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2013年5月

2013年5月31日 (金)

介護列島さきがけ

 まもなく日本にやって来る超高齢社会。日本は老人大国で世界の最先端を走る。そして世界は日本がどのようにこの事態に対応するのか注目している。

 高齢化率グングン上昇生産人口ガックンガックン下降。まもなく国力の指標とされているGDPも下降していくだろう。そしたら世界経済から脱落の道を?(GDPなんてホントはもう過去の遺物なんだけどね…。)

 世界というより俗に先進国と言われる国々は、21世紀の新たな社会へどう移行すればよいのか未だその答えを見いだせていない。だから日本のこれからを興味深く見ている。

 ということで、以前はこの先日本はどうなることかと、僕なりに真剣に考え、どのように解決すればいいのだろうと頭を悩ませていたのだけれど、遂にこの問題で頭がスッキリした。

 それはこれまで経済至上主義社会の目でこの問題を見ていたからダメなんだ。現代社会はお金と経済の一辺倒。このままの価値観ではこの問題は解決しない。

 そこで考えるべきは新しい価値観の社会。高齢社会は経済至上主義を終わらすことのできるチャンスなのだ。大量生産・大量消費を終わらせ、新たな価値観へと進みゆくビッグチャンス。日本は世界に先駆けて21世紀社会を築くことができるかもしれない。

 高齢社会の到来で生産高は減る。それは先にも書いた経済至上主義の中では経済的ポジションを落としていくということ。つまりは購買力も減少していくということ。それなら日本人は地位の低下と同時に生活の質も落としていくのかというと、人間は「生活価値の不可逆性」~一度得た快適性や利便性を容易に放棄できない性質~を持っている。ではそれらをどう維持していくか。

 超高齢社会の到来は現状を考えれば、介護を必要とする者(要介護者)の大幅増加である。けれども生産人口も低下する中ではそれに見合った介護人材を供給することができない。それはイコール家族が見なければならないということだ。

 家族が介護を始めたとしても、(症状によるけれど)、一日中付きっきりというわけでもない。空いている時間もある。そしたらその介護者は農業をすればいい。あるいはものづくりをすればいい。空家はどんどん増えている。更地にして農園にすればいい。近頃は微生物技術も発達し、すぐにでもよい畑ができる。土に触ることで、かつての感覚を取り戻すことができる!住宅街で家しかなかった所に緑の畑ができる。もちろんそれは無農薬・無化学肥料。自然が戻って来る。秋には虫の大合唱を楽しむ。

 生産人口減少、介護従事者の増加で、ものづくり人材、生産人材は減少する。当然生産量も減る。ならば丈夫で長持ちするものをつくればいい。大量生産・大量消費からの脱却ができる!

 GDPの減少で、個人の実入りも少なくなる。少ないお金でやっていくことが必要。カーシェアリング、自転車の活用。必要最低限の持ち物。そしてやはりそれらは丈夫で長持ち、ついでにエレガント!どうせなら手作り品を見直そう。介護合い間にハンドメイド!手作り品って愛着が湧くだけに大切に扱うだろうからさらに長持ち。手作りするとそのプロセスは分かってより安心。時間はかかるけれど、それを楽しめばいい。スローライフに転換できる。

 なんだ、循環型の社会に生まれ変われるんだ。超高齢社会により人の価値観が変わる。豊かさが見直される。これって21世紀のモデルじゃないか。世界の次のスタンダードは日本がつくる。

 きっと長期の介護を必要とする長生きよりも、いかに最後まで元気でいられるか、ピンピンポックリの、研究ももっとされてくるだろうし。超高齢社会ウエルカムではないか。いつかは高齢化率の上昇も止まる。持続可能な社会もできてくる。心配して頭を悩ませるのではなく、ワクワク、ドキドキしながら超高齢社会を迎えればいい。

 やったね日本!





 

2013年5月28日 (火)

がんばれじいちゃん

 じいちゃんが入院した。トイレに行こうとして転倒し、大腿骨の骨折。即入院。

 病院からここは一般病院(整形外科)。夜間介護を行うには人手不足であり、本人も数日間は精神的に混乱があるかもしれないので付き添ってほしいと言われた。
 
 そして、4日目の夜僕が夜間付き添うこととした。

 大腿骨折ということで足を牽引され、寝たきり状態。四方を柵で囲まれ、柵には鈴がつけられている。なんだか昔を思い出した。

 食事をあまり摂らないとのことで、介助をしながらおよそ半分食べてもらう。病院食。一日中動けず寝たきり。食べないよな…。(ちなみに翌日の朝食は完食。)

 食後後しばらくしてじいちゃんはひたすら起き上がろうとする。おしっこに行きたいのこと。骨折して動けない、おむつをしているのでそのままそこにしても大丈夫なことを話すが、その時は分かったようなのだが、しばらくするとまた起き上がろうとする。その都度説明するが、しばらくすると…。耳がほとんど聞こえない、そして入れ歯も外されモゴモゴ状態のじいちゃんは、おしっこが爆発してあたり一面に飛び散るぞ!とのジェスチャーを繰り返す。

 尿器をあてる。けれども出ない。前立腺肥大。男の病。そりゃ96にもなれば、前立腺も肥大するだろう。家でもちょくちょくトイレに行くのだから。

 バルーンカテーテルをつけると、異物として抜いてしまう。おむつには出ない(寝てる状態なので腹圧かけられずに出せない)。もちろんトイレにはいけない。となると、定期的に導尿しかない。でもそう再々導尿ができるわけでもない。となると、導尿の時間まではおしっこが出そうでも、トイレに行きたくても行けない。

 認知症と人は言う。96歳だけど自分でトイレに行こうとし、家ではご飯も自分でついで食べるし、残ったおかずは冷蔵庫にしまう。大したもんだ。認知症じゃない。年相応。ごくごく当たり前。

 そんな時優しい看護助手さんの声掛けは唯一の救い。(決してトイレに行けるわけでないが…。)一方で看護師さんは専門的立場からものをいう。

 以前ならばどうして看護師さんは優しくないのだろうと思っていた。けれども今はそれぞれの立場を理解することができる。助手さんの優しさも必要。看護師さんの専門的立場も必要。

 ただ、中には専門性を持ちながらもとても優しい看護師さんもいる。その人は天使である。捕まえろ!一方で助手ながら勘違いしてしまい、きつい人もいる。そいつは悪魔だ。やっつけろ!

 しばし骨がくっつくまでの辛抱だ。頑張れじいちゃん。戻ってきたらまたお風呂に入れてあげるから。


追伸
 元プロの僕としてはいろいろと口出ししたくなる。じいちゃんを病院に運ぶときの介護タクシーにはそこそこ口出しした。そしてホントは病院の中でも…、けれども今は引退した身。皆さんプロ意識をもって取り組んでいる(ハズ)。だからなるべくおとなしく、「お願いします。」のひと声を。

2013年5月22日 (水)

今頃になって…

 子宮頚がんワクチンの副作用について、今頃になって報道機関が騒ぎ始めた。何を今更となってという感が強いのだが、とにかく一刻も早く予防接種を中止すべきというのが僕の思い。

 そもそも子宮頚がんワクチンへの疑惑は予防接種が始まる前からさまざまなところで言われていた。究極的には不妊となる予防接種であり、日本人の滅亡を企むものだとまでも…。

 蛾の遺伝子組み換え物質、犬や猫の避妊に使われる物質など聞いただけでギョッとしてしまう物質がワクチンの中に入っている。そんなものを体の中に注入されるのだから、体もたまったものじゃない。

 それなのに全国の自治体はその危険性をきちんと検討することもなく、予防接種を無料とし、そして接種を勧めてきた。今後その危険性が一般に明るみになるにつれ、その罪の重さが問われてくるのだろう。

 メディアは杉並区の女子中学生が予防接種後歩行障害が生じた事を取り上げ大々的に報道し始めたけれども、この接種により不妊の可能性が高くなることは取り上げない。(まあそれを実証することは難しいのだろうけれど…。)そしてメディアも世間の流れに合わせるように、今後その危険性を指摘し始めるのだろう。本来ならば予防接種が始まる前にその危険性を指摘するのが役割だったはずなのに…。

 大手メディアは嘘をつく。あるいは真実を報道しない。このことはますます明るみにされていく。企業からのCM、広告費から成り立つメディア。それらがスポンサーを否定するはずがない。スポンサーを持たないはずの公共放送と言われる所さえもが嘘をつく。あるいは国民を洗脳する。権力を批判するように見せかけ、実は権力に擦り寄っているのが現状。

 僕らはそろそろメディアに対して「NO!」をつきつける時に来ている。メディアだけじゃない。政府、東電、アメリカ、経団連、大企業etc。自己の最大利益しか考えない大手機関に「NO」を突き付ける時が来たのだ。

 子供が犠牲になる。これ以上の損失と失望があるだろうか。子供たちの未来を守ってやることが大人の使命じゃないのか。それがもし子供たちの夢を奪ってしまうのならば、僕たちの罪は大きい。

 メディアや企業のモラルをきちんと問わなければならない。監視しなければならない。自己の利益の最大化しか考えないところには、我々が厳しくジャッジしていくしかない。そしてそのことを認識させることが必要だ。

 情報や知識はいくらでもそして簡単に手に入るようになった。そろそろ僕たちは正しく判断する知恵が必要だ。そして自己防衛するとともに、監視し、発信し、そしてネットワークしていく必要がある。

 マインドコントロール。洗脳。この状態から解き放たれる時がやってきた!


 

 

2013年5月13日 (月)

奇跡のスープ

 映画「天のしずく 辰巳芳子“いのちのスープ”」を観た。

 辰巳芳子さん88歳。料理家・作家。

 料理研究家の草分けだった母、浜子の傍らで家庭料理を学ぶ。自然風土の恵みである食材への深い愛情を込め、本物の食を追及し続けている。日本料理だけではなく、独自にヨーロッパ料理の研鑽も積み、人の生きる力を支える食への根源的な提言を続けている。
 父の最期を看取ったスープは、全国で多くの人に飲まれ「いのちのスープ」として静かな感動の輪を広げている。(HPより転載)

 ひとこと改めて食に関して考えさせられる映画だった。

 食べるという行為。それは命を頂く行為。それ故に「頂きます」という。そしてそれを突き詰めれば、小さないのちをより大きな生命(いのち)へと変える行為であり、それ故に小さないのちはその「いのち」を喜んで捧げられるのではないだろうか。

 僕たちはさまざまな植物(野菜や果物)、微生物(発酵食品)あるいは動物(牛・豚・鶏など)を食事としていただく。それは僕たちが生きていくためには必要な行為。だからその小さな(?)命を感謝していただく。そしてその小さな命たちもより大きな命のためにその命を捧げる。ここには本当は弱肉強食などと言ったことではなく、もっと崇高なものがあるのではないかと思う。

 そして本来はそのさまざまな命を頂くという行為は、料理をつくるという行為によって、そして出来上がった料理によって、小さな命をより大きな生命へと変える行為が為されるのではないかと思う。

 映画の中で辰巳さんは、「母は料理ができたら、美味しくできたわよ。」と家族みんなに伝えていたそうだ。辰巳さんは「自分でつくって、美味しくできたわよなんて…」と言っていたが、きっとそれは家族のために手作りすることで、小さな命をより大きな生命へと変えることができたということを(無意識のうちに)意味していたのではないかと思う。

 本来食事の喜びとは「味わって食べる」ということ。それが自分自身でつくったものならばなおさらのこと。けれども現代社会ではこの食事がどんどん行為のみとなってしまっている。

 時間に追われる中でただお腹の中にかけ込むだけの朝食。仕事の合間の休憩としての昼食。そしてスーパーで買ってきたでき合いのおかずが載せられた夕食。ファストフードという、いかにも忙しい中でのつくられるのも、食べるのもファストな食糧。

 いつの間にかどんどん「料理をつくる」という過程が省かれて行っているのが現代社会。美味しいものを食べるためには、お金を出して他人が作ったものを頂く社会となってしまった。でも本当はこのつくるという過程の中にこそ喜びがあり、大切にしないといけないものなのだ。

 映画の中でハンセン病の人がスープをつくるシーンが出てくる。それは同じハンセン病を患った友人が癌に侵されたため、辰巳さんの料理番組を観てその人のためにスープをつくったというストーリー。そしてその人がスープをつくる様子が出てくる。不自由な手や体を使いながらスープをつくっていく。そして出来上がったスープを辰巳さんは頂き、そのスープを「何とも優しい味」と評していた。

 最近僕は食事を自分で作る。フライパンを使った簡単な料理しかできないのだが、自分で創り始めて改めてその大変さを感じる。けれども同時に作る喜びも感じる。だから食べると愛おしく有り、また美味しく感じる。またそこには自分が何を使い、どのようにしてつくったかが分かる安心感もある。

 スーパーででき合いのお惣菜を買う。そして原材料の欄を見てみるとさまざまな添加物が使われている。何故こんなものが必要なのかと思う。そしてここには書かれていないモノもたくさんあるのだろうなと思う。某ファストフードなど何年たっても腐らないといわれる。美味しくはあるけれど、そこには安心感などどこにもない。(もちろん食品法の基準範囲内なのだろうけれど…。)

 僕らはもう一度食事を頂くという行為を見直してみる必要があるのではないだろうか。本当はもっと大切な儀式。飽食の国にいるが故に忘れ去られてしまったものがたくさんある。



2013年5月12日 (日)

潮時

 イベントのボランティアを行ってきた。3年前から毎年ボランティアを申し出て行っているのだが、毎年前日の会場設営の手伝い、そしてイベント当日はある時は駐車場の誘導係、ある時はチケット売り場係、またあるときは入場案内係としてボランティアをしてきた。

 そして今年も同じように駐車場誘導そして入場ゲート担当。けれども、そろそろこのボランティアも終わりにしようかと思った。というのはひとつはもう十分ボランティアがいること。昨日の準備も多くの学生ボランティアがおり、僕が9:30に会場に行った時には既にほとんどの作業が終わっていた。そしてイベント当日も総勢50名以上のボランティアがおり、その多くは学生で時間区切りの交替制でボランティアをしていた。

 数年前はもっと僕の年齢に近い人も当日ボランティアとしていたのだが、今ではほとんどが学生でまかなえるようになっている。

 イベントも第6回を迎えさまざまな人に周知されてきた。そして学生もどんどん関わるようになってきた。そろそろ僕の出番はなくなってきたように思えた。あとは実行委員の人達と学生を含めたボランティアで十分だろう。

 と、まるで僕はこのイベントを育ててきたようなことを言っているが、全く実行委員の人からは「この人だれ?」って思われているだろうけど…。

 2つ目の理由は、そろそろ僕もこのようなボランティア活動は終了してもいいのではないかと思ったこと。それはひとつは年齢的なもの。40過ぎたおっさんが入場係をしたり、チケット係、駐車場係をするのもいかがなものかと…。それよりももっとボランティアを必要とするようなイベントを仕掛ける側になるべきではないかと…。

 最近実際にイベントを開催する側となり、親しい人にボランティアをお願いしたりするのだけれど、イベントを開催するのは大変だけれども、その過程の面白さに気がついた。いろいろな人が集まり段々ひとつになっていく。あるいはいろいろな人の協力を得られるそのありがたさ。そのことを感じられることが素晴らしい。だからもっとボランティア活動の普及に努める役を担いたいと思う。

 そして最後にもっと高度なボランティア活動をすべきではないかと思ったこと。年齢的にもいろいろな意味で脂が乗ってきた。そして社会貢献意欲も旺盛。できることならば自分が持っている技術や知識を活かしたい。いわゆるプロボノと言われる活動。そして僕が広めてたいと思うのもこのプロボノ活動。ならば僕自身がやらなきゃ!

 ということで一般ボランティアは一応終了!ただし必要ならばいつでも!

 アベノミクスでまたまたバブルの到来かと騒いでるメディアに政治、大企業。一方で確実に精神的な進化の時がやってきたと新時代を創ろうとする人々。社会はどんどん2分化していっている。もちろん僕は後者の方。

 前者は弱肉強食化をどんどん進めていく中で、後者は分かち合いを基本としていく。そして誰もが感じられる豊かさを創ろうとするもの。多様な価値観の中で、多様な生き方、多様な想像力、そして創造力。

 分かち合い。現在のその形としてボランティアがあるのではないかと思う。

 人々がその才能をそれぞれに発揮できる社会ができたならばどれだけ素晴らしいことだろう。そしてその才能をさまざまな形で分かち合うことができたならば…。もちろんその大前提として地球と共生する、地球のお世話係であることがある。

 そんなことを夢見てまた明日からコツコツと活動していこう。

 意識が現実を創造する。ここのところ混濁・薄弱化していた意識。少しずつ上昇させて行かなければ!




 

2013年5月 5日 (日)

スローライフ

 スローライフを始めてはや1ケ月。この間の一番の変化は朝(食)。ほぼ毎日朝食をゆっくり食べられること。そしてこの時間がとても素敵であること。ご飯が炊きあがるまでに神棚の参拝をし、瞑想も行い、気分をスッキリさせる。

 そして日本の名水100選の水で炊いたご飯を味わう。煮干しや昆布でだしを取ったお味噌汁を味わいながら頂く。最高です。食前あるいは食後にゆっくりと紅茶を飲む時間はとっても優雅。これまでの生活で朝食がいかにただ食べるだけの機械的なものだったのかとつくづく思う。

 4月の初めに岡山に行き、ホテルで1泊したのだが、朝食バイキングでレストランに行った時、そこには一人の男性、ひと組の(老)夫婦がいた。そして僕が朝食を食べ始めた時に、1人女性がやってきた。

 その日僕は特別な予定もなかったので、ゆっくりと朝食を食べていたのだけれど、男性客はすぐに食事を終えたのは当然ながら、夫婦の人も僕とほぼ同じぐらいに来たのに、さっさと食べ終えて部屋に戻っていった。そして後から来た女性も僕がまだ食べ終える前に、食べ終え戻っていった。

 夫婦はそんな特別な用事もなさそうなのだからゆっくりすればいいのに…。後から来た女性は服装からしてきっと出張で来ているのだろうけど、もっとゆっくり食べればいいのに…、と思ったのだが、これがきっと今の世の中の標準スタイルなのかもしれない。

 忙しい現代。現代科学はその処理スピードをどんどん上げていき、みんな楽になるかと思えば、人々のライフスタイルもそれと比例するかの如くに速度を速めていった。そしていつの間にか大切なものを忘れてしまった…。

 ホントは食事は楽しいもの。神聖なもの。命を頂く行為。だから「頂きます」と言うし、祈りを捧げるところさえある。それがドラマのごとくパンをかじりって家を飛び出し、昼はファストフードで駆け込む。(前の職場なんかみんな机に向かって黙々かつ早食い)。夜のみゆっくり?あるいはテレビとともに…。そのどこにもありがたさも感謝もない。

 イタリアのスローフードの考え方が取り上げられるようになって久しい。ゆっくり楽しみながら食べる。1日の締めくくりの時間を楽しく過ごす。食材がオーガニックなものならばこれ以上のことはない。(自分たちでつくるというプロセスさえも愉しむことができたならば最高!)

 僕はまだそこまでは行えていないけれどそうありたい。でもこのところ食事のあとは自家製豆乳ヨーグルトにヘンプシードをかけ、黒糖をふりかけ頂くようにしている。お陰さまで快調。快腸。

 いつまで続けられるのか。あと1ケ月、3ヶ月…。それとも一生?これも意識次第? けれども例え再び勤め人となってもシンプルかつスローな生活は続けたい。(まだしばらくはソフトな奴隷となるつもりはないけれど…。前のところで懲りた!)

 まちなかロハス。まちの中で生活しながら、健康で持続可能な生活スタイルの確立。これが僕の課題のひとつ。今ロハスな生活というと、田舎に行って行うものというのが一般的だけれども、まちの中でもそれができるならば、きっと人々の意識の変化が起こるハズ!そしたら社会は変わる!

 そんなことを夢見ながら、今日もそのデザインを考える。ゆっくり紅茶でも飲みながら…。論文でも書くか!


2013年5月 3日 (金)

備えあれば…。

 浅川嘉富氏のホームページに「ユーロ危機の火種」という記事が書かれてあった。

 現在のユーロ圏の失業率は、12.1%。中でもポルトガルは17.5%、スペイン26.7%(3月)、ギリシャ27.1% (1月)と4人に1人が職の無い状態。ギリシャとスペインにおいて25歳以上の若者の職に就いていない人の比率が50~60%とのこと。

 そし驚くべきは、ギリシャにおける子供の貧困化。経済危機が発生する8年前、4%であった子供の貧困率はすでに25%に達しており、50万人を上回る子供たちが貧困状態に陥っている。その結果、幼稚園や小学校の生徒の多くが学校に弁当を持ってくることが出来なくなってきており、昼食をとれない状況になっているとのこと。

 この記事を読んでいつ日本だってそうなるかも知れないと思った。日本は世界の中でも優良国。まさか日本が・・・、って思うかもしれないけれど、今や日本は世界一の国債ばら撒き国。借金もいっぱいの中で、政府が新たに国債を発行すれば、発行するだけ、日銀は円を刷って買いますよという状況。そこには何のモラルもへったくれもない。

 もし日本のお金を世界が見離した時にはハイパーインフレーションとなり、100万円が1万円の価値、あるいは1000円ぐらいの価値しかなくなるかもしれない。そうなったら、日本の食料自給率39%では、どれだけ多くの人々が食糧が手に入らなくなることかと考えると…。

 やはりここは農業して食べ物は確保しておこう。備えあれば憂いなし!自然農法ならばトラクターも肥料も必要ない。基本は自然の力に任せ、少しばかし手を加えるだけ!

 しかし一般庶民には全く何事も起らずに生活しているように見えているけれど、金融の世界では日銀がガンガン国債購入したり、株価のつり上げを計ったりとしているのだろう。株価は上昇、国債の金利は最低レベルの裏にはどれだけの動きがあることか。

 5月3日付の新聞の記事に日銀の4月末時点の資金供給量155兆円で過去最高とあった。2%の物価上昇達成のため「異次元の金融緩和」とあるけれど、異次元ということは結局どこへ行くやら分からないということだろう。「うまくいけばよい結果となるけれど、行かなければとんでもない結果になるかもね。なんたって異次元なんだから。」と、日本は20年前に経験したバブル体験から、次なるお金のばら撒き体験をしようとしているのだ。

 そんな博打の世界を中央銀行と政府が一緒になってやってるのだから、僕らはそんなのに踊らされることなく、どんなことが起こっても最低限やっていける仕組みをつくっておく必要がある。だって今の政治家を見て誰が信じられるか?誰もいない。そんなのに任せられっか?

 テレビも、新聞も大手メディアは都合のよいようにニュースを組み立てる。僕らはそれを見抜く目を養わなければならない。と同時に、どんなことにも流されず、まっとうな道を歩める自分を築かなきゃいけない。

 お天道様に恥ずかしくない道を歩まなきゃね。これは正しいか、お天道様を見あげられるか、自分に嘘ついてないか、その道を歩めばいいんじゃない。

 何事も備えあれば憂いなし。ひとつ一つ着実に準備すっか!



 

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