奇跡のスープ
映画「天のしずく 辰巳芳子“いのちのスープ”」を観た。
辰巳芳子さん88歳。料理家・作家。
料理研究家の草分けだった母、浜子の傍らで家庭料理を学ぶ。自然風土の恵みである食材への深い愛情を込め、本物の食を追及し続けている。日本料理だけではなく、独自にヨーロッパ料理の研鑽も積み、人の生きる力を支える食への根源的な提言を続けている。
父の最期を看取ったスープは、全国で多くの人に飲まれ「いのちのスープ」として静かな感動の輪を広げている。(HPより転載)
ひとこと改めて食に関して考えさせられる映画だった。
食べるという行為。それは命を頂く行為。それ故に「頂きます」という。そしてそれを突き詰めれば、小さないのちをより大きな生命(いのち)へと変える行為であり、それ故に小さないのちはその「いのち」を喜んで捧げられるのではないだろうか。
僕たちはさまざまな植物(野菜や果物)、微生物(発酵食品)あるいは動物(牛・豚・鶏など)を食事としていただく。それは僕たちが生きていくためには必要な行為。だからその小さな(?)命を感謝していただく。そしてその小さな命たちもより大きな命のためにその命を捧げる。ここには本当は弱肉強食などと言ったことではなく、もっと崇高なものがあるのではないかと思う。
そして本来はそのさまざまな命を頂くという行為は、料理をつくるという行為によって、そして出来上がった料理によって、小さな命をより大きな生命へと変える行為が為されるのではないかと思う。
映画の中で辰巳さんは、「母は料理ができたら、美味しくできたわよ。」と家族みんなに伝えていたそうだ。辰巳さんは「自分でつくって、美味しくできたわよなんて…」と言っていたが、きっとそれは家族のために手作りすることで、小さな命をより大きな生命へと変えることができたということを(無意識のうちに)意味していたのではないかと思う。
本来食事の喜びとは「味わって食べる」ということ。それが自分自身でつくったものならばなおさらのこと。けれども現代社会ではこの食事がどんどん行為のみとなってしまっている。
時間に追われる中でただお腹の中にかけ込むだけの朝食。仕事の合間の休憩としての昼食。そしてスーパーで買ってきたでき合いのおかずが載せられた夕食。ファストフードという、いかにも忙しい中でのつくられるのも、食べるのもファストな食糧。
いつの間にかどんどん「料理をつくる」という過程が省かれて行っているのが現代社会。美味しいものを食べるためには、お金を出して他人が作ったものを頂く社会となってしまった。でも本当はこのつくるという過程の中にこそ喜びがあり、大切にしないといけないものなのだ。
映画の中でハンセン病の人がスープをつくるシーンが出てくる。それは同じハンセン病を患った友人が癌に侵されたため、辰巳さんの料理番組を観てその人のためにスープをつくったというストーリー。そしてその人がスープをつくる様子が出てくる。不自由な手や体を使いながらスープをつくっていく。そして出来上がったスープを辰巳さんは頂き、そのスープを「何とも優しい味」と評していた。
最近僕は食事を自分で作る。フライパンを使った簡単な料理しかできないのだが、自分で創り始めて改めてその大変さを感じる。けれども同時に作る喜びも感じる。だから食べると愛おしく有り、また美味しく感じる。またそこには自分が何を使い、どのようにしてつくったかが分かる安心感もある。
スーパーででき合いのお惣菜を買う。そして原材料の欄を見てみるとさまざまな添加物が使われている。何故こんなものが必要なのかと思う。そしてここには書かれていないモノもたくさんあるのだろうなと思う。某ファストフードなど何年たっても腐らないといわれる。美味しくはあるけれど、そこには安心感などどこにもない。(もちろん食品法の基準範囲内なのだろうけれど…。)
僕らはもう一度食事を頂くという行為を見直してみる必要があるのではないだろうか。本当はもっと大切な儀式。飽食の国にいるが故に忘れ去られてしまったものがたくさんある。
辰巳芳子さん88歳。料理家・作家。
料理研究家の草分けだった母、浜子の傍らで家庭料理を学ぶ。自然風土の恵みである食材への深い愛情を込め、本物の食を追及し続けている。日本料理だけではなく、独自にヨーロッパ料理の研鑽も積み、人の生きる力を支える食への根源的な提言を続けている。
父の最期を看取ったスープは、全国で多くの人に飲まれ「いのちのスープ」として静かな感動の輪を広げている。(HPより転載)
ひとこと改めて食に関して考えさせられる映画だった。
食べるという行為。それは命を頂く行為。それ故に「頂きます」という。そしてそれを突き詰めれば、小さないのちをより大きな生命(いのち)へと変える行為であり、それ故に小さないのちはその「いのち」を喜んで捧げられるのではないだろうか。
僕たちはさまざまな植物(野菜や果物)、微生物(発酵食品)あるいは動物(牛・豚・鶏など)を食事としていただく。それは僕たちが生きていくためには必要な行為。だからその小さな(?)命を感謝していただく。そしてその小さな命たちもより大きな命のためにその命を捧げる。ここには本当は弱肉強食などと言ったことではなく、もっと崇高なものがあるのではないかと思う。
そして本来はそのさまざまな命を頂くという行為は、料理をつくるという行為によって、そして出来上がった料理によって、小さな命をより大きな生命へと変える行為が為されるのではないかと思う。
映画の中で辰巳さんは、「母は料理ができたら、美味しくできたわよ。」と家族みんなに伝えていたそうだ。辰巳さんは「自分でつくって、美味しくできたわよなんて…」と言っていたが、きっとそれは家族のために手作りすることで、小さな命をより大きな生命へと変えることができたということを(無意識のうちに)意味していたのではないかと思う。
本来食事の喜びとは「味わって食べる」ということ。それが自分自身でつくったものならばなおさらのこと。けれども現代社会ではこの食事がどんどん行為のみとなってしまっている。
時間に追われる中でただお腹の中にかけ込むだけの朝食。仕事の合間の休憩としての昼食。そしてスーパーで買ってきたでき合いのおかずが載せられた夕食。ファストフードという、いかにも忙しい中でのつくられるのも、食べるのもファストな食糧。
いつの間にかどんどん「料理をつくる」という過程が省かれて行っているのが現代社会。美味しいものを食べるためには、お金を出して他人が作ったものを頂く社会となってしまった。でも本当はこのつくるという過程の中にこそ喜びがあり、大切にしないといけないものなのだ。
映画の中でハンセン病の人がスープをつくるシーンが出てくる。それは同じハンセン病を患った友人が癌に侵されたため、辰巳さんの料理番組を観てその人のためにスープをつくったというストーリー。そしてその人がスープをつくる様子が出てくる。不自由な手や体を使いながらスープをつくっていく。そして出来上がったスープを辰巳さんは頂き、そのスープを「何とも優しい味」と評していた。
最近僕は食事を自分で作る。フライパンを使った簡単な料理しかできないのだが、自分で創り始めて改めてその大変さを感じる。けれども同時に作る喜びも感じる。だから食べると愛おしく有り、また美味しく感じる。またそこには自分が何を使い、どのようにしてつくったかが分かる安心感もある。
スーパーででき合いのお惣菜を買う。そして原材料の欄を見てみるとさまざまな添加物が使われている。何故こんなものが必要なのかと思う。そしてここには書かれていないモノもたくさんあるのだろうなと思う。某ファストフードなど何年たっても腐らないといわれる。美味しくはあるけれど、そこには安心感などどこにもない。(もちろん食品法の基準範囲内なのだろうけれど…。)
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