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2013年12月

2013年12月26日 (木)

弱肉強食と循環

 「里山資本主義」藻谷浩介 NHK広島取材班 (角川Oneテーマ21)という本がある。その中に「52%、1.5年、39%の数字が語る事実」という項目があり、そこに出てくるのが以下のようなものである。

 52% … 発売から2年以内に消える商品の割合((社)中小企業研究所「製造業販売活動実態調査」2004)
 ちなみに1990年代まではこの数字は8%であり、9割以上の商品が発売後2年以上市場に残り続けていた。

 1.5年 … 新しく発売された商品が利益を得られる期間(経済産業省「研究開発促進税制の経済波及効果にかかる調査」2004年)
 1970年代は開発後25年ぐらいはもち、開発者は1つのヒット商品を生み出せば、定年までは喰っていくことができた。

 ちなみに
 39% … 仕事の満足度((独)労働政策研究所・研修機構 調査シリーズNO.51「従業員の意識と人材マネジメントの課題に関する調査」2007年)
とのことだ。

 この数字を見て大都市(大企業の中枢が置かれている)、大企業(電機メーカーなど)のの現状を考えた。多額の費用と人材を投入し何年もかけ新製品を開発してヒットを飛ばしたとしても、すぐに数多くの後発メーカーが追随しより安いものを出し、利益が得られなくなる。2年でその商品は消えていく。そして開発者達はまた次なる新しいものを要求される。

 例えば液晶テレビ。かつては「世界の亀山」と言われその名を轟かせていたのが、あっという間にメーカーの足かせとなる。稼ぎ頭だったものがすぐにアキレス腱となり、どうにもならないと思われればリストラという言葉が浮上する…。

 果たしてひとりの人間(部署)が次から次へと新しいものを開発できるだろうか。苦労して開発した製品がヒットして一時的に名声を得たとしても、あっという間に競争の波に飲み込まれ赤字となり、コストダウンを命じられるとともに、次なる新製品開発を迫られる。その後ろではリストラがちらつく…。これでは人も企業も疲弊していくのが当たり前だと思う。だから今ではかつての日本のフラッグシップ「ソニー」も「パナソニック」も息絶え絶え。

 それが今の大都市、大企業、そして世界共通品目の世界。苦労してエベレストに登ったとしても、そこにいられるのはほんのわずか。すぐに引きずり降ろされる。まるで足の引っ張り合い。グローバル経済は熾烈な競争社会。油断をすればあっという間に飲み込まれてしまう。更にその中の人々(+ポリティシャン)はあれこれと搾取の方法を考え出す。上記資料の数値は2004年時点だからそれから約10年たつ現在はもっとひどい数値となっているかもしれない。

 リストラ、プレッシャー、欲望、嫉妬etc人間のエゴが生み出した空間は今では多くの人間を苦しめる。そしてどこへ逃げようとお金という亡霊が付きまとう。壊しては作り、壊しては作りの繰り返しでお金を回さなければ成り立たない社会。都会の人々はそのような中に生きている。まさに過酷な弱肉強食世界。

 一方でそのような世界からもう降りようという思想がどんどん台頭してきている。それが里山資本主義。(地方の)地域の中で経済を循環させようとする。そこにはエベレストのような高い山はない。そこにあるのはせいぜい1,000メートルくらいまでの山であり、世界からすれば見えないようなもの。それらはGDPに乗っからないことも多い。けれどもそこには、その地域にしかないものがある。そしてその山や里を豊かにするものがある。それは世界を変えることはないけれど、地域の中で豊かさを循環させ、地域の人々がそれを享受する。もちろん外から来た人にもおすそ分け。外から来た人も楽しんで!

 都会(大企業の中)でしのぎを削って生きるか、それともそこから降りて循環型で生きるか。どちらをとるか。選択するのはあなた。




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2013年12月18日 (水)

咳をしてもひとり

 咳をしてもひとり

 尾崎放哉の句。自由律俳句と呼ばれる。

 この詩を知ったのは確か中学生ごろだったのかな? 国語の教科書に載っていた。おそらく俳句を習ったときに、俳句の発展形として出ていたのだと思う。でも深く習うことはなく、このような句もありますよという程度だったような記憶がある。授業でどのような形で習ったにしろ、それ以来この詩句そのもののが持つ情感もあれば、自由律という文体も僕の中にある。

 まずこの句。

 孤独。僕はこの尾崎放哉という人がどのような人生を歩んできたのか知らない。けれどもこの句からにじみ出てくる何とも言えない寂寥の雰囲気をありありと感じる。風邪をひき寝込んでいた時に出てきた句なのか、それとも夜ひとりでいる時に出てきた句なのか分からないけれども、その時に感じた孤独がずっと響いている。

 人間は孤独な生き物である。あるものはそれに耐えきれずに鬱などの病になったりする。中には死を選ぶ者さえいる。けれども人間はその孤独に耐えていかなければならない。人々はその孤独を紛らわせるためにあらゆる手段を尽くす。あるものは自虐的に人々と交わり、ある者は誰かを傷つける。またある者はだから連帯しようとする。けれどもいずれかの時に向き合わなければならない。そして孤独に耐えたその先には強さがあり、やさしさを見いだすことができる。

 そして自由律。

 俳句といえばみんなが知っている五-七-五、そして季語という基本。誰もがそれに従って句を作る。中には字余り・字足らずとなったり、季語が抜けたり、ダブったりすることもあるけれど、それでもそれが俳句の基本であり、完成形とされる。その型を完成させた正岡子規とはその意味でも素晴らしい。老若男女いつでもどこでもその共通ルールに従い、気軽にその時の気持ちを俳句にして詠む。

 けれども自由律俳句はそれを破ってしまった。五七五でもない。咳は季語なのかどうか知らないけれど、それもなし。あるのはわずかな言葉。その短さ。にもかかわらず伝わってくるその想い。まさに自由の中にある核。自由律の中にはとんでもない飛躍が込められている。

 自由律俳句。それを知っている人は少ない?知っていても作る人はほとんどいない。それが現実だろう。俳句界でも無視された?そして孤独に死んでった…。

 僕が思うに彼はあまりにその感覚が鋭かったのだ。だから一般の人には受け入れられなかった。俳句界から異端視され、異端児とされた?そんな風に想像する。

 けれども僕はこの自由律俳句が好きだ。きっとこの自由(律)という言葉にも影響されているんだろうけど、それ以上にそこにある想いが好きだ。その短さとそこに込められた想い。これ以上端的に現わされた言葉の表現があるだろうか。自分自身で作ることはない。というよりも作りたくとも作れない。まだまだそこまで至れない。自由に詩を書くのが精いっぱい。

 自由であること。それは孤独である。自由であろうとすればするほど孤独である。人々は自由を語るのは好きだが、自由を体現するものを嫌う。それが現代社会。おそらくもっと上(のレベル)に行けば自由の中の自由を感じることができるのかもしれない。身も心も解放される自由。自由を意識しなくなる自由。けれどもそこまで至っていない、まだまだ真の自由への途中段階にあるというのが今の自分である。

 自由を求める自分。自由なる世界。そして自由なる宇宙。この世界を自由に泳いでいきたい。あ~自由だ~!ゴッホん。



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2013年12月11日 (水)

コワーキング

 先日東京にあるコワーキングスペースに行ってきた。コワーキングとは、「事務所スペース、会議室、打ち合わせスペースなどを共有しながら独立した仕事を行う共働ワークスタイルを指す。コワーキングは独立して働きつつも価値観を共有する参加者同士のグループ内で社交や懇親が図れる働き方であり、コスト削減や利便性といったメリットだけではなく、才能ある他の分野の人たちと刺激し合い、仕事上での相乗効果が期待できるという面も持つ。」(ウィキペディアより)であり、いま日本に300ヶ所ぐらいあるらしい。そういう僕も地元にあるコワーキングスペースに週1回程度平日に通っているのだが、まだあまり多くの人が来ていないというのが実状のため、先進地東京へ出張を利用して見学をしてきた次第である。

 コワーキングスペースを知ったのは半年ほど前新聞に取り上げられており、プログラマーやデザイナーなどフリーランスな人々が利用していると書かれてあり、当時自由人として出発して間もない頃であり、何かここで面白いことができるのではないかとの予感と想いが交差し、見学に行ったのが最初である。

 僕が訪れたコワーキングスペースは中に入るとおおきなテーブル2つと小さなテーブルがいくつか置かれてあり、ひとつの大きなテーブルに3人ほど座っていた。3人の中の1人がそのコワーキングスペースのオーナーであり、もう一人は大学生で卒論のテーマにコワーキングをとりあげており、インタビューに来ており、僕としては2人の話を聞いているだけでもいろんなことを知ることができた。

 コワーキングスペースを現在利用している人はプログラマーの人であったり、起業した人であったり、中にはどこで仕事をしても構わないといわれている会社社員だったりするとのことであり、実際僕がいる間に来た人は、プログラマー、起業家、そしてインターンシップの学生などが1つの大きなテーブルを囲んで座り、それぞれがPCを取り出し作業(仕事)を行っていた。

 彼らを見ていると時々何かの話題で盛り上がり、みんながそれに参加したと思ったら、しばらくするとみんな再びそれぞれのPCワークに戻り、賑やかになったかと思えば、パッとキーボードを叩く音だけになったりする。その間がとても絶妙だ。もしこれが話がいつまでも続けば仕事にならないし、PC作業だけだと苦しくなってしまう。ちょうどいいころ合いで切り変わるところがいい。

 そしてオーナー曰く、「もし自分で苦手なことがあれば、そこにいる他の得意な人(プロフェッショナル)に頼めばいいし、ちょっと教えてもらえばいい。必要ならば金銭を支払って頼めば、早くできるし、仕事にもなる。時にはそこにいる人たちで新しい事業が起こったりする。けれどもそこから生まれるものは仕事となるもの、ならないモノどちらでもいい。」とのこと。

 営業時間内は出入り自由。最低限のルールを守って、それぞれのペースで仕事をする。縛られない中で大人同士の対応。組織に属するのが結構苦手な僕としてはちょうどいい感じ。くっつき過ぎず、離れすぎず。

 3.11以降これまでのように企業に従属して勤めること、ましてやマネー経済の中で振り回される生活を見直す人々も増えてきた。そして人間らしさを求める生き方、人間らしさのある仕事とその仕方。実際にそれらを求めて動き始める人々も増えつつある。彼らは全く現在のテクノロジーを否定するわけではなく、むしろそれらをうまく利用しながら、自分たちらしさを発揮し、自分たちの理想とするあり方を追求する。

 いろいろな働き方、いろいろな働くことについての考え方。多様性の時代ではこれまでのような「社会人=働くこと=週5日間会社に勤めること」ではなく、働き方の概念も様々でいい。多様な人々が集まりそれぞれの価値を尊重しつつ場を共有する。お互い影響されたりして、時には一緒に何かをする。いいじゃありませんか!

  温故知新。故きを温ねて新しきを知る。伝統を大切にしそこから学びつつも、新しい世界を広げていきたいものです。そのためにはやはり意識かな。



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2013年12月 4日 (水)

1度の傾き

 社会を変えたい。今の社会を共生社会に変えたい。それが近頃僕がず~っと思っていること。

 僕からすると地球は今の人間の在り方を「よし」としていない。だから大地は揺れ、風は吹きすさぶ。そしてそのことは人間自身も感じているし、現象として現れている。だから数多くの自殺者がおり、うつ病・引きこもりなど心を病んでいる者は増え続ける。それは何も低所得者層などの弱者ばかりではない。最近は大企業に勤める人々も1分1秒の絶え間ない争いの中で行き詰まりを覚えている先の見えない中で暮らしている(らしい)。

 そんな焦り病んでる人達が争い織りなす中央世界が日本の社会形成を行っているのだから、当然のことながらそれに従う(地方)社会も病んでくる。なのである意味現在の日本の社会は病的症状、それも末期的。

 そんな社会に嫌気がさし、組織さえも飛び出してしまった僕。その社会を変えたい、そのために人々の意識を変えようとの想いから、映画会を行ったり、無農薬みかんを栽培してみたり、そしてちょっとしたイベントを仕掛けてみたり、障害者への支援をしたりと…。周りからすれば彼は一体何する人ぞと近所の人も避けて通る…(?)。

 そして特に最近思うことは「社会の傾き(方向性)を1度変えたい。」ということ。もし多くの人々がそれを行い90度変わったならば…、→スゲー。100度変わればこっちのもの。→あとは楽!なんて考えてみたりする。

 もし僕が数年かけて行った(1つの)ことが社会に影響を与えたとしても、それはわずか0.1度のことかもしれない。でもそれなら0.1度変えるものを10したいと思う。そしたら1度だ。

 もし10のコトを起こして社会の方向性を1度変えたとしても誰も見向きもしないし、気づきもしないかもしれない。僕のことだから重くってズッコケ自滅したりするかも…。もし万が一何かの拍子に5度傾きを変えることができたとしても、力でもって潰される。そんなことの繰り返しかもしれない。

 でもそれを繰り返すってこと。そしたら一つひとつが僕自身の実力となり、成長となる。イコールそれは僕の喜び。実感できる。(リア充ってやつ?)実際映画会を行って例え参加者は少なくとも、一人でも魂が揺さぶられてすごく感動してくれる人がいれば、それだけで「ヤッタ~!」成功だと思う。イベント仕掛けて、それを引き継いでくれる人がいたり、そこから新しい芽が出ると「シメシメ」と思う。障害者の支援でドラえもんの住む国の実現をと夢を見る。妄想は加速度的に拡がっていく。

 共生社会がやってくるのはいつの日か…。

 だから僕は現在ある意味すごく充実を感じているのも確か。僕の中には豊かさがある。いろいろなことを体験している豊かさ。僕自身の成長を感じる豊かさ。喜んでもらえることを感じる豊かさ。頭を使い、体も使っている豊かさ。などなど多くの豊かさがある。誰かの家に行き、ものの多さにびっくりしたりする。いやいかに僕(の家)にはモノがなくて、金銭的境遇が低いものかということにびっくりしたりする。それでもその他の豊かさがあるから焦りを感じることもない。逆に実に質素で慎ましい生活をしていることに悦びを感じてみたりする。
 
 社会の傾きを1度変える。ましてやそれをフリーランス的に行う。なんて楽しいことだろう。自分自身で立ち自分自身で歩いているってことが実感できる。そしてこんなことを夢見ることのできる僕はなんと恵まれているのだろう。

 もちろん先行きはまだまだ未定。この先どうするのだろう。どうなるのだろう、食い扶持はいつまで続くんだろうと思うこともある。それでも僕自身が選んで行っているのだから、誰の責任にできるわけでもなく、それでもやりたいことやって楽しんでるのだから…、まあいいか。

 息もできない閉塞社会から抜け出せば、そこは呼吸し放題のフリーダム。そんな世界からチョコチョコ僕なりに潜って閉塞社会を刺激する。苦しくなったらフリーダムな世界に戻る。そのくらいの緩さがちょうどいいみたい。

 僕ひとりの力などごくごく小さな雀の涙のそのまたカケラ。それでもそれをコツコツ小さいながらに続けていく。それも僕なりのペースで。僕なりのやり方で。それが僕の生き方。1度の傾きを夢見てね。

 これがまたいい追い風が吹いてたりもする。先に書いたが日本は末期的症状。イコールそれは転換期。時代が転換を求めている。古い者たちが悪あがきしている。今のままではいけないということ。

 あとは意識次第。



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