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2013年7月

2013年7月28日 (日)

人生の目的

 人は何のために生きるのぞや?なんてことを考えている。「人生の目的とは?」と思いめぐらしながら瞑想をしてみたり、ひたすらコピー用紙に書き綴ってみたり…。そしてようやくまとまりつつある。

 人生の目的その①
 ~「魂の成長」~
 永遠の存在である魂。その魂がこの体に宿り、死ぬまで連れ添っていく。その魂の目的はワンネスに向かって成長していくこと。そして魂はその母体(ワンネス)へと帰ることを目指している。だから僕らはこの3次元の肉体を通じてさまざまな経験を積み重ね、魂を成長させるために生きていく。どのような人生を送ろうとも、その目的は魂を成長させることである。
 けれどももしかするとどうしようもない人生を歩んでしまうことがあるかもしれない。幾世も輪廻転生を繰り返してきた(そして行く)魂。トータル的に見て学びとなるならば、そのような人生もよいのかもしれない。無駄なものなど何一つないのだから。

 人生の目的その②
 ~「幸せになること」~
 僕ら誰もが幸せになりたいと思う。誰も進んで不幸になろうとなんて思わない。誰もが幸せになるために生まれてき、それに向かって歩んでいくそれが人生の目的のひとつ。どのような状況から生まれようとも、人は幸せに向かって歩み出すのだ。その途中にはいくつもの困難もあるだろう。でもそれは幸せになるための乗り越えるべき壁。なんとか乗り越えて進んでいく。
 けれどもそれを乗り越えられずに、目的を見失ってしまい、本来の目的とは違った方向へ進んでしまう。よくありがちなこと…。それでもだれもが幸せを目指して生きている。
 魂は永遠であるとしても、今世この肉体の自分はこの一代限り。ならば今世この肉体で幸せにならないと。

 人生の目的その③
 ~「幸せにすること」~
 誰かを幸せにすること。仕事とは自らが動き誰かを幸せにすること。誰かを幸せにすることで、それはまた自分に帰ってくる。幸せの循環。自分のしたことで、人が喜ぶ姿を見て、また自分も喜ぶ。よりよい世界はそうして創られていく。

 人はこの3つの目的を果たすために生きている。
 みんな幸せにならなきゃね。そして魂を成長させなきゃね。そのためにまず必要なことは「幸せになる」ことを意識すること。ついついその状況に流され、知らず知らずのうちに不幸へ足を引っ張られてませんか?

 そして次に心の中をじっくりとのぞいてみること。これまでの、そして今の自分が自分で不幸を連れてきていないか?自分が自分を不幸にしていないか?心と対話すること。そしてもしそうならばクリーニングすること。

 さあ、幸せに向かって歩いていきましょう。

 意識が現実を創造する。そこにはあなたの思った通りの世界が現れている。

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2013年7月26日 (金)

生きる喜びを与えたい2

 障害があろうと、誰もが当たり前に暮らしていける社会。そんな思想のソーシャルインクルージョン。それに向かってさまざまな生涯分野の人々が集まり話しあう。その名は自立支援会議。

 彼らは障害者たちがどうやって自立して暮らしていけるかを議論する。僕は参加したことはないけれど、間違いなく誰もが真面目に、真剣に話し合っているのだろう。そしてさまざまな政策を掲げて実施していこうとする。そうして社会を少しずつ変えていこうとする。それは素晴らしいこと。

 でも僕はそれをイメージした時、ふっと素朴な事を考える。障害を持っていても当たり前に暮らせるってことって、ホントはもっと簡単なこと、単純なことじゃないのだろうかと。それは、

 もっと周りの人達が少しだけ優しくなればいい

 ことだけなのではないかと…。でなきゃ次から次へと政策の内容を覚えて、法律ができれば、その法律の勉強して…(法律に目を通したと何に眠くなる僕としては)、あまりにうっとうしい。

 「逝きし世の面影」(渡辺京二 著)の中に次のような一説が出てくる。(以下転載)
 その安息と親和の世界には、狂人さえ参入を許されていた。フォーチュンはディクソンら友人とともに鎌倉を訪ねたが、町中に入ると女が一人道路の真ん中に坐りこみ、着物を脱いで裸になって煙草を吸い始めた。明らかに気が違っているのだ。フォーチュンらが茶屋で休んでいると、彼女がまた現れて、つながれているフォーチュンらの馬に草や水を与え、両手を合わせて馬を拝んで何か祈りの言葉を呟いていた。彼女は善良そうで、子供たちもおそれている風はなかった。フォーチュウんたちはそれから大仏を見学し、茶屋に帰って昼寝したが、フォーチュンが目ざめて隣室を見やると、さっきの狂女が、ぐっすり寝込んでいる一行の1人の枕許に坐って、うちわを仰いでやっていた。そして時々手を合わせて、祈りの言葉を呟くのだった。彼女はお茶を四杯とひとつかみの米を持って来て、フォーチュン一行に供えていた。「一行がみんな目を覚まして彼女の動作を見つめているのに気がつくと、彼女は静かに立ち上がって、われわれを一顧だにせず部屋を出て行った」。狂女は出入り自由で、彼女のするところを咎めるものは誰もいなかったのだ。当時の文明は「精神障害者」の人権を手厚く保護するような思想を考えつきはしなかった。しかし、障害者は無害であるかぎり、当然そこに在るべきものとして受け入れられ、人々と混ざり合って生きてゆくことができたのである。 (転載終了)

 もちろん当時見世物小屋として、障害児者を見せものとしてしまうようなこともあったのだろうけど、当時はやはり人々の心は今よりももっと穏やかで、許容する範囲が広かったのだと思う。

 僕らはつくづく江戸時代末期から明治初期にかけ、ものの考え方を変えてしまった民族なんだ。欧米化を手本として。日本人の良さをかなぐり捨ててしまった。けれども、どこかにその心は今も残っているのではないかと期待もしてしまう。

 もしこの心を今の僕たちが取り戻すことができたならば、障害者の法律など作る必要もないのにと思ってしまう。そもそも障害者のための法律で保護するという時点で区別している。

 そう、誰もが取り戻せばいいだけなのだ。新しい形にデザインしなおして時代にあうようにすればいい。そして誰もがほんの少し人に、社会に、自然に、そして地球にやさしくなれば、それだけで日本は変わる。

 でもって、やはりそこに必要なのは「知足の心」なんだよな…。足るを知る。そして満たされる。そしたら周りに少し返そうとする。それが伝播する。それだけのことなのだ。

 心が満たされる。それを勘違いしてフトコロが満たされることばかり考えてしまっているのが現状…。そんなもの上着一枚剥がせばあっという間になくなってしまうのに…。それに比べ心の奥はのぞけばのぞくほど深くなる。宇宙と同じく広大に深遠になる。そんな心が「知足」ひとつで満たされるって、すごいこと。

 この違い、似たような場所にあるけれどもかなりの違い。心を落ち着けのぞいてみれば、そこは穢れなき静寂の世界。

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2013年7月24日 (水)

生きる喜びを与えたい

 重症心身障害児者
 重度の肢体不自由と重度の知的障害とが重複した状態を重症心身障害といい、その状態の子どもを重症心身障害児とう。さらに成人した重症心身障害児を含めて重症心身障害児(者)と定めている。下表の1~4に当たる。
 

 そんな児童(人)が通う場所を訪れてきた。

 その日そこには5人の子供と成人が通って来ていた。寝たきり状態の子(人)、意思疎通の難しい子(人)、あるいは少しはしゃべることはできるけれど、ハイハイでしかできない子(人)などがいたのだが、その日僕がしばらく着いたのは小学2年生の女の子。

 彼女はなんとかしゃべれるのだけれど、未だ赤ちゃんのように首が固まっておらず、自分で座ることができない。そのため専用の補助椅子を使ってなんとか姿勢を保っている状態だった。

 最初彼女はゴリラのパン屋さんの絵本を読んでいた。それを見ていると彼女がどんどん前かがみとなり、顔を床に着けるぐらいになていった。どうしたの?と一瞬思ったものの、そのままにしていると、職員の人から「この子はまだ首が座っていない状態だから。」と教えてもらい、姿勢を整えてもらった。

 それから彼女が「本読んであげる」と言って、一生懸命声を出して絵本を読み始めた。けれどもそのページに書かれてある文章の一部を読むことはできても全部は読むことはできない。そして次のページを開けようとするのだけど、うまく開けることができない。3ページぐらい飛んでしまったりもする。なのでページを開くのを手伝ってあげようとすると、「自分でするからダメ~」っていう。そしてみんなに「聞いて、聞いて」って言い、再び最初から読もうとする。そしてまた3ページぐらい先へ…。また最初から…。そんな繰り返しが続いた。

 僕はその日小一時間ぐらいしかその場にいることはできなかったのだけれど、なんだかすごくその女の子がけなげに感じた。そしてその女の子だけでなく、ほかの子供たち、人を見てなんだか「じ~ん」と感じ入ってしまった。そして帰り道車の中で再び彼彼女たちのことを考えた。

 かつて僕が高齢者の施設働いていた時には、ここにいる人達にいかに楽しく過ごしてもらうかを考えた。そして究極的にはここにいる人達にいかに満足して死んでもらうかというQOD(quority of death)死の質を考えながら働いていた。そして10年目にして遂に満足して亡くなってもらえたという実感を得て、その世界を去った。

 けれども今回出会った子供たち(人達)はこの先も生きていく。もちろん中には病気が原因でなくなる人もいる。けれどもこれから先もこの障害を持ちつつも生きていく。

 なんだかそれを考えると、この子(人)たちに、生きる喜びを与えてあげたいと思った。それは僕たちからするとごくごく小さな喜びかもしれない。例えばそれは日常的に触れあう人の数を増やしてみるとか、あるいは動物園に行ってみるってことかもしれない。でもそれは彼彼女たちの世界を拡げてあげること。ホンの小さな彼彼女の自己実現をしてあげることができたならばどんなに素晴らしいことだろう。そんなふうに思った。

 なんだか約40分の間にスゴイ夢を見せてもらった気分だ。そして今僕はこの子(人)たちの生活の充実に向けての仕事を始めようとしている。この子たちの自己実現ができるような世界をデザインしたい。そんなことを考えるとワクワクして来た。

 これもまた21世紀のデザインの世界。障害があろうとなかろうと当たり前に生活できる。ひとり1人の価値が認められる。やっぱそんな世界っていいよな~。

 描こう21世紀のデザイン!そして創ろう21世紀。他人任せにするんじゃなくて、僕たち自身でじっくりと創って行こう。

 ワクワク世界がやって来る!

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2013年7月21日 (日)

なんとかしなきゃ(21世紀をデザインする2)

 社会福祉という業に12年間携わっていたこともあるのだろうけれど、最近特に気になって仕方がないのが、年3万人の自殺者、100万人のうつ病者、そして70万人の引きこもりというこの数字。

 その引きこもりいわゆるニートという奴だけど、厚労省の統計では15歳~35歳以下の人ということで70万人という数字が出ているのだけれど、実は全国の引きこもりの3割が40歳以上らしい。ということは40代以上の引きこもり者は30万人以上いるということになり、日本人の100万人以上が引きこもっていることになる。

 3万人の自殺者、100万人のうつ病者、そして100万人の引きこもり者。もちろん重複している人もいるのだろうけど、その数203万人。実に総人口の1.7%の人がこの日本の社会に苦しんでいる。2010年の福島県の人口がおよそ203万人。福島県民全員が病んでいるってことになる。(ホントにいま福島県民全員が苦しんでいる…。)

 もうひとつあげるならば、日本の自殺者年間3万人。これを自殺率に換算すると日本は人口10万人当たり男性33.5名、女性14.6名の計23.8名の自殺者数となり、世界で5番目に多い国となる。(ウィキペディア参照)

 これらの数値を見て暗雲たる気持になるのは決して僕だけじゃないだろう。今の日本どう考えてもよい国だとは言えない…。なんとかしなきゃ。

 けれども政治家でこれらを取り上げている人がどれだけいるのだろう。選挙で取り上げるのは憲法改正、経済のことばかり…。今の政治家では誰を選んでも、益々社会の状況は悪くなりそうだ。

 繰り返すが、なんとかしなきゃって思うのだ。実際それぞれの問題に取り組んでいる団体は数多くある。僕の身近なところでも、いのちの電話や自殺防止センターなどよく耳にする。各機関の人々には是非とも頑張ってもらいたい。

 でも今僕が取り組みたいのは、それらに直接アプローチする方法ではなく、その解決のためのデザインを考えるということ。

 デザインとは課題を解決していくこと。あるいは構想して、形にして、世の中で実際の動きを生み出していくこと。あるいは問題の本質を一挙に捉え、そこに調和と秩序をもたらす行為等さまざまな定義づけがされる。まさにその通りなのだろうけれど、僕がこのデザインに感じるのはその中にある「力」。

 デザインにはさまざまな人を動かす「力」があると思うのだ。人と人をつなげる力、みんなを納得させる力、人の行動を変えさせる力、あるいは人に情熱を与える力など様々な「力」。その力がデザインに内包されていると思うのだ。その力でもってこれらの課題にアプローチしたいと思うのだ。

 しかしかつてのこの国は外国人から見て「誰もが幸せそう」に見え、まるでパラダイスのように思われたのに、今では誰もが病んでいるような国となってしまった。そんなに昔のことじゃない。150年程前のこと。5,6世代前のこと。(よくこのわずかな期間でここまでガタガタにしてくれたものだ…。)

 なのでまだまだやり方次第では取り戻せると思うんだ。現代とミックスした新しい形でその再現は可能だと思う。そのデザインを考える。そしてそのキーワードはどんどん浮かびつつある!

 どうせ生きるならば、毎日を苦しみの中で生きるんじゃなくて、毎日を愉しく生きていきたいよね。だって誰もが幸せになりたいだろうし、実際幸せになるために僕たちは生まれてきているのだから。

 そんな方法が必ずあるハズ。デザインの力を信じよう。

 意識が現実を創造する!





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2013年7月18日 (木)

「知足の循環」方程式

図解はこちら

「知足」とは足るを知ること、あるいは知っていること。
足るを知るものは、自分自身の中に十分有るという感覚があり、それは「満たされている」ということ。自分の感覚の中に「満たされている」という感覚があるということそれは、「幸せ」であるということである。

 自分自身が満たされて幸せである人はその幸せを感じ、その十分な状態から、誰かあるいは何かのために役に立ちたいと思う。すなわち何かのために自分の持っているものを差出し、貢献したいという気持ちが生じる。それは決して自らを犠牲にするというようなことではなく、あえて言うならば「仏の愛」、あるいは「慈悲」である。すなわちその人は「無償の愛」を提供しようとするのである。

 そしてその無償の愛を提供することにより、誰かあるいは何かが満たされる。そしてそれを受け取った側は、自身が満たされた時には、知足を理解した時には、それをまた誰かあるいは何かに返そうとする。こうして知足の循環が生じた時、そこは誰かあるいは何かを傷つけることのない世界が生まれる。その世界こそ極楽と呼ばれるものであり、パラダイスと言われるものである。

 知足の循環方程式とは幸せの社会のつくり方である。


 ところが現実社会を見てみると、「知足」という言葉はどこかに消えてしまっており、人々は刺激と興奮を求め、エゴすなわち「貪欲」と「嫉妬」をむき出しにし、欲のままに浪費しようとする。そしてその欲の循環をあおるのが市場経済であり企業である。企業はあらゆる手段を用いて人々を刺激し、興奮させ欲をあおる。当然ながらそこには環境への配慮や人間自身の成長などはなく、有るのは企業の「利益の最大化」である。

 この世界では人々は絶えず欲にかられ、それは終わることない苦しみの続く無間地獄のような世界である。そしてその世界が続く限り、社会も地球環境も破壊されていき、行きつく先は破滅である。

 現在の地球環境は人間の経済活動(工業活動)による森林破壊、水質・土壌汚染、更には放射能汚染などにより、自然破壊され続け、その結果としてこれまでにない自然災害が頻繁に起こるようになっている。このことを私たちはどう受け止めるのか。

 危機として認識し反省して自然との共生の道を歩むのか、それともこのまま欲にかられ浪費行動を繰り返すのか。現在我々は破滅か存続かの岐路にいる。

 
 僕は当然ながら21世紀を「幸せの社会」を創りたいと思う。この地球はあまりに美しくて偉大だ。僕はそのことを20代のバックパッカーの旅で学んだ。だからこの美しき星が見るも無残な状況になってしまうことに耐えられない。もちろん人間が今あるすべての核兵器や攻撃兵器で持って地球を木っ端みじんにしない限り、地球が滅びることはない。滅びゆくのは人間だけ。人間が滅びたならば、地球は数百年、あるいは数千年をかけ再び元の美しき姿に戻るだろう。

 けれども地球は(未だ)人間が滅びることを善しとすると思っていないと思う。できれば人類という叡智ある存在の力をして、お互いが共生し共発展することを望んでいると思う。なぜならばそれこそがお互いが一番成長する方法だから。

 宇宙の法則とは絶対愛であり、絶対善である。人間はともかく地球はこの宇宙の法則にのっとり今ここに存在している。僕らはそろそろこの宇宙の法則に従って生きることを学ぶべきだと思う。


 だから僕はそのためのデザインを考え続け、提示していきたいと思う。変と思われようがとことん考える。そして僕のできることを実行していく。なぜなら僕はこの地球が愛おしくてたまらないから。

 意識が現実を想像する。「知足」が新しい21世紀の世界を創りだす。まだまだ知足について学ぶことがある。そしてこれこそは究極の実践すべきこと。





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2013年7月17日 (水)

21世紀のデザイン

 2013年7月。気がつけば2000年のミレニアムから13年半経過。この間一体僕たちは何をやって来たのだろう。
 
 現在を見てみると、20世紀の状況〈残骸〉を維持するために、その場その場に合わせようとする政策を実施するばかり。終わろうとしているものに対してなんとか生き長えさせようと、必死になっているのが現状。

 政治家たちは強い経済や経済回復(成長)と国民に訴え、まるでそこに未来があるように思わせようとしている。けれども、実際のところは終わろうとしているものを何とか明日まで持たそうとしているだけで、将来のビジョンは何も持っていない。有るのは権力欲そしてその維持だけ。ゴミ箱だけ。

 だからそこには社会のひずみが現れている。そのひずみとは3万人の自殺者、100万人のうつ病、60万人のニート。彼らはいわばこの生きながらえ政策の犠牲者である。そして誰も今の社会がよい社会とは言えなくなっている。

 今本当に必要なこと。それはもちろん経済の回復ではない。それは21世紀のビジョン。2050年まであと40年もない。2050年がどのような世界となっているのか、そのしっかりとしたビジョンである。

 ではそのビジョンをどのようにして描くか。デザインするか。何も全くもって突飛な世界を描けということではない。現在の危機を乗り越え、現在の予兆を発展させた社会を描けばいい。

 では、現在の危機とは何か?それはひとつは経済(成長)が終わろうとしていること。そしてもう一つが地球の環境危機。そして最後に精神の危機と発展。

 まず始めに、経済の成長の終わりについて。ハッキリ言ってこれはもう終わるもの。これを何とかしようとしても仕方がない。維持しようとすればするほど、その後のダメージが大きくなるというのが結末。これまでにあまりに経済を大きくしすぎてしまったのだ。そいつは地球というキャパシティを超えたものとなってしまった。必要以上に大きくしてしまったのだから、対処として小さくしていくしかない。だからいかに小さくし、再びバランスを保つようにできるかである。(けれども政治家たちは全く反対のことをしようとしている。)

 そして地球の環境危機。僕ら人類は地球の環境がもたらしてくれた恵みでもって生きている。それが破壊されたならば、人類も滅びるしかない。先に触れたけど、経済は地球のキャパシティを超えるものとなり、地球環境がもたらす恵みさえも壊していった。だから、滅びたければこのままの政策を続けていく。滅びたくなければ、地球との共生できる道を選ぶ。そのどちらかである。

 そして精神の危機と発展。経済成長とともに人間の精神は低下し、破壊された。だからマザーテレサは日本の子供ほど精神的危機に直面しているものはないといった。今の社会にあるのは「貪欲」と「嫉妬心」に基づいた貧しい心。この心が老人から子供にまで行きわてってしまった。けれどもこの信仰が進むと同時に精神の大切さが見直されたのも確か。そしてスピリチャル(精神性)の世界が広がりつつある。だからこの精神性の復興と発展なしに未来はない。

 これらをもとに未来をデザインしていく。経済を縮小させ、地球環境を取り戻し、そして精神性を高めていった姿を描けばいい。もしかするとそれは一つだけの世界ではないのかもしれない。なぜなら宇宙の法則は多様性。これらの共通項をもとに多様な世界をデザインし、一人一人がそれに向かっていく。未来には宇宙の法則にのっとった多様な世界が現れるのかもしれない。

 ちなみに宇宙の法則は絶対愛であり、絶対善である。そしてその宇宙さえも成長している。

 未来にはその人その人がそれぞれに描いた描いた未来がやってくる。この世の法則とは思い描いたことが、そのまま現実世界となり現れること。振り返れば自分が思い描いた通りの世界が出来上がっている。

 21世紀のデザインを描きましょう。そして未来を創造していきましょう。意識が現実を創造する。そしてその意識とは過去から未来へと永遠に続く意識。

 あなたは何を望んでいますか。未来のあなたの意識とはどのようなものでしょう。今現在の心を手離して、未来の心に触れてみるのもいいかも。

 放たば満たされる。

 もう13年も過ぎてしまったんですよ。そろそろしっかりとした21世紀をデザインしてそれに向かって進んでいきましょう。今の僕たちにできること、しなきゃいけないことは21世紀のデザインを描き、それに向かって歩んでいくことです。

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2013年7月13日 (土)

自惚れの自画自賛

 準引きこもり中の(だった)自分の訴え。

 みかん畑で枯れてしまったみかんの木を1本引っこ抜いた。激闘すること約1時間。汗だくになった。途中根っこが全く動かずくじけそうにもなるし、暑さで倒れそうにもなった。それでも何とか引っこ抜いた。仕留めた根っこの重さいったい何キロだろう。

 そのみかんの木と激闘しているとき思ったこと。自分って格好いいんじゃないってこと。こうして肉体を酷使して汗だくになり働いている自分って格好いい。

 知的労働社会となり、多くの人が(椅子に座って)脳みそばかり使っている。そしてより論理的に展開し相手よりも少しでも優位に立つことばかり考えている。それに比べて自分は体全体を使い、筋肉を躍動させている。そしてわずかなれど、どうすればより上手く引っこ抜けるか頭も使っている。そんな自分が格好いいと自惚れた。

 ましてや世の中の政治家たち。国民が関心ある原発問題やTPPについてはあえてぼかして、相も変わらず「景気回復、経済拡大!」と経済のことばかり訴えている。結局行きつくところは己の利益と利権ばかり。いくら新人の候補者が原発反対、TPP反対といったとしても、結局党の方針には逆らえない。

 彼らは汗をかく。けれどもそれはクーラーの効いたスポーツクラブの中。安全性を考慮されたマシーンで負荷をかけ上げ下げし、速さを調節できるラバーの上を走る。数量と時間をこなし、それが終わればスポーツウエアを脱いで、サウナにビール。

 そして自分も汗をかく。けれどもそれは太陽の下、みかんの木という自然物が相手。のこぎりで枝を切り落とし、シャベルで土を掘る。ブンブンたかって来る蚊に悩まされつつ、ドロドロになりながら、引っこ抜くまで終わらない。なんとか1時間かけ引っこ抜き、その木に対して「これまでずっとおいしいみかんをありがとう。ここに新しいみかんの木を植えるから…。」。余裕があれば木にキスでもしたいところだが、そこまでの力も残ってない。(いずれお風呂の薪とする時にでも…)。土で真っ黒になった顔に服。家までこの格好で帰らなきゃならない。

 夕方とはいえまだ気温は高く、汗はどんどん流れ落ち、脱水もしくは熱中症気味となりフラフラ状態での馬鹿な妄想かもしれない。それでもこうして自然の中で一生懸命になれることが素晴らしい。シャツとズボンはドロドロとなり、中のTシャツは汗にまみれてぐっしょり、即洗濯機行き。それでもこうしてひと仕事を終えた後は気持ちがいい。

 そして一体いつのこととなるか分からないけれど…、いつかきっと化学物質過敏症の人でも食べられる、安全・安心そして元気の出るみかんを作るんだ!彼ら(彼女たち)が美味しいって喜ぶ顔を夢見ながらこうして肉体労働をこなす自分が素敵。

 ちなみに引っこ抜いたた時にやって来て、それを見た親のひと言「そのまま放っておけばいいのに…。」だって。気にしない。気にしない。でもこうして書いてること自体が気にしてる。欲求不満解消!

 生きてることって楽しい!&ありがたい!



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2013年7月10日 (水)

再びの玉音放送

 日本のバブル経済崩壊から22年。そして阪神大震災から18年。この間ずっと日本の社会は低迷状態。経済の復活を目指し、市場原理主義に基づく規制緩和、構造改革による内需拡大と次々と経済政策を行うが、どれも当たらずじまい。一時期なんとかアメリカの金融バブルに乗っかり上昇するかと思ったけどリーマンショックでまたまたどん底。大手企業も店じまい。自殺者毎年3万人。今ではうつ病患者100万人、学校にも行かない仕事にも就かない若者ニート63万人という重症社会が存在する。

 バブル崩壊から再び株価の上昇を夢見ては挫折を繰り返す。あの阪神大震災の焼け野原を見て唖然とし、そこからボランティア精神を起こすも、時の流れと共にあの日の精神は薄らいでいく。

 今思えばバブル崩壊、阪神大震災いずれも「経済成長の終わり」を告げるメッセージ。新たな社会を構築しなさいということ。それにもかかわらず日本はそのメッセージに気付くことなくただひたすら「経済の復活」を目指して借金を積み重ね、国家・国民を疲弊させていく。そもそも腐敗したものを元に戻そうとしても不可能なこと。

 そんな中で起こった東日本大震災。津波に襲われ多くの市町がのみ込まれ、阪神大震災以上の被害。それに加えて福島の原発事故。水蒸気爆発だけでなく、核爆発まで起こり、戦争を知らない世代も広島・長崎の悪夢を思い知らされた。

 ぎりぎりのラインで天から再度のメッセージ。けれども政府は原発の再稼働をすすめ、なおかつ原発の輸出も奨励。そして懲りもせず経済成長を目指し、今では異次元の金融緩和でばら撒き状態。お陰で世界の金融・経済崩壊競争のトップグループー入り。

 そして東日本大震災で再び高まった精神も国民の大半がまたまた薄まりつつあり、再び刺激と興奮に走りつつあり、メディアのつくりだす嘘の世界に流されていく。経済至上主義の中で、貪欲と嫉妬心をむき出しにし、消費を繰り返す。自己の欲に流されるまま。少数の意識あるものは山や島へと疎開していった

 もちろん政治に新しい日本を創りだすリーダーシップはない。政治家の役割はアメリカの命令に忠実に従うこと、そしてそれを分からないように覆い隠すこと。

 今の日本はある意味戦争終了前。当時多くの日本人は負けることを知っていた。(感じていた)。けれどもそれを口にすることなく、ただ大日本帝国の中で黙々と生きていた。現在の日本人はこんな他を犠牲にした生活がいつまでも続くわけがないと感じている。けれどもやめられない。
 
 今日本人の意識を変えられる人は誰もいないのか。東日本大震災以上の災害をもたらさなければ、日本人の意識を変えることはできないのだろうか?

 欲にかられた日本人の意識を変えさせられる、欲を制御できる人。それができる人がひとりいる。

 天皇陛下。

 戦争終了時の天皇の「玉音放送」。それにより日本国民は戦争の終わりを知った。国民はそれを聴き涙すると同時に、翌日からは昨日までの敵を友とした。

 現在の地球環境の危機、社会の危機それらを訴え、国民に自分たちの生活を見直させる、そして共生できる環境を創る意識を持たせることができるのは天皇のお言葉。

 「人間による自然破壊により地球温暖化、異常気象、自然災害と地球は現在危機的状況にあります。これを解決するには人類が今一度これまでの欲にかられた生活を見直し、知足を知るしか有りません。そしてそれはムー直系の日本人から始めなくてはなりません…。」

 天からの最終警告を突き付けられる前に、日本人が意識を変えるには↑のような「玉音放送PART2」が必要なのかもしれない。今ならデジタル放送、お金持ちの人は4kテレビの鮮やか映像で!

 アベノミクスがアベノリスクとなりアベマゲドンとなる前に備えあれば憂いなし。天皇が再びの玉音放送をしなきゃならなくなる前に、自主的な心の浄化が必要だ。

 回向返照は宝なり。

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2013年7月 5日 (金)

改革:今必要なのは消費でしょうか?

中学校の歴史の時間を思い出してください。江戸時代の3大改革と言えば…? 享保の改革」「寛政の改革」そして「天保の改革」です。どの改革もそれぞれ財政安定化を目指しているのですが、どの改革にも共通するのは「倹約」ということです。つまりは消費を抑えることです。そのうえでさまざまな政策を行っているのです。


お金がない! ではどうする? まずは「できる限り節約しましょう」。これって考えてみれば(考えなくとも)ごくごく当たり前のことですよね。普通は誰だってそうすると思うのです。


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ところが現在の国のあり方はというと、「お金がない?」。だったら国が借金こさえて、自然破壊してお金作るから、消費しましょう。つまりは国債を発行して、公共工事を行って、お金を回すから消費しなさいということであり、時には国民ひとり1人に直接(給付金を)支給するから消費しなさい!というやり方です。とにかく消費しなさい。消費しなさい、というのが今の政治のやり方となっています。それがゆえに国の借金は1000兆円を超え、国民一人当たり800万円の借金を背負っている状況です。



これは日本だけではありません。世界を見てみると先進国と呼ばれる国、そして今や大国となった中国も同じようなものです。要するにそれぞれが、お金を刷りまくり、そしてばら撒け、ばら撒け政策なわけです。これは本当にいいののでしょうか?



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中学の現代社会の時間に「管理通貨制度」という言葉を習ったと思います。各国の中央銀行が通貨の発行量を管理するってことだと覚えていたのですが、調べてみると「各国の中央銀行が自国の経済規模に見合った分だけ通貨を発行」とあります。現在のばら撒き政策というものは、どう考えても自国の経済に見合った分というよりも、自国の経済の都合に合わせて勝手に発行…としか思えないのです。見方によっては誰も管理していない無法地帯といえるのではないでしょうか。


そんな訳で消費しろ、欲望を煽り、それを満たすために消費しろ政策を進めてきた結果が現在の、経済状況、地球環境、そして社会状況だと思うのです。それにもかかわらず今も経済成長・景気の拡張を訴え続ける政治家たちばかりなのです。


個人で、お金があった時に派手に使った。けれどもお金がなくなった。そしたら倹約して質素に暮らす。そして時期を待つ。もしそれができずに、お金がなくなった後も、借金して使い続けたならば、身を滅ぼす。これって当たり前のことではないでしょうか?



日本もバブルの時にはお金があったので派手に使いました。けれどもはじけてお金がなくなりました。本来なら倹約をします。もし借金して使い続けたならば、国が滅びます。これも当たり前のことではないでしょうか?故に四半世紀以上停滞した日本があり、社会の状況は悪くなる一方なのです。



お金を刷って、刷って、消費を促すので、今や先進国と呼ばれる国の人々の多くががマリー・アントワネット、ルイ16世状態です。欲望を求めていけばきりがないのです。結果マリー・アントワネット、ルイ16世の運命は、国民の怒りを買い「死刑」となりました。今では国も加担し、個々人がそうなっているのですから、この先に待っているのは…「無間地獄(※)」しかないでしょう。



それと今の政策の根本にあるのは、人間は何でもできる。何をしてもいい、この地球上において人間が一番という思い上がりです。だから自然環境は破壊され、地球がボロボロになり、その影響をその影響を被るようになってきました。今のままでは国はもちろんのこと、人間も滅びることとなるかもしれません。ひたすらそれを先延ばしにしていますが、もうまもなくかもしれません。


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現在の財政状態の悪化に対して必要なのは「節制」です。そしてそれには「知足の心」が必要です。足るを知ることです。もちろん世界はお金にまみれてしまい、それが人間生活の土台となってしまっているがゆえに大なり小なりの混乱は生じるでしょう。けれどもそれが元に戻すための一番の方法だと思うのです。


もし当たり前に考えて、今の社会が少しでもおかしいと思うならば、まずは自分の生活を見直しましょう。そしてあれがない、これがないという前に、足ることを知りましょう。ある物を見てみましょう。まだまだ使えるのではありませんか?そしたらひとつ豊かになれます。そしてそれを意識して、また次のものを見てみると…、そんな人が増えていけば、そしてその人たちがつながっていけば、きっとそこには新しい世界が見えてくるはずです。


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※無間地獄とは、大罪を犯した者が落ち、絶え間ない苦しみを受ける地獄のことです。無間とは、間がない、つまり苦痛が間断なく襲ってくることの形容です。







らいふあーと~僕らは地球のお世話係~

2013年7月 1日 (月)

欲が出た

 只今40代前半ながら、ここ数年もうこの後の人生はある意味“余生”だって思っていた。

 というのも20代で世界を十数カ国ながらトータル1年以上旅し、大自然や人間の創造物を満喫し、多くの人々に出会いもした。九州から北海道までフラフラと旅し、そして、20代の終わりからはお寺にこもって修行したり、四国をお遍路として歩いて一周した。精神世界にもどっぷり漬かり、さまざまな見えない世界を体験もし、十二分にいろいろな世界を体験して来た。

 だからあとの人生は社会にわずかながら貢献できればいいし、世界が少しでもいい方向に向かってくれればいいと思っていた。それで20年後の新しい世界を見ることができればいいなんて思っていた。なのでいつ死んでも満足できると思っていた。

 ところが先日「あした死ぬかもよ?」(ひすいこうたろう著)という本を読み始め、自分自身が死ぬ日、死ぬ瞬間のことを考えてみた。

 (本文より一部抜粋)
 今日が、あなたの人生最後の日、そして最後の瞬間です。
 あなたはパジャマを着て、今病院のベッドの上にいます。
 病室にはあなたひとり。天井の蛍光灯の光をぼんやり眺めています。

 あなたの一生は、どんな人生だったでしょうか?

 いつ最後の日が来ても後悔はない。そんなふうに胸を張って言える人生でしたか?

 あなたの魂は、あと30秒で肉体を離れます。
 あなたは、あと20秒で死にます。

 静けさのなか、空調の音だけがかすかに聞こえてきます。

 心臓の鼓動が今にも消え去りそうです。
 わずかに残っていた意識が何者かに引っ張られるかのように遠のいていきます。

 はい。あなたはたったいま死にました。
                  (抜粋終了)


 以前ならもういつ死んでも満足したって言え、最後の日が来た時に後悔することはありませんかとの問いに、「はい、ありません!」って答えられていた。一匹狼であることを「よし」とし、孤独死、野垂れ死にすべてOKと思っていた。
 
 ところが「今」死ぬことを考えたら、自分ってずっと一匹狼だったな。それも臆病な一匹狼だった。そしてこれまでの自分は人と心を通わせたことがないって思った。

 これまでに恋もした。DVの人を助けもした。高齢者にとことん尽くしたこともある。そこそこ人のや社会の役にも立ったと思う。何十カ国の人に会い、何千という人と出会ってきた。けれども自分は人と心を通わせたことがない。だから今死ぬとなるとそのことで「後悔」するって思った。

 ところで、本の最初にアメリカで90歳以上の老人に「90年の人生を振り返って唯一後悔していることは何ですか?」という質問をしたところ、90%以上の人が同じ答えだったとのこと。それは、

 「もっと冒険しておけばよかった」とのこと。

 確かに僕もまだまだ冒険してみたいと思う。というよりもワクワクドキドキしながら楽しく生きていきたいと思う。けれども今の自分の場合はそれ以上に「心を通わせてみたい」ということ。心から話を聴きたいし、聴いてもらいたい。

 かつて何人かから「こんな話は誰にもしたことがないのだけれど…。」って話をされたことがある。(今では何の話だったか覚えてないけれど、一種の自己の告白だった…。単なるよくある手か…?)それとも違う「心を通わす」ってこと。

 人間お互いが全く同じ経験をして来たってことはないから、完全に相手のことを理解することって不可能なのかもしれない。けれどもそれに近い状態にはなれると思う。例えば、長年連れ添い会った夫婦が、阿吽の呼吸でお茶を出したりするのに近いものとして…。


 というわけで、今死ぬと後悔することがあるってことが分かった。もしかしてこれは「欲」?それとも今頃になって寂しさを感じ始めたか?それなら単なる「年」か?
 
 どちらにせよ今死ぬとなると後悔が残る。ということで今死ぬわけにはならない!余生とも言えなくなった。あと30年位(?)生きよかな。社会に貢献しつつ、この寂しい心の癒しを求めてみようと思う。一所懸命に。

 ちょうどこの7月に600年ぶりの神様の総入替りもあるそうだし、これまでの生き方を大切にしながらも、「心を通わす」っていう新しい生き方を求めるのもいいのかもしれない。地球との共生・共発展を目指しつつ新しい生き方を追求してみよう。


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