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2012年10月30日 (火)

忘れかけていた言葉「同悲・同苦」

 このところ自分の身の回りで起きた事件(?)によって、「同悲・同苦」という言葉が、頭の中をグルグル回っている。正確にはここ数年忘れかけていたこの言葉が蘇り、再びこの言葉をかみしめている状態だ。

 そこで改めてそれぞれの立場に立って考えてみた。するとそれぞれの心の痛みが感じられ、身につまされた。結局誰もが心を痛める出来事だったのだ。幸せになった人など誰一人としていやしない・・・。

 この「同悲・同苦」という言葉を知ったのはもう10年近く前になる。池口恵観著「心を鍛えれば運は開ける」(成甲書房)という本の中に出ていた。著者の池口恵観氏は鹿児島にある最福寺という真言密教のお寺の法主であられる。

 この最福寺の特徴はそこで毎日行われる護摩行にある。そこでたかれる護摩の炎は高さが3メートルにもなるほどのものであり、修行者はその炎の間近で約2時間真言を唱え続ける。

 ちなみに護摩行とは、真言密教でおこなわれる「行」のひとつで、護摩壇で護摩木を焚き、み仏に祈る行法である。護摩壇で焚く炎は智慧や真理をあらわし、その炎にくべられる護摩木は人の悩みや災難をあらわす。勢いよく燃えさかる火焔が、煩悩や病魔諸悪を焼き焦がすといわれている。(「心を鍛えれば運は開ける」より)

 修行者はその3メートルにも達する炎と間近対峙し、約2時間その炎の熱さや苦しさに耐える。行を終えた修行者の顔はその熱に耐え続けた影響で真っ赤となる。初めての者は顔中やけどを負うこともざらではない。

 そんな苦しい行をなぜ行うのか、法主は同書の中で次のように言う。(以下同書より転載)

 「行」には精神練磨と自己啓発の目的もあるが、最終的な目標は「同悲・同苦」の精神を養って、み仏の境地に近づくことにある。
 「同悲・同苦」とは読んで字のごとく、他人と同じ悲しみ、同じ苦しみを感じることだ。これは「察する」ことではない。「感じる」ことである。同じ苦しみや痛みを感じて、相手と同体になることだと考えていただきたい。
 「苦しみ」とは言葉で伝えられるものではない。不運に見舞われて苦しみのどん底を味わった人から苦しみのありさまを聞いたとしても、「可哀想に」とか「つらかっただろう」と憐れむことはできようが、自分の身で体験しないとその「苦しみ」を真実理解できない。
 私たち行者が「苦行」をおこなうのは、この世のさまざまな苦しみを自分の身体におぼえさせるためだ。自分の苦しみを通じて、他人の苦しみをわが苦しみとすること。これが「行」をおこなう大きな目的の一つなのである。(転載終わり)

 ちょうど僕はその頃、高齢者福祉の世界に入り数年を経た頃で、自分の弱さを克服したいと思っていたころであり、この本を涙を流しながら読んだ覚えがある。そして約1年後実際にこの最福寺へ護摩行を受けに行き、その本当に苦しい行をおよそ1ケ月間受けてきた。

 この言葉を胸に高齢者福祉を続けてきたつもりだったが、1年半前に高齢者福祉を卒業し、地域のこと環境のことあるいは社会のことに臨んでいるうちに、ついついいつの間にかこの言葉を忘れかけていた。

 それが今回自分の身の周りでに起こった出来事をきっかけに思いだされた。心が痛む出来事だった。けれどもそれはきっと現在の自分にこの「同悲・同苦」を思い出せというメッセージであったのだとも思う。

 なぜなら自分の周りで起こる出来事はすべて必然であるから。そしてその必然の出来事は、その人に必要だから起こるのである。

 今の僕が真に問われていることは何なのだろう。今一度よく考えてみなければいけない。

 けれども前に進まなければね。それぞれの痛みを感じつつも、それを教訓として前進して、愛と感謝の世界を創造していかなくちゃ! 振り返ってばかりじゃ、また事故に遭いかねないから。

 注意一秒事故一生ならぬ、注意三秒事故一生でいこう。


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