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2013年1月

2013年1月30日 (水)

行政とは何なんだ

 僕の住んでいいる地域は今や住宅街となりあたりはどこも家だらけ。あっちもこっちも高気密な家が立ち並ぶ。でもその家を見てもちっともうらやましいと思わない。思えない。なんだか既製品のプラモデルハウスのような気がして…。プラモデル地区とでも呼びたくなってしまう。

 一軒家も多いけれど、コーポも多い。かつては田んぼだったところが宅地化され、コーポが立ち並ぶ。けれどもそのコーポを見てみると、最近できたコーポは満室が多いけれど、10年過ぎたところは空室が目立つ。中には6つの部屋のうち入っているのは2つだけというところもある。

 ちなみにかつて我が家もかつてはみかん畑だったところを半部潰し、10年以上前にコーポを建てた(僕が東京に行っている間に建てられた)が、先日まで6部屋のうち2部屋は空室だった。

 なんだか最近は一軒家でも空き家が目立つ。ここは県庁所在地。50万の人口を抱える市。その住宅街にも関わらず…。

 僕が子供のころは田んぼやみかん畑がいっぱいあった。小学校までのおよそ2キロの通学路の半分位が農道と呼ばれる、人と2輪車ぐらい、なんとか軽トラが通れるかもねという道だった。

 それが宅地化が進むにつれ、今では道路が拡張されたり、用水路は蓋をされ、車がジャンジャン通る道へと変わってしまった。今日も散歩で通ったが、3ナンバーの車が僕の横を突っ走っていった。

 「ここは農道じゃい!」と叫びたくなった。

 こんなふうに宅地化され、今や住宅エリアとなってはしまったが、まだ田畑が完全になくなったしまったわけではない。いまでも点々とながら田んぼや市民農園があったりする。

 その一画が我がみかん畑であり、元田んぼの今は市民農園となっているところである。

 僕はかつて子供のころ学校の帰り道、友達とカエル釣りをしながら帰ったこと、カブトエビを捕まえて遊んだことなど数々の思い出が地域にはある。だからその思い出を守りたい。そして住宅街となってしまったからこそ、余計に緑の場所つまりは田畑やみかん畑の地帯を残したいと思っている。

 だから今はかつての半分となってしまけれど、みかん畑は絶対に続けるぞと思っているし、市民農園もこのままずっと農園にしようと思っている。

 ところで、先ほどこの住宅街となってしまった地域にも、まだいくらか田畑が残っていると書いたが、その中のいくつかが耕作放棄地となっている。もう数年耕作放棄地となっており、僕はそこを借りたいと思った。

 このまま耕作放棄地であるならばまだいいのだが、いつか宅地化されると、また緑が少なくなってしまう。できることならばそれを防ぎたい。

 そこで考えた。数年間耕作放棄地になっているならば、かつての化学肥料が使われた土地も、かなり土の状態がよくなっているのではないか。それならば自然栽培を行うことも可能ではないかと。

 そしてできることならば、その土地で伝統野菜を栽培したい。この土地にあった元々の固定種を育てたい。F1種なんかじゃなくてね。そしてそれらをこだわりのある小さなレストランなどで使ってもらう…。いつかは僕も農家レストラン!

 それと子供たちに土に触れ、植物を育てる機会をもたしたい。小学校も近くにあり、いつかはこの土地をキッズファームとしてNPO化して…、なんて夢を考えた。

 というわけで、市役所に行き、何か助成金があるのかどうか聞いてみた。

 そしたらなんとこのエリアは市街化区域。「ここは農業を続ける場所ではなく、宅地化とすることにしている地域です。」と言われた。

 そして我が家のみかん畑も市民農園も市街化区域。「市街化地区だから、固定資産税割高になってるでしょ。」と!

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2013年1月26日 (土)

求めよ「キチガイ」!

 「キチガイ」というと、「気違い」「気狂い」を意味すると今や差別用語として使っちゃいけない言葉。削除対象ワード。精神分裂症、おっとこれも今や使っちゃいけない言葉?現代では統合失調症と表現しなければいけない。

 いいのか、悪いのかよくわからないけれど、面倒くさ~って思うのは僕だけかな?

 世の中差別用語を使わなくとも、差別の心はまだまだ溢れてる。使うなと発信しているところが、差別している。僕はそのことを身をもって知っている。 「平等」やら「パワハラ問題」とか率先して言っているところが、それを行っている実態がある。「THE暴露家政婦は見た!」。

 そんなことはさておき、本題に戻って、僕にとっての「キチガイ」は漢字にすると、「既知外」である。

 「既知(キチ)」とは、既に知っていること。あるいは既に知られていること。そこに「外(ガイ)」がついて「既知」の世界の「外」で、「既知外」。

 僕らは普段既知の世界で生きている。既知の世界で物事を判断し、行動し、処理してその物事を(無事に)終わらせる。その繰り返し。

 けれどもホントにそれでいいのだろうか?

 「既知の世界」。この世は目に見える世界数パーセント、96%以上は目に見えない世界。僕らの世界はその数パーセントの中の更なる数パーセント。

 あるいは「既知の世界」。それはひとつは世界的に知られていること。もうひとつはそして個人の既知の世界。

 世界的に知られている既知の世界。それは新しい発見(=既知の世界の外を知ること)により次々と塗り替えられていく。例えば宇宙の構造、歴史など。それらは今や日進月歩の勢いで変わっていっている。

 同様に個人の既知の世界。人々はそれぞれに既知の世界を持っており、そして既知の世界の外にあるものを知り、既知の世界を広げていく。そしてそれは人によりその世界の広がり方もスピードも違う。

 余談となるが、人は自分の既知の世界からあまりに離れた外のものは受け入れられない。もしそういう人を見つけたら、彼はその人を「気違い」と呼ぶ。

 人は既知の世界の外にあるものに出会い、そしてそのことを知り、自分自身の世界を広げていく。そしてそれをまずは求めることが大切。

 けれども既知の世界の外にあるものを求める際、自分自身が意識してそれを行うことと、そしてそれつまりは外にあったものが正しいかどうか自分自身で考え判断することが次なる重要なポイントだ。

 でなければ悪くすれば、マインドコントロールされあなたの既知の世界はコントロールされてしまう。

 例えば原発問題。僕たちは福島で既知の世界の外の出来事に出くわした。(もちろんチェルノブイリや広島・長崎で予備的知識は有ったのだが…。)そして何も考えなければ、僕たちはそれは既に終息したとし、また動かせ、作って売れなどといい、それをよしとする。

 けれども、世界から見れば、今の日本ほど笑いモノにされているモノはない。そして日本人はおろかで「気違い」や!って言われている。

 そう僕らは既知外を常に求めていかなければならない。けれどもそれと同時にきちんと自分自身で考え判断もしなければならないのだ。でなければ小さな世界に閉じこもるか、あるいはマインドコントロールされる。

 求めよ既知外!

 そして自分自身で組み立てよ!

 ついでに言うならそれこそ精神的に若くいられる秘訣。

 なによりもそれが真実の世界に近づく方法。

 さああなたも今日から「既知外」だ。

WELCOME to the "KICHIGAI WORLD!”

Let’s enjoy "KICHIGAI WORLD!”


 

2013年1月23日 (水)

未来の日本の歴史

 いきなりローマ帝国時代へ。

 貴族たちは味覚を刺激するために食べては、それを嘔吐し、また食べ、そして嘔吐するを繰り返し味覚を刺激し続けた。その方法としてはクジャクの羽根でのどを刺激する方法もあれば、催吐剤を使い嘔吐したとか…。

 嘔吐してまで味覚を刺激し続けるとは・・・。どこまで食欲旺盛やねん。そこまでして食べたいか?末期的症状やなって現代人が思うのも当たり前。

 でも当時の風潮では嘔吐することは一種の健康法であり、食べすぎ飲みすぎで悪い物を身体の中に溜め込むよりは定期的に身体の中を完全にきれいにしたほうが健康的ということで、月2回ほどの嘔吐を勧めた医学書もあったとか。あのカエサルも催吐剤を使ったとか。

 現代人からすると信じられないってところであり、2000年前の古代はそんなふうに考えられていたのだと、ある意味勉強。「へ~、そうなんだ。」

 さて時代は現在に戻り、場所も日本へと。

 TVやラジオのコマーシャル・雑誌・折り込み広告。毎日トクホ(特定保健用食品)やダイエットサプリメントという言葉を聞かない、見ない日はないといってもいいぐらい。

 1週間で〇キロ減量とか、これを飲めば脂肪がつきにくくなるとか・・・。サプリメントの力で内臓脂肪を燃焼させる。あるいは(胃に膜を張って)脂肪の吸収を防ぐなんてことが盛んに述べられている。

 僕も最近お腹がポッコリ状態だから、買おうかな・・・なんて思ってしまうのだけれども、某サプリメントを見たら3000円以上したのでやめた。

 でもこれって今の日本人は満腹中枢の刺激、あるいは食欲の欲求を満たしたい、ストレスという欲求不満解消のために、食べてはサプリメントを飲む、あるいはトクホ製品を利用するということ。

 グルメ大国日本。食べなきゃソン、損。雑誌やテレビで見るグルメ特集とっても美味しそうで、食欲そそられるものな・・・。脂ののり具合も最高!

 おやっ、これって現代版のローマ帝国貴族の姿じゃないだろうか?

 100年後の人類は、「このころの日本人は食べてはダイエットサプリメントを飲んだり、あるいは脂肪吸収を抑えるための食品を使い、自分たちの欲求を満たす、あるいは欲求不満解消の行為を行った」。なんて歴史の授業で教えられるのだろうか。

 「日本末期」の授業時間に先生は説明し、生徒はそこまでして食べたかったのかと不思議に思う。「へ~、そうなんだ。」

 けれどもローマ帝国の末期の状況を見れば現代の日本と重なる部分がいっぱいだ。性にしろ、スポーツにしろ、「パンとサーカス」を与えること。「お金をばらまくこと。」

 経済対策としてのバラマキ政策。日銀も引きずり込まれ、ばら撒け!ばら撒け!そして親分にはちゃんと50兆あげるから、見て見ぬふりしてね・・・。腹痛予防対策も完璧。

 さあどこまでいけるか日本植民地帝国!

 その間に僕は着々と、意識の向上に努めます。地球と人を繋ぐためのデザインを考えさせていただきます。



2013年1月19日 (土)

ホントウの自分

 寒さ厳しいこの頃。建物の中でPC使っての1日仕事。時に起るストレスフルな状態。まだまだ不自由に身を置く僕。解放しきれてないよね。疲れも覚え9時半にはスリーピー。ペットボトル湯たんぽをセットし、布団の中に潜り込む。そして午前1時半。目が覚めたので借りていたDVD観た。

トイレット」。一体どんな映画なのかと思い、始まりの日常の生活のセリフで、いや~これはもしかして…とバッドなイメージがよぎりもしたが、最後は感動した。内容もそうなのだが、監督の持つ独特の感性に感動した。

 勝手ながら、この映画の監督荻上直子さんずっと生きづらかっただろうな・・・。独自の感性の持ち主の故理解してくれる人少なかっただろうな。でも(映画という)表現の場を見つけたんだろうなって思った。

 映画の中でもたいまさこ演じる「ばあちゃん」は一種の独特の雰囲気を醸し出している。ある意味不気味な存在。でもばあちゃんは「ばあちゃんの世界」に生きている。そして孫3人は少しずつその世界を理解し引き込まれていく。

 ばあちゃんは偉大な存在だ。

 うちのばあちゃんも今やボケちまって、半野生状態。昨晩も訪ねてみると常夜灯の灯りの下で、布団に包まったままおかずを食べており、こっちを見ながらもモグモグと口を動かし続けていた。

 何をしでかすか分からないところもあり、今ではある意味どうしようもないばあちゃんではあるが「ばあちゃんの世界」に生きている。そして育ててもらったばあちゃんである。

 ばあちゃんと暮らし始めた孫3人はばあちゃんの世界に引き込まれると同時に、自分たちの持つ才能を見つけていったり、自分自身を(再)発見していく。

 「ひきこもり」。それは社会と自分自身のギャップを埋める防衛手段。

 「オタク」。それもまた自分自身のオリジナリティ。

 それぞれモノカルチャーな経済システムの世界に対する抵抗であり、防衛だ。

 映画のキャッチコピー「みんな、ホントウの自分でおやんなさい」。

 誰もが自分自身の表現を求めているのだ。

 僕はこの映画の中に、自分の中にあるオタクを発見した。

 金星に帰りたい。金星人は大地と共に生きている。プレディアスに帰りたい。プレディアスは宇宙とともに生きている。けれども僕はまだプレディアスからは許されていない・・・。金星はどうか?分からない。

 そしてこの地球。地上に住む人間は分離している。残念なことに地球と人間は分離状態。大地とともに生きるどころか、自身の欲望を満たすことで一生懸命。自分自身とも分離状態。けれども人間は未だそのことを理解していない。

 けれどもこの地球に生まれてきた限りは、「地球でおやんなさい。」っていうことなのだろう。僕は地球オタクだな。

 ばあちゃんは、ばあちゃんの世界のうちに孫たちをつなげていく。そしてそれぞれの世界それぞれの表現方法を導き、やがては灰となっていく。

 偉大なる日本テクノロジー。その技術は世界を驚かすとともに、快感を与えることもできる。輸入されてきたばあちゃんは3人の孫たちにまさにそれを与えたようだ。

 さあ、オタク的技術でもってこのモノカルチャーな世界に色をつけることができるだろうか。さまざまな土台こそが、豊かな世界を築いていく。まずは大地とともに生きよう。

 そしてそのことに気付いた時には、自動的に流され去っていく。それぞれの星へと帰っていく。



2013年1月16日 (水)

トウモロコシの向かうところ①

 映画「The River(ザ・リバー)」の主人公はメル・ギブソン演じる頑固ながらも正直に生きている一農民。彼は移民代々の土地でトウモロコシを育て生活している。

 その土地は元々は湿地帯であったために、時折の大雨により川が氾濫し、農地が水没してしまう。映画は大雨で川が氾濫し、農地が水没しようとしている場面から始まる。それを必死に防ごうとするトム(メル・ギブソン)とその家族。しかしながら自然は彼らの行為に対して、無残にも即席の堤防を崩し辺り一帯を水没させてしまう。

 水没により農作物(コーン)がダメとなり、トムは銀行に融資を申し出るが、これまでのローンの積み重ねもあり担保が足りないと断られてしまう。しかし実は裏にはダム建設のためにその土地を没収しようとする企みが…。

 というわけで、メル・ギブソンほか俳優たちの名演技が光ると同時に、川の氾濫など迫力あるシーンも見られ僕の中では古きアメリカの農民の姿を描いた名作品なのである。僕は随分昔にこの映画を中古のビデオ販売店で見つけ購入し1度見て以来ずっとほこりをかぶっている状態だったのだが、VHS復活とばかしに久々に見た。

 この映画の中では真面目に実直に農業を営みながらも、自然災害、農産物価格の下落、機械の購入等で借金を重ね、ついには土地を奪われ、農業を放棄していく農業者の姿も描かれている。

 ああ、これがアメリカの近代農業の変換の歴史なのだ。小規模農家はこうして農地を失い、一部の大規模農業へと変わっていく。きっとかつてはあった家族経営、大草原の中の小さな家のアメリカの家族像もこの過程の中で失われていったのだろう。

 実は僕もかつてアメリカで農業をしたいと思ったことがある。そこにはでっかい農場の中に小さな家があり、牛や馬もいる。ニワトリもいる。大草原の中で人間のちっぽけさを感じたり、自然のでっかさを感じながら生きていくということを夢見ていたのだが、きっと今ではそれは映画の中だけの世界となってしまったのだろう。

 映画のラストでは再び雨が降り、川が氾濫しそうになる。それを必死で防ごうとする農民たち。川が氾濫し今度こそ土地を没収しようとするダム建設を計画する者たち。彼らの対決が描かれるのだが、最後は正直で実直なトムの姿にみなが心を打たれ、農民たちの団結にダム建設計画者は白旗を上げる。

 けれどもダム計画者はトムの元を去る前に次のように言う。「いいだろう。今回は待とう。けれども、いずれまた洪水が襲う。あるいは干ばつが襲う。もしくは(過剰)豊作でコーンの値段が崩れる。それまで待とう。」

 きっとこの主人公の農民たちはやがては負けていく者たちなのだろう。現実アメリカ社会を見ればそれが分かる。それでも彼らはその日が来るまで農地を守り家族を守ろうとする。

 映画の中で、トムの娘が兄に手綱を持ってもらいながらも馬にひとりで乗れるようになるシーンがある。それを見て笑顔で手をたたくトムと妻のメイ(シシー・スペイセク)。厳しい彼らの生活の中にあるほんの小さな幸せの一シーンだ。

 映画のラストは、家族みんなで川の氾濫を免れたコーン畑で収穫車に乗りコーンを収穫するシーンだ。娘がコーンを手に取り、頭上に投げながら言う。「このコーンはミリオンダラーとなるわ」と。それを聞いて微笑む家族。

 最後は実に微笑ましく終わるのであるが本当はそれで感動して終わればよいのだが…。いや以前この映画を見た時は感動と心強さで終わったのだ。

 だが今の僕はこの映画の終わりと同時に寂しくもなったのだ。それはこの時のコーンはまだ幸せのコーンだった。しかしそれはやがて、「キングコーン」という世界支配を企むモノへと変わっていくのだと…。(もちろんその時にはもうこの家族は農地を没収されていなくなっているのだろうと…。)

 キングコーン。それは人類がつくりだした恐ろしき化け物か?

次回へと・・・。




2013年1月14日 (月)

呪縛

 午前中服と靴を買おうと思い、ショッピングセンターに行ったのだが、いかにもとしか思えないようなものばかりで、買いたいと思わせるようなものがなく、これならば今ので十分だと結局買わずに帰って来た。

 午後から中学生の先生をしている人に会い話を聞いた。なんだか書類づくりや雑用(?)系の作業に追われて忙しそうだった。家に帰って寝るだけ、ストレスのはけ口は、同僚と週末に日をまたいでのおしゃべりや愚痴のこぼし合いって言っていた。

 なんだかどれもこれもが経済システムの中の機械の一部というような気がした。世界は西欧式の経済システムに染まってしまい、今や多様性とは程遠いものカルチャーになってしまった。

 いくら多様性や個性といいつつも、それは経済システムの上でのことで、すべては消費するための道具に過ぎない。

 先生は一生懸命に働いている。子供たちのことを考え夜遅くまで仕事をしている。先生となるのが子供のころからの夢だった。けれども(今行っている)それは経済システムのコマの生産にすぎないことを、気付いているのか、あるいは気付かないふりをしているのか続けている。

 本来ならば文学の喜び、人間の想像力、多文化コミュニケーションの喜び、数式の不思議、数学の面白さ、科学の未来創造など喜びや(過去の反省を踏まえて)人間の未来への可能性を伝えていくためのもののはずが、競争社会へのコマの生産となってしまった。

 喜びは何処にある。子供たちが生命の喜びを伸ばしていくのではなく、受験を受け、企業戦士となるその姿・・・。わずかばかり夢を叶える者への幻想?

 子供たちは中学、高校、大学へと入るための勉強を強いられ、人間の持つ多様性、生命の喜び、魂の成長などは忘れ去られ、今でも同じように問題を解くための学問を押し付けられる。

 僕たちの時代(もう20,30年前となるが)では、よい会社に入ることが、よい暮らしあるいは安定した暮らしにつながるという意識の下、高校・大学への受験戦争に臨み、勝ち進むことが学校の方針だった。けれどもバブルははじけ、大企業もリストラあるいは倒産する時代となり、大企業への就職=安泰な人生という方程式が崩れ去った。

 にもかかわらず、学校とは今も受験のための教育を続けている。それらは地方でも中学受験となりエスカレートしているようにも思われる。

 本来なら一番多感な時代・吸収力のある時代を、「生きる喜び」「大人になればできる喜び」「人生の素晴らしさ」そして「生命」について学び、そして大人となったらどのように社会に役立つかを学ぶための時代が無残にも経済システムのコマの生産として費やされる・・・。

 子供たちは既にそのことに気が付いているのだ。子供たちはその経済システムが末期的状況にあることも知っている。だから不登校は増えていく。不満の感情の向けどころがいじめへとつながっていく。

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2013年1月12日 (土)

平安雅

 賀能啓す。高山澹黙なれども、禽獣労を告げずして投り帰き、深水言はざれども、魚龍倦むことを憚らずして逐ひ赴く。

 (日本からの遣唐大使である)賀能が申し上げる。高山はゆったりと静かで沈黙したままであっても、鳥獣は苦労など口にすることなく競ってそこへ赴き、深い水は物を言わなくても、魚も龍も倦むことをことをいとわずに急いでそこへ赴く。 (弘法大師空海全集第六巻より) 

 閑林独座草堂暁
 三宝之声聞一鳥
 一鳥有声人有心
 声心雲水倶了了

 閑林に独座す草堂の暁
 三宝の声、一鳥に聞く
 一鳥声有り人心有り
 声心雲水倶に了了
        (「空海の詩」 阿部龍樹)

 静かな林の中の草堂で独り坐禅三昧に耽り暁を迎えた時
 仏法相の鳴き声が聞こえてきた。
 仏法相と鳴く鳥の声、私の心
 声も心も森羅万象すべてが融け渡る悟りである。

 突然ながら弘法大師空海の詩が読みたくなった。かつて「高山澹黙なれども・・・」の詩を読んで、なんてすごいんだとビックリした。こんなにすごい詩をつくれるなんて、同じ人間?って思った。

 まあ、比べようとすること自体が無謀か?

 空海は奈良時代末期から平安初期の人だから、空海が平安文化の基礎をつくったといっても過言ではないだろう。なんだかこの詩の中に平安時代の雅がすべて凝縮されているような気がする。

 密教というそれまでにあった仏教概念をひっくり返すがごとくに「肯定」した仏教。それを唐の恵果和尚から伝承され、更に発展させ完成させてしまい、現代もずっと引き継がれているのだからなんて空海とはすごい人なのだろう。

 その空海にかつてあこがれた。ひたすら空海について書かれた書物を読みあさり、読むだけでは満足できなくなり、四国遍路の旅にで、更には空海にもっとも近いと思える法主のもとへ修行を願いでた。

 ちょっとでも空海が見たもの考えたことを知りたくて追い求めた日々。ああ、あのころが懐かしい。

 ほぼ毎日欠かさずに理趣経、般若心経を唱えていた日々。毎晩毎朝坐禅に励んだ日々。そしてひたすら山中を駆けずり回った日々。

 平安文化といえば、清少納言、紫式部に紀貫之。東寺に平等院鳳凰堂。数ある仏像。いろあでやかな着物姿。想像すればまさにそこには平安で文化が勃興したエルサレム。

 平安の三筆。五筆和尚。曼荼羅図。満濃池。不動明王。そしてひそかに景教(キリスト教)も隠し持ち帰り。うわさでいろは歌。空海が唐から持ち帰った文化。それらが日本の文化へと昇華されたいった。

 でも空海って表立っての文化だけでなく、どんな秘密を持ち帰り、そして日本の中あるいは文化の中に隠したのだろう。あれだけの人だからきっといろいろな仕掛けをしているに違いない。

 四国に何を隠したのだろう。剣山にどんな仕掛け(秘密)をしたのだろう。そして日本の文化にどんな秘密を隠したのだろう。

 お遍路で回っている時、高知の海辺でテントを張った。その夜夢の中で空海さんの夢を見た。浜辺でたき火をし、その炎をじっと見つめる空海がいた。あの時どんな仕掛けをしたのか、聞いておけばよかったな。

 空海の若き頃の奈良時代末期。遷都や悪霊など世の荒れた時代。それがやがては平安の泰平の時代へと移りゆく。

 そして今僕らがいるこの平成の時代。日本だけでなく世界、地球規模で荒れている。これは泰平の時代が来る前段階なのか。泰平の時代が来るためにはどのような刺激が必要なのだろうか?そしてその泰平の時代とはそのような時代なのだろうか。

 いずれにしろ、そのキーワードは「進化」に違いない。

 現在さまざまな古代の秘密が解き明かされているから、まもなくその空海が隠した秘密が明らかになるかもしれない。

 そこにはもしかすると「進化」の鍵が隠されているかもしれない。

 いずれにしろ「ワクワク」しつつ、進化するための準備をしておかないと。きっと空海も唐に渡るときにはワクワクしたに違いない。

 そのためにはやはり「意識」「意識の向上」。これを心がけないとね。

 磨かなきゃ「心」の中の三宝を。




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2013年1月 9日 (水)

予想はしていたけど・・・どないになってんねん。

 はい。始まりました。

 「原発再稼働するよ。」「TPP交渉参加するよ。」に続いて、「核のゴミ処理受け入れますよ。」「オスプレイどうぞ。」。更には「軍事費増額」「自衛隊員増員」します。

 あとは夏に勝って、憲法改正。そして徴兵制を設けて、最後は核兵器ももちます~!(もう持ってるか・・・。) これで軍国日本完成。

 そのために必要なのは中国、北朝鮮ついでに韓国。そや北からロシアの恐怖心。だから日本国土へのちょっかいいっぱい出してきてね。

 ということで、お腹が痛くならない戦略かつ、外から暗に辞めろと言われない最善の方法は、アメリカからの要求には「YES」と答えること。

 内なる作戦はとりあえずばら撒いて、株価を上げて景気が良くなるように見せかけておけば、黙っているだろう。20年間の我慢と金融経済での銭ゲバ化で「ニンジンを目の前に吊るして馬を走らせる」大作戦。

 「はあ~。」とため息が出る。

 夜明け前が一番暗いとは言うけれど、ちょっと心配になる今日この頃。

 12月の選挙の際「幸福実現党」の公約を見ることがあった。そこには「核武装」「防衛産業育成」「中央集権」「憲法9条改正」「日米同盟の強化」「原発推進」「TPP参加」等としっかりと書いていて、ちゃんと堂々と表に宣言してる方がましかも…って思ったのだが、その通りになりつつある。

 日本人よ目を醒ませ!

 なんで日本に原爆が落とされ、原発事故が起きたのか。そのことを考えたらおのずと答えが出るではないか!

 恐怖や脅しでもって平和を保とうとするなんて超低レベル。ジャイアン以下じゃないか!僕たちは数千年の歴史を通じて何を学んできたのだろう。

 そろそろみんな本気で意識の向上を考えようや。

 変な西洋人か爬虫類人か知らないけれど、そんなのに付き合うのやめようよ…。

 今日お風呂の中で思ったこと。それは「地球儀を見よう。なければ普通の地図でもいい。そして日本とアメリカを見比べてみよう。」ということ。

 どういうことかというと、アメリカに比べれば日本なんてホントに小さな国。でもそのちっぽけな国があの大きなアメリカと戦争をした。地図で比べてみてよ。ホントにその大きさ全然違うで!

 まあ、負けはしたけど、あのどでかいアメリカをものすごく手こずらせたということ。日本はそれだけのパワーのある国だし民族なのだ。

 そしてアメリカは日本(人)を恐れ、戦後徹底的に日本(人)のメンタル基盤を破壊する作戦に出たということ。(その象徴のひとつが「大麻」やね。)

 ホントは日本はすごいんだ。だから日本(人)のパワーを出せば、武力による秩序維持というくだらないレベルから抜け出すことができるということ。そして世界はまさにそれを待っているということ。

 「和をもって貴し」

 何故この言葉が1000年以上経っても愛され続けているのか。それは日本の心や原点がここにあるからだろう。

 日本の技術力と精神でもってすればこの「和をもって貴し」製品がつくれるんじゃないか。そのために進化はあるのだ。新しい未来を提示するのが日本の役割。

 いまこそ進化が問われている。

 2012年も終わり2013年となった。もう21世紀本番化しつつある。20世紀の技術に頼るのはやめて進化しようや。(でないと欧米諸国はヒイヒイ言いながらあがいている。早く楽にしてあげようや。)

 だから意識の向上しましょうや。

 お腹が痛くならない方法はなんでも「YES」ということではなく、意識を向上させることである。

 僕もそのために修行しよう。魂の成長の修行や。

 ちなみに21世紀の修行は「ワクワク」です。


2013年1月 8日 (火)

その先へ行ってみますか

 2年前に地域づくり・あるいは故郷に関わる仕事がしたいと思い、大胆かつ導かれるかの如く今の世界に飛び込んだ。

 そしてまもなくその(契約の)2年の期限が終わる。果たしてその結果はどうだったのだろう。その答えは3月末に出るかもしれないし、数年後に出るかもしれない。あるいは(やっては見たものの)結局何もなかったという可能性だってありうる。

 もし何もなかったなんてことになると、全くもって税金を無駄にしてしまったということで、この先僕は政治家の批判をすることができなくなってしまう・・・。(それは困るけど、まあ人の批判なんてしない方がいいものだし・・・。)

 さて最近よく思うことは、現在人と人がつながっていくことの大切さは誰もが知っているし、ブームだと言ってもいいかもしれない。SNSといわれるフェイスブックしかりツイッターしかり…。トップダウンという縦の時代が終わり、これからは横のつながり、連携・ネットワークの時代だといわれているのだから、今やみんなFacebookの友達の人数を競うがごとくに、その数は増えていっている。

 ちなみに僕は(フェイスブックにおいては)未だ50人台どまり。全くもって人づきあい悪いからな…。無愛想、口下手、おもろいこと言えないの3拍子だから仕方がない。そんなに友達の数増やす気もないけれど。

 この仕事を始めて「人と人」を繋ぎたいと思った。そしてそれなりに(仕事の)ミッションとして繋いだと思う。ワークショップなど開催して初めて同士の人達も結構いたし、それなりの成果だろう。もしかすると名刺交換で終わったかもしれないけれど、それもそれまでの縁だったということだ。

 また「人と地域」を繋ぎたいとも思った。そして僕なりに努力した。何度も片道100キロという道のりを通い詰めた。このプロジェクトは現在進行中であり、まだどのような成果が出るか分からない。頑張った分出てくれるとすごくうれしい。

 あとひとつおまけでもないが、「NPOと企業」を繋ぎたいとも思った。けれどもまだほとんど何もできていない。残り2ヶ月半でどうなるか?一発逆転なるか?ってところ。

 ところで「人と人」を繋ぐあるいは繋がるということは、先にも書いたが、今やブーム的勢いで、そのコーディネーターも沢山いる。商売として成り立っている。そして「人と地域」を繋ぐことも、今や各地で地域おこし(地域づくり)が盛んで、そのコーディネーターはたくさんいる。(ただ人と人を繋ぐコーディネーター数はこちらの方が少ないけれど。)今地方の新聞を見ると地域づくりの話題が載っていない日を見たことがないというぐらいだ。

 このことをこの仕事を始めることによって知った。そしてここには僕はそんなに必要ではないということも知った。というかそう感じた。

 と、同時に僕には近頃猛烈にやりたいと思うようになったことがある。それが「『地球と人』を繋ぐ」ということ。
 
 これを仕事にしてる人ってまだ少ないんじゃないだろうか?けれどもこれって今一番必要なところじゃないだろうか?

 今の社会は僕からすると持続不可能な時代。それもかなりの進行度。だから天変地異が吹き荒れる。おまけに人の心もすさんでいる。病んでる人が多いのも事実。

 それって僕には人と地球が離れてしまっているからと思えるのだ。そして地球と人がつながり、共生していくこと以外に、持続可能な人間社会ってできないと思う。

 5次元とか、高次元抜きで、3次元の普通の思考者として(今日は)考えてみて、地球と人の共生以外にこの現実の3次元世界での道はないと思う。

 もう一度縄文時代からやり直したくないし、もう今回が最後とも言われているし…。(これは次元がずれてしまったな。)

 かといって、ではいったいどうすればいいかというと、まだ具体的な案は浮かんでいない。Happy World方程式など概念やら概論は出来上がっているけれど、具体的にとなると未だ多くが「???」。

 けれども心はどんどんそっちの方へ向かっている。今や寝ても覚めても「地球と人を繋ぐには?」って考えている。「どうしたら人と地球が共生・共発展できるのだろう???」

 ということで、これはやるっきゃないし、やれってことだろう。きっとその答えはいつか出るだろう。道を切り拓くしかないね。それにこの2年間「人と人」「人と地域」を繋いできた経験が必ず役に立つ!

 世の中「想い」から始まり「実行する」ことで物事は動き始める。その想いが純粋でポジティブ、そして宇宙の理にかなうというものであれば、きっとそれは実現の方向へと動いていく。

 僕には全く感じられなかったけれども、アセンションの時の変わり目があったのならば、きっとそれはかなえられるだろう。

 導かれるままに、行ってみますか。

 そこにはきっとワクワク、ドキドキするようなことがきっと待っているから。時代のキーワードは「ワクワク」なのだから。

 NEXT STAGEに進みます。そういえば、一時期ドリカムの「その先へ」って曲をよく聴いたことがあったな。よし、その先へ行くぞ!

 あなたも一緒にいかが?





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2013年1月 5日 (土)

家族だからできること

 かつて高齢者福祉業界に身を置いていた僕から見て、随分と介護業界もいろいろなサービスが出てきたものだとつくづく思う。

 僕がその業界に足を踏み入れたのは介護保険の始まる前のこと。15以上前?しかも老人病院という社会的入院(今もこの言葉使われているのだろうか?)が90%で、旧態依然の老人介護の場所であり、今思えば散々苦労したのを思い出す。

 抑制ありあり、つなぎ服、寝かせきり、即おむつ、8人部屋、あと名前を忘れてしまったが悪名高き精神安定剤いくらでも、患者さんがベッドから離れるのは週2回のお風呂の時だけ…などなど毎日が闘いだった~。

 そんな~時代もあったよね~♪

 今では介護が必要となっても旅行にも行くことができる時代となり、在宅で生活できなくても、さまざまな種類の入居場所が提供され、さまざまなサービスが提供されるようになっている。

 利用者(入居者)にとって多様なサービスが選択できるようになったことはとてもよいことである。あとはそこで働く職員がいかに技術を向上させると同時に、人間性をアップさせるかだ

 介護保険の充実により、家族はある意味介護から解放され、自由な時間を持てるようになり、あるいは働き続けることがきるようになった。

 介護とは大変である。特に認知症などの場合症状によっては常に目が離せないこともある。それを家族だけが行うとなると、想像以上にストレスが重くのしかかってくる。介護地獄という言葉があったが(今もあるのかな?)、ズバリそのものといってもよいかもしれない。しかしながらそれも今ではデイサービス、ショートステイ、あるいは入居などによりその地獄から回避できるようになっている。

 そんな訳で誰もが気楽に介護サービスを受けられ、受けることが当たり前になってきた今の時代。そんな中で僕は在宅生活を続けている祖父母(以下じいちゃん・ばあちゃん)の入浴介助を続けている。基本的に水曜、土曜日の週2回行っているわけだが、仕事の関係等で時々ずれたりすることもある。

 じいちゃん95歳。少しは歩きもするが、ほとんどベッドで寝ている。耳はほとんど聞こえない。けど頭はしっかりしている。ばあちゃん93歳。認知症あり。以前は時々散歩の帰りパトカーでの送迎サービス利用。寝ていことも多いが、食べていることも多い。野生化半動物化している。

 そんな2人の入浴介助を始めてはや2年半。

 冬の時期、じいちゃんは入浴時間が長くなる。ゆっくり温まりたいのだろう。トータル20分から30分近く入っていることもある。途中で熱いお湯を継ぎ足す音もよく聞こえる。

 もしこれが施設やデイサービスでの入浴ならば、絶対に許されないことだろう。おそらく5分ぐらい浸かっていれば、「長湯は体に良くないから出ましょう。」「のぼせるから出ましょう。」「血圧高くなるから出ましょう。」のオンパレードで、無理やりにでも出そうとするだろう。

 実際僕もそうだった。個別入浴として対応するとしても、ある程度の時間がたつと、「そろそろ出ましょうか?」と声かけし、上がってもらっていた。もちろん利用者さんにより長短はある。それでも10分以上は入れていない。

 そこにはどうしても「他人」という壁がある。いくらゆっくり浸からせてあげたいと思っても、他人(ヒト)さま故に「万が一何かあってはいけない」という意識がどうしても働いてしまう。例え家族からお風呂が好きだから好きなだけ入れてやってくださいと言っても、やはり遠慮が働く。(あと、他にも入る人がいるんだという効率的なことも考えてしまうこともあるけれど…。)

 その点自分のじいちゃんだとその点思いいきり割り切っているところがある。95年間生きてきた。いつ死んでも大往生。お風呂は数少ない楽しみのひとつ。それなら好きなだけ入れさせてあげよう。もちろん何かあるといけないのでお風呂の外で待機し、ひげ剃って、頭洗ってあげ、時々見守りチェック、浴槽から出るときはつくようにしている。緊急時はスーパー介護士復活体制は整えてある。万が一のときは責任持つし、後悔もしない。

 でもまあ、基本的には「好きなだけ入りや。」

 ちなみにばあちゃんの場合はある程度浸からせると、「そろそろ出や。」と声をかけるようにしている。でないとお風呂で疲れて動けなくなるから…。

 あとは寝るもよし。食べるもよし。

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2013年1月 3日 (木)

足りてます。十分に足りてます。

 Happy Worldをつくりたいと願う僕。

 そしてその公式は
Happy World=大麻×微生物(発酵)×(ちょっとした)フリーエネルギー 
 という公式を編み出した(?)わけなのだが、これにはいくつかの前提というか用件がある。

 それは今の人類の意識では成り立たないということ。今の人類の意識でフリーエネルギーが手に入ってしまうと、これまで以上に電気の無駄遣いはされていき、クリスマスの時期などどの家もクリスマスイルミネーションで、夜でも町中が明るい、なんてことになってしまう。この公式を成り立たせる前提として、少なくとも人間の意識改革が必要となってくる。

 ではその意識改革とは何かといえば、まずは「知足」=「足るを知る」ということである。

 なんだそんなことかと思われるかもしれないけれど、これが難しい。

 日本ではこの言葉もう何百年も前から言われている言葉であるにも関わらず、これができてる人って数パーセントしかいないのでは?

 ウチのオカンなんて冷蔵庫を満タンにしておかないと気が済まないみたいで、こんなに買って一体いつ食べんのやと思うことばかし…。きっと戦後のモノのない時代に生まれた人にとっては冷蔵庫にモノがあるということが豊かさの象徴なのか?

 「豊かさ」ということで、僕はこの豊かさを感じることがもうひとつのHappy Worldの基盤にあるということを言いたいのだけれど、この豊かさを感じることも実は「知足」の上にあるといっても過言ではない。

 「足るを知る」=「十分にある」ということを感じることが、豊かさを感じることといってもいいと思うから。

 残念ながら多くの人は「我欲」でもって「足りない」「もっと欲しい」という状態であり、そこにあるもので十分であるという意識に至れていないのが現状だろう。

 もちろんこのことは社会の構造がそうしているとも言える。新聞広告やテレビのCMを見れば、次から次へと購買意欲をそそるようにできている。今では本来10年は持ち続けてもよいものが、数年で交換するように促されている。

 ああ、これもまた人間の意識改革が必要なところ。

 地球と人が共生し、共発展できる世界にしたい。

 これが僕の持つすべての願い。

 こっちの方がいいと思うんだけどな。残念ながら今の人類は我欲を満たすために、地球を破滅させる方向に動いている。(動かされている。)

 Happy Worldそんな世界ができる日が来るだろうか? みんなが笑顔でもって生きていける日。

 ひとり1人がその意識さえもてばいいのだが…。

 実は簡単なこと、多くの人が「来た時よりも美しく」ってことを知っているだろうし、実際にそうしている人も多いだろう。そこに「生まれて」という言葉を先頭につければよいだけ。

 「生まれてきた時よりも美しく。」

 みなさんあとどれだけ生きられるのか分かりません。それぞれでしょう。中には明日亡くなられる人もいるかもしれない。あと70年生きる人もいるかもしれない。でも、死ぬ時に生まれて来た時よりも美しくすることができているならば、地球もそしてあなたもより美しくなっているということであり、魂は成長し、地球の未来は続いていくということ。

 希望は捨てずに、想い続けよう。

 意識が現実を創造する。

 そこからすべてが始まる!



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