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2013年1月14日 (月)

呪縛

 午前中服と靴を買おうと思い、ショッピングセンターに行ったのだが、いかにもとしか思えないようなものばかりで、買いたいと思わせるようなものがなく、これならば今ので十分だと結局買わずに帰って来た。

 午後から中学生の先生をしている人に会い話を聞いた。なんだか書類づくりや雑用(?)系の作業に追われて忙しそうだった。家に帰って寝るだけ、ストレスのはけ口は、同僚と週末に日をまたいでのおしゃべりや愚痴のこぼし合いって言っていた。

 なんだかどれもこれもが経済システムの中の機械の一部というような気がした。世界は西欧式の経済システムに染まってしまい、今や多様性とは程遠いものカルチャーになってしまった。

 いくら多様性や個性といいつつも、それは経済システムの上でのことで、すべては消費するための道具に過ぎない。

 先生は一生懸命に働いている。子供たちのことを考え夜遅くまで仕事をしている。先生となるのが子供のころからの夢だった。けれども(今行っている)それは経済システムのコマの生産にすぎないことを、気付いているのか、あるいは気付かないふりをしているのか続けている。

 本来ならば文学の喜び、人間の想像力、多文化コミュニケーションの喜び、数式の不思議、数学の面白さ、科学の未来創造など喜びや(過去の反省を踏まえて)人間の未来への可能性を伝えていくためのもののはずが、競争社会へのコマの生産となってしまった。

 喜びは何処にある。子供たちが生命の喜びを伸ばしていくのではなく、受験を受け、企業戦士となるその姿・・・。わずかばかり夢を叶える者への幻想?

 子供たちは中学、高校、大学へと入るための勉強を強いられ、人間の持つ多様性、生命の喜び、魂の成長などは忘れ去られ、今でも同じように問題を解くための学問を押し付けられる。

 僕たちの時代(もう20,30年前となるが)では、よい会社に入ることが、よい暮らしあるいは安定した暮らしにつながるという意識の下、高校・大学への受験戦争に臨み、勝ち進むことが学校の方針だった。けれどもバブルははじけ、大企業もリストラあるいは倒産する時代となり、大企業への就職=安泰な人生という方程式が崩れ去った。

 にもかかわらず、学校とは今も受験のための教育を続けている。それらは地方でも中学受験となりエスカレートしているようにも思われる。

 本来なら一番多感な時代・吸収力のある時代を、「生きる喜び」「大人になればできる喜び」「人生の素晴らしさ」そして「生命」について学び、そして大人となったらどのように社会に役立つかを学ぶための時代が無残にも経済システムのコマの生産として費やされる・・・。

 子供たちは既にそのことに気が付いているのだ。子供たちはその経済システムが末期的状況にあることも知っている。だから不登校は増えていく。不満の感情の向けどころがいじめへとつながっていく。

 けれども大人たちはその経済システムからはずれることができずに、これまで通りにやっていこうとする。なぜなら大人たちは知っているのだ。この経済システムの上にいるから、わずかながらの贅沢ができていることを。

 システムは従うならばわずかながらの欲求を満たす贅沢をさせるか、あるいは日々の暮らしをこなしていくことだけが精一杯の暮らしを強制させるかのいずれかであるかということを・・・。

 僕たちはそうして育てられた経済システムのコマ。そしてモノカルチャーの中の一消費者。そうして人生は老いへと向かう。

 「呪縛!」

 けれども本当は第3の道がある。

 このシステムに乗っからずに生きていくという方法。自分自身で生きていくという方法。でもそれを選ぶ人はまだごくわずか。

 現在も人々はこの壊れかけた経済システムにしがみつくかのようにして生きている。それが彼らにとって自分をそして家族を守る方法だから。呪縛から解かれた時の自分が怖いから。

 子供たちはその犠牲にされる。いや自分たちがたどった同じ道へと追いやられていく。

 わずかばかりの贅沢で自分をなんとかごまかしながら生きている。

 無邪気な子供たちの笑顔を見てごらん。

 魂の声を聞いてごらん。



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