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2013年6月26日 (水)

人間に宿る狂気

 鬼才スタンリー・キューブリック監督の「時計仕掛けのオレンジ」。この映画前々から気になっており、いつか見てみようと思っていたのだけど、何故かいつもいつも先延ばしとなっていた。けれども先日遂にレンタルし見てしまった!

 で、見終わった直後の感想をひと言でいえば、「なんやこれ、全く意味わかんね~。お下劣なだけじゃん。きっと見る人によっては吐き気を催すんじゃないの?作者も監督も何を意味したかったのか全く分からない。」あるいは「時間の無駄。」と最初は思った。

 映画の概要としては、暴力やセックスなど、欲望の限りを尽くす荒廃した自由放任と、管理された全体主義社会とのジレンマを描いた、サタイア(風刺)的作品。近未来を舞台設定にしているが、あくまでも普遍的な社会をモチーフにしており、映像化作品ではキューブリックの大胆さと繊細さによって、人間の持つ非人間性を悪の舞踊劇ともいうべき作品に昇華させている。皮肉の利いた鮮烈なサタイア(風刺)だが、一部には暴力を誘発する作品であるという見解もある。(ウィキペディアより)

 ということで映画は主人公のALEXとその仲間たちのやりたい放題から始まり、ALEXが逮捕されてから後の無茶苦茶な展開と、それぞれのやりたい放題でもって映画は終わるのだけど、最初の「意味分からない」状態から、せっかくなのでこの映画で作者や監督の世間への問いかけを考えてみると、気がついたことがある。

 映画の最初から最後まで続く狂気。もしかするとこれは世界に宿る狂気を現したのではないか。無茶苦茶なことをする主人公、無茶な治療をする精神科医、そして彼らを利用しようとする政治家などそれぞれの登場人物から読み取れる狂気。それぞれ一歩踏み外せば狂気の世界が宿っている。これは人間の中にある狂気を描いた作品なのか?

 そう解釈しているうちに、ふと自分の中にある狂気を感じた。自分の中には確かに狂気がある。いくら世間体には真面目(?)に見えても、怒り・暴力・憎しみ・欲望など確実に自分の中にある狂気。

 普段はそれを抑えて生きている。でも時にちょろちょろ出る。なれた場所、なれた人の前ではチョコチョコと…。でもそれをもろに出してしまうとアウト!全てがぶっ飛んでしまう。

 よく殺人事件等の(テレビ)ニュースで近隣や親しかった人のインタビューが映されており、「普段は真面目でいい人だったのに…。」「いつも挨拶をしてくれて…信じられません。」なんてのがあるが、まさにこれなど狂気がモロに表沙汰となったケースと言ってもよいのではないか。

 人間の中には確実に大なり小なりの狂気があると思う。そしてそれを僕らは理性や道徳心でもって抑えて生きている。あるいは学びを通じて抑えていく。一生を通じて抑え続け、それをできる限り小さく、あるいはなくしていく。そうすることである人は「人格者」と呼ばれたりする。

 人間の中には狂気があることとして、例えばかつてはとても上品だった人が認知症となり、急に下品な言葉を言ったり行動をとり始め周囲の人を戸惑わすことがある。これなどまさにずっと抑えていたものが解き放たれたと言えるのではないか。

 ではなぜ人間には狂気が宿っているのか。どうせならない方が全然いいに決まっている。けれどもそれは確実にある。何故か。世の中すべて必然・必要のはず。なぜならそれを通じて学ぶため。人間が学び成長するため。もっといえばそれは魂を成長させるため。

 学びや魂の成長には相対的なモノが必要。相対的なモノがあることによって人は比較ができ学ぶことができる。狂気を通じて学び、成長させていく。自分の中にある狂気を抑えていくことにより相対的かつ普遍的に物事が見られ、そしてそれが魂の成長の糧となる。

 なので「狂気を宿している」ことは人間に課された使命のひとつと言ってもよいかもしれない。人間は狂気を宿しながらそれを抑え、できる限りなくしていくことが必要なのである。すなわち狂気とは魂を成長させるために人間に与えられたひとつの要素なのである。

 ついでながら現代社会(現代の人間のレベル)とは残念ながら(魂の成長よりも)狂気(により地獄に落ちる)の方が勝っている社会と言えるかもしれない。

 結論として、映画「時計仕掛けのオレンジ」とは、今でいえばR18の映画であるけれど、魂の成長を気付けせるために、あえて暴力にフォーカスした映画である。

 めでたし、めでたし。

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