるものはそれに耐えきれずに鬱などの病になったりする。中には死を選ぶ者さえいる。けれども人間はその孤独に耐えていかなければならない。人々はその孤独を紛らわせるためにあらゆる手段を尽くす。あるものは自虐的に人々と交わり、ある者は誰かを傷つける。またある者はだから連帯しようとする。けれどもいずれかの時に向き合わなければならない。そして孤独に耐えたその先には強さがあり、やさしさを見いだすことができる。

 そして自由律。

 俳句といえばみんなが知っている五-七-五、そして季語という基本。誰もがそれに従って句を作る。中には字余り・字足らずとなったり、季語が抜けたり、ダブったりすることもあるけれど、それでもそれが俳句の基本であり、完成形とされる。その型を完成させた正岡子規とはその意味でも素晴らしい。老若男女いつでもどこでもその共通ルールに従い、気軽にその時の気持ちを俳句にして詠む。

 けれども自由律俳句はそれを破ってしまった。五七五でもない。咳は季語なのかどうか知らないけれど、それもなし。あるのはわずかな言葉。その短さ。にもかかわらず伝わってくるその想い。まさに自由の中にある核。自由律の中にはとんでもない飛躍が込められている。

 自由律俳句。それを知っている人は少ない?知っていても作る人はほとんどいない。それが現実だろう。俳句界でも無視された?そして孤独に死んでった…。

 僕が思うに彼はあまりにその感覚が鋭かったのだ。だから一般の人には受け入れられなかった。俳句界から異端視され、異端児とされた?そんな風に想像する。

 けれども僕はこの自由律俳句が好きだ。きっとこの自由(律)という言葉にも影響されているんだろうけど、それ以上にそこにある想いが好きだ。その短さとそこに込められた想い。これ以上端的に現わされた言葉の表現があるだろうか。自分自身で作ることはない。というよりも作りたくとも作れない。まだまだそこまで至れない。自由に詩を書くのが精いっぱい。

 自由であること。それは孤独である。自由であろうとすればするほど孤独である。人々は自由を語るのは好きだが、自由を体現するものを嫌う。それが現代社会。おそらくもっと上(のレベル)に行けば自由の中の自由を感じることができるのかもしれない。身も心も解放される自由。自由を意識しなくなる自由。けれどもそこまで至っていない、まだまだ真の自由への途中段階にあるというのが今の自分である。

 自由を求める自分。自由なる世界。そして自由なる宇宙。この世界を自由に泳いでいきたい。あ~自由だ~!ゴッホん。



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