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2012年10月

2012年10月30日 (火)

忘れかけていた言葉「同悲・同苦」

 このところ自分の身の回りで起きた事件(?)によって、「同悲・同苦」という言葉が、頭の中をグルグル回っている。正確にはここ数年忘れかけていたこの言葉が蘇り、再びこの言葉をかみしめている状態だ。

 そこで改めてそれぞれの立場に立って考えてみた。するとそれぞれの心の痛みが感じられ、身につまされた。結局誰もが心を痛める出来事だったのだ。幸せになった人など誰一人としていやしない・・・。

 この「同悲・同苦」という言葉を知ったのはもう10年近く前になる。池口恵観著「心を鍛えれば運は開ける」(成甲書房)という本の中に出ていた。著者の池口恵観氏は鹿児島にある最福寺という真言密教のお寺の法主であられる。

 この最福寺の特徴はそこで毎日行われる護摩行にある。そこでたかれる護摩の炎は高さが3メートルにもなるほどのものであり、修行者はその炎の間近で約2時間真言を唱え続ける。

 ちなみに護摩行とは、真言密教でおこなわれる「行」のひとつで、護摩壇で護摩木を焚き、み仏に祈る行法である。護摩壇で焚く炎は智慧や真理をあらわし、その炎にくべられる護摩木は人の悩みや災難をあらわす。勢いよく燃えさかる火焔が、煩悩や病魔諸悪を焼き焦がすといわれている。(「心を鍛えれば運は開ける」より)

 修行者はその3メートルにも達する炎と間近対峙し、約2時間その炎の熱さや苦しさに耐える。行を終えた修行者の顔はその熱に耐え続けた影響で真っ赤となる。初めての者は顔中やけどを負うこともざらではない。

 そんな苦しい行をなぜ行うのか、法主は同書の中で次のように言う。(以下同書より転載)

 「行」には精神練磨と自己啓発の目的もあるが、最終的な目標は「同悲・同苦」の精神を養って、み仏の境地に近づくことにある。
 「同悲・同苦」とは読んで字のごとく、他人と同じ悲しみ、同じ苦しみを感じることだ。これは「察する」ことではない。「感じる」ことである。同じ苦しみや痛みを感じて、相手と同体になることだと考えていただきたい。
 「苦しみ」とは言葉で伝えられるものではない。不運に見舞われて苦しみのどん底を味わった人から苦しみのありさまを聞いたとしても、「可哀想に」とか「つらかっただろう」と憐れむことはできようが、自分の身で体験しないとその「苦しみ」を真実理解できない。
 私たち行者が「苦行」をおこなうのは、この世のさまざまな苦しみを自分の身体におぼえさせるためだ。自分の苦しみを通じて、他人の苦しみをわが苦しみとすること。これが「行」をおこなう大きな目的の一つなのである。(転載終わり)

 ちょうど僕はその頃、高齢者福祉の世界に入り数年を経た頃で、自分の弱さを克服したいと思っていたころであり、この本を涙を流しながら読んだ覚えがある。そして約1年後実際にこの最福寺へ護摩行を受けに行き、その本当に苦しい行をおよそ1ケ月間受けてきた。

 この言葉を胸に高齢者福祉を続けてきたつもりだったが、1年半前に高齢者福祉を卒業し、地域のこと環境のことあるいは社会のことに臨んでいるうちに、ついついいつの間にかこの言葉を忘れかけていた。

 それが今回自分の身の周りでに起こった出来事をきっかけに思いだされた。心が痛む出来事だった。けれどもそれはきっと現在の自分にこの「同悲・同苦」を思い出せというメッセージであったのだとも思う。

 なぜなら自分の周りで起こる出来事はすべて必然であるから。そしてその必然の出来事は、その人に必要だから起こるのである。

 今の僕が真に問われていることは何なのだろう。今一度よく考えてみなければいけない。

 けれども前に進まなければね。それぞれの痛みを感じつつも、それを教訓として前進して、愛と感謝の世界を創造していかなくちゃ! 振り返ってばかりじゃ、また事故に遭いかねないから。

 注意一秒事故一生ならぬ、注意三秒事故一生でいこう。


2012年10月28日 (日)

お金になりはしないけど、価値はある。

とある一日
 瞑想
 レポート読み
 ホームページのアップ
 読書
 じいちゃん・ばあちゃんの入浴介助
 海辺のウォーキングと空き缶・ペットボトル拾い
 みかん畑のゴミ拾い
 映画館に行き映画鑑賞

 どれもお金にはなりはしないけれど、やる価値はある。

 僕のやりたいことのひとつは新しい価値を生み出すこと。あるいは再発見すること。

 大人になるとお金に換えられることが価値あるものの如くに動いているけれど、ホントはそれだけじゃないものが山ほどある。

 海が少しでもきれいになること…。とっても価値あることだと思う。

 介護が人任せになった今、じいちゃん、ばあちゃんを風呂に入れてやる。これまた価値あること。

 売り先もほとんどないけれど、無農薬みかんの栽培に、その環境としてなるべく石油製品類、ガラス類のないこと。(微生物いっぱい&はだしでも大丈夫な畑づくり。ヘビはいるけどね。毒は持ってないから。)

 稼ぐとは、元々、お金などを得ることが主ではなく、仕事に励むことを表した。あるいは、つむいだ糸を「かせ」という道具に巻くことを「かせぐ」という。かせは休みなく動いて見えることから、かせのように仕事に励むことを「かせぐ」といった。また、稼ぐの「かせ」は「かせ(日迫)」の意で、昼夜に迫り、泊るところを知らないことを言ったとする説もある。とのこと。(クリエイティブ・コミュニティ・デザインより)

 ということで、仕事に励むことは稼ぐことであり、僕にとってはその中からどのような価値を生み出すかが、「稼ぐ」ことの主題となる。

 最近思っていることのひとつに、お金には変えられないけれど、どれだけ豊かな価値を生み出すか。あるいは豊かな価値を見つけ出す(掘り起こすか。)ということに、すごく関心を持っている。

 それをたくさん増やしていけば、俗に中山間地域と呼ばれるところは、誰もが豊かな地であることを理解できるのではないかと思うのだ。ホントは中山間地域には豊かさがあふれている。けれどもそれらの多くが(一見すると)お金にならないものなので、誰もが忘れ去ってしまっている。

 稼ぐのはお金ばかりじゃない。「豊かさ」を稼ぐのだ。もちろん今の社会で生きてくためにはお金も必要だ。けれどもそこばかりに固執してしまうと、あまりにもちっぽけな世界に固まってしまう。

 だから、稼ぐぞ!働いて「新たな価値」に「豊かな価値」をいっぱい稼いでやる。そしてそれをいろいろな人に見せるんだ。そしてそのうちの何人かでも新たな価値観に気付いてくれたならば、これ以上なことはない。

 豊かさとはモノを持っていることばかりではない。それを感じられること。そしてそれは見えることばかりじゃない。見えないものの気付くともっともっともっと、そしてずっとずっとずーっと豊かになる!


2012年10月27日 (土)

悲しいかなこの国のエリート

 いつもチェックしている天木直人さんの10/25のブログに以下のことが書かれていた。

 (途中より転載)
 野田、玄葉、藤村民主党政権が言いなりになっている拉致問題解決 についての外務省の無能さ、無責任ぶりについてである。
 私は繰り返し書いてきた。金正恩体制になった今こそ、日本政府が試みる価値のある方策は故 金正日総書記の専属料理人であった藤本健二氏をパイプ役とした金正恩新指導者との直接交渉であると。
 そして、それを拉致問題担当の大臣である松原前国家公安委員長が行なおうとしていたことが後日の報道で明らかにされた。
 しかしその試みは二元外交と批判され、潰された事もまた報道で明らかにされた。
 外務官僚とその操り人形のような玄葉外相が野田首相を動かし潰した のだ。やがて松原大臣は内閣改造人事で外される。
 この外務省の画策の具体的な証拠を私は発売中の週刊現代11月3日号で知った。
 すなわち週刊現代は「霞ヶ関24時」という連載コラムで次のように 書いている。
 内閣府には拉致問題対策本部が設置されている。その事務局長代理の 三谷秀史(警察庁出身)チームが藤本氏の第一回目の訪朝をお膳立てし、 藤本氏が金正恩第一書記と面会した時の言葉を日本語とハングル語で書いて藤本氏に話させたというのだ。
 藤本氏と金正恩第一書記の第一回目の面会がここまで内閣によって準備されていたとは驚きだ。
 問題はその後である。
 これが明らかにされるや、自らの手で拉致問題を解決したい外務省は 強烈に反発し、巻き返しに出る。
 それが朝日新聞にリークしてスクープさせた松原大臣の二元外交批判 であり、野田首相を通じた松原、藤本潰しであったというわけだ。
 そしてその後の展開は見事に拉致問題解決の道が頓挫してしまった・・・
               (転載終わり)

 これを読んで腹が立った。

 結局拉致被害者やその家族の事は二の次か。それよりも自分たちのメンツやプライドの方が上か…。一体拉致被害者たちとどのように接し、そして彼らの涙をどのように受け止めていたのだろう。

 そんな人達がこの国を動かしていると思うと、情けなくもあり悲しくて仕方がない。難関試験を乗り越え、夜遅くまで仕事をしているのは一体何のためなのだろう。国の仕事を司るということは、一体何のためなのだろう。この国をよくしたいとか、守りたいということじゃないのか。

 実はこれと同じような内容のことがロシアとの北方領土に関わることでも起こっていたことが以前月刊誌に書かれていた。

 結局はエゴか…。

 やっぱこの国は一度倒れた方がいいのかもしれないな。そして一からやり直した方がいいのかもしれない。

 でも唯一の希望として、地方には民のために一生懸命やろうとしている人達がいるってこと。地方にはまだそんな人がいる。僕はそれを身近に見ている。だからそのことをはっきり言える。

 国倒れても地方あり。

 でもお金なくてもやってくれるかな・・・。飲み代がなくなってもやってくれるかな・・・。ちょっと心配・・・。

 信じるしかない。


2012年10月23日 (火)

不思議な石

 家から1キロも離れていないところに温泉があり、時々そこにいくのだが、そこには(僕にとっては)不思議な石がある。

 その石は岩風呂という名の取ってつけたかという名のごとく、いくつもの石をはめ込んだお風呂にあるのだが、一見すると何でもない普通の黒っぽい石。けれどもそれは僕にとっては貴重な石なのである。

 もう数年前のことになるが、たび重なる仕事による心労でくたくただった時に、その温泉に行き岩風呂に入り、たまたまもたれかかったのがその石だった。その石は周りの石よりも少しだけ飛び出しており、ちょうど僕の(心臓よりも少し上の部位の)背骨に当たった。けれどもその石が背中に当たったとたんに僕の体の中の力が一斉に抜けていき、それと同時にその石から体全体に波動が伝わっていくような気がした。

 はじめは石の先っぽがおもいっきりつぼにでもハマったかと思った。経絡のヒコをつかれ「お前は既に死んでいる」状態になったのかとも思ったが、どうもそうでないらしい。

 というのも、全身の力が抜けると同時に、何故か涙があふれ出し、僕はボロボロ泣き始めた。そしてこれまでの辛さを思い出しながらも、数週間あるいは数カ月の疲れがどことなく癒されていくような気がしたのだ。

 それ以来その温泉に行った時には、岩風呂に行き、その石に背中を当てるのが習慣となっているのだが、それからは効き目があるかなと思われるときと、ないと思える時とがあり、あの時の強烈な感触は幻だったのかなと思い始めていた。

 ところが先日その温泉に行き、いつものようにその石に背骨を当てると、再びすーっと力が抜けていった。それと同時に今回は新たな発見としてちょうど頭がふたつの石の間に挟まるようになったのだが、そのふたつの石からも頭へと波動が伝わるのを感じた。そしてどんどんその石の波動が僕の体の中に入っていった。

 ちょうどここ2週間ほど心労がたまっていたからだろうか。背中に当たった石が、こわばった背中の筋肉を解きほぐし、力が抜けていく。思わずその気持ちよさに目を閉じボ~っとしてしまう。きっと周りの人が僕の顔を見たら、なんちゅう顔してんのやって思えるぐらいに、ただただ身を任せきった。

 思うにこの石にもきっと(イシだけに)意思があるのだと思う。そしてその石が人の心を感じ取り、波動を流すのだと思う。石にも心があるのだ。そして必要と思われた場合に、その波動を人に送り込む。あるいは、人がある状態の時にその石と波長が合い、相互作用を引き起こす。

 経営コンサルタントの船井幸雄さんが波動について次のように言っている。
 ① 同じような波動は互いに引き合う。
 ② 違う波動は排斥しあい、相殺する。
 ③ 自分の出した波動はフィードバックされる。
 ④ 波動には有意の波動と劣位の波動があり、有意の波動は劣位の波動をコントロールできる。
                「生命の秘密が分かって来た」(ヒカルランド)
 
 さて今回の僕の場合、お互いが引きあったのか、それとも心労で劣位状態で有意の波動に押されたのか?

 いずれにしろしばしの間僕の心を癒してくれたには違いない。だから今回は目を閉じてひたすら石に感謝した。「ありがとう。ありがとう。」って。涙を流すことはなかったけれど、なんだか石までもが僕の気持を分かってくれたと思うと、それはホント涙もの。ホントありがたいことだ。

 癒された後の僕の心はなんだか重たかったものがストーンと落っこちたみたいだ。イッシッシ~。

 またこれで頑張れそうだ。


 

2012年10月21日 (日)

日記・雑記~これまたいろいろ考えた。

 天気が良いので、久々に自転車で海辺をずっと走ろうと思い、小さめのバックパックを背負い愛チャリⅡ号で出かける。

 久々の道を通ると、いつの間にやら老人施設(有料老人ホーム)が建てられている。それにしても今やあっちにもこっちにも老人ホームやら、高齢者専用マンションやらが建ち並ぶ。今や完全に不動産会社も建築会社もこの分野に全力投資って感じだな。ホント日本は高齢者だらけやな…。

 ところで以前から思っているのだが、高齢者介護産業って実は何の生産性もないのではないかと思っているのだがどうなんだろう。入居者の貯金を喰い尽くしていく一方ではないかと思っているのだが、日本の貯金は大抵が高齢者が持っているもの。それが喰い尽くされていくのでは、と思うのだが。

 まあ、お金の循環になるのならばと思いもするが、介護の現場で働いている人達は低賃金であり、貯金する余裕もほとんどなく、日本のお金は宗主国の米の国に吸い取られていく。やがてこの国は本当にお金がなくなってしまうのではと心配したりもする。

 そしてチャリンコは快適にすすみ、海辺まで出ると、そこには穏やかな瀬戸内海が青空と実によくマッチングしており、秋の穏やかな天気と掛けあわされ、気持ちよさはその2乗、3乗へとなる。

 いや、それにしても瀬戸内海は気持がいい。気持よすぎる。ホントこんないい所ないよ。ここに住めていることに感謝だ。今はアオリイカのシーズンなのか、海岸線沿いでルアーを投げる人々がポツポツいる。

 そんな気持ちのよさの中を走っていると、後輪のタイヤがずるっと一瞬ずれた。なんかいやな感じがしたと思い、自転車を降りてタイヤを触ってみると、空気が抜けている!

 パンクや!家を出る前にタイヤに空気を入れてきたから間違いない。おまけに空気が抜ける音もする。あらら…。

 家から約10キロ地点で撃沈。自転車屋さんは近くになさそうだし、あっても今日は日曜日。休みの所も多いだろう。ということで、天気もいいことだし愛チャリⅡ号を押しながら歩いて帰ることにした。運動不足解消にもなるし!こんなことで気持を沈ませても仕方がない。

 歩きながら帰っていると、ちょうどルートが遍路道でもあったこともあり、5、6人のお遍路さんと出会う。「こんにちは。」の挨拶をしながら、すれ違うのだが、すれ違う人どの人も高齢者。みんな60は優に超えている。中には70代と思わしき、白いあごひげを生やし、2メートルはあろうかという杖をつきながら歩く、まるで仙人のような人もいた。

 年をとり介護施設に入居する人もいれば、四国の遍路道1200キロを歩く人もいる。それぞれがそれぞれの人生を背負っている。まあどちらかといえば生涯現役がいいのだろうけれど。僕なら間違いなく遍路道での野垂れ死にを選ぶだろうけれど…。

 自転車を押しながら歩いているからこそ、こうしてまたいろいろなことを考えているのだろうなと思うと、歩いているのも悪くはない。歩くことこそ人間の基本だし。師匠のサティシュ・クマールが現代人はまるで足がないようだと言っているし。ついでに歩き始めた瞬間から、家に帰って自分でパンクを直そうと思っている。

 僕は最近“百姓”になりたいと本気で思っている。百姓とは百の仕事をこなすから百姓といわれることもあるように、さまざまな事を自分でこなす。現在の分業の時代。何でもかんでも誰か(専門家)に頼まなくちゃならない時代にはどうも疑問符や。それよりも少々下手でも自分で楽しみながらやっていきたい。それが僕の望み。だからパンクも自分で直すのだ。

 国道を歩けば、そこは(足のない人達が運転する)車がジャンジャン走っているけれど、ひとつ中に入り、農道の細道を歩けば、稲刈り中の風景もあれば、川辺で亀が日向ぼっこをしていたりもする。歩くからこそまた楽しめる風景がいっぱいだ。

 しかし今では稲刈りと同時に脱穀も終え、ついでにモミすりまで終えてしまうのだから、何とも便利というか、合理化されてしまった。日本の農業従事者のほとんどが60歳以上なのだから、それも仕方がないのかもしれない。けれども中には今でも刈った稲を天日干しにしているところもあり、こっちのお米を食べたいなと思うのは僕だけじゃないだろう。

 車に乗ってスポーツジムへ行き、ランニングマシーンに乗っかるよりも、こうして楽しみながら歩いたりする方がよほどいいような気もするのだが、この街にも今やスポーツクラブも溢れている。

 お金のある人は、お金を支払って人が作りだし提供するサービスを受ける。お金のない人は自分なりの工夫をして、楽しさを見つける。これまたそれぞれだ。少なくともこの20年間の僕は後者であり、きっとこの先も後者であり続けるだろう。

 かつて20代後半時にバックパッカーとして海外を放浪していた時、この先海外に出るときは、安宿に泊まり渡るのではなく、きちんとしたホテルに泊まる身分となっていようと考えもしたのだが、どうもそのようになることはなさそうだ。というよりも、そもそも海外に行こうという気がほとんどゼロなのだが。

 日本が一番いいのだ。

 そしてこの国の人々が意識を変えて本当に力を発揮したら、あっという間に世界は変わるのだ。神国日本。神州日本。いつ立ち上がる?

 そんなことを考えながら歩いているうちに、約10キロの道のりを歩き終え、家にたどり着いた。そしてパンクも修理した。2度目のパンク修理なので、かなり早く修理完了。これで再び明日から愛チャリⅡ号は頑張れる!

 いい1日だ。


 

2012年10月20日 (土)

散歩しながら思う

 三日月明かりに照らされながら散歩する。といっても、住宅街の中を歩くので、街灯の明かりやら、家の明かりに車のヘッドライトと明かりだらけなのであるが…。

 ついでながら耳を澄ませば様々な秋の虫が鳴いているのであるが、その鳴き声をかき消すように、車の走行音、救急車の音など人工の音があふれている。

 どうやら僕の住むこのエリアではもう静寂を楽しむどころか、秋の音を楽しむことさえも難しくなってきてしまったようだ。かつてはあぜ道農道の通学路であり、人と二輪車しか通れなかったところ、無理して何とか軽トラが走れる場所が、今では普通車がブイブイ飛ばして走るまでになってしまったのであるから…。子供の頃の記憶から、なんでこんな車がこの道を走るのだと、ついつい腹を立ててしまう…。

 僕が望むのは地球と人間が共に笑いあうこと。こうして散歩している時に、自然や地球と話しながら、あるいはその豊かさを享受しながら歩くこと。そんなことができれば素晴らしいと思うのだが・・・。

 けれども今では人間が我が物顔で、自然を破壊し、自然を隅に追いやってしまい、人間社会の中に、何とか自然がその形を大きく変えながらも、生きながらえている。そんなふうに僕の住む町もなってしまった。

 それならばいっそのこと山奥へでも、田舎へでも引っ越せばいいじゃないかと思われるかもしれないが、長男でもあり、そして何よりもこの住宅街の中で、小さいながらもある、自然みかん栽培畑を守りたい、いや死守せねばと思うので、この地から離れるわけにはいかない。

 でもしかし、歩いて思うのは、なんと人間は欲の多いことなのかということ。欲のままに自然をどんどん潰して、思いのままに変えていく。そして今や人が人を弾き飛ばしあうまでになってしまった。

 今、高山長房さんの「日本はドラコニアンが作った世界最強の神州!だから、破滅の深淵から這い上がる」(ヒカルランド)を読んでいるのだが、この本には人間社会の裏側を暴露する内容だらけだ。この本の内容が真実ばかりかどうかは分からないけれど、もしそうならば一部の人間はやりたい放題だ。

 1か月ほど前この本の前篇を読んだのだが、そこにも裏社会が暴露されてあり、読んでいると気分が悪くなった。今回は少しは慣れ、そのようなことはないけれど、それにしても人間の愚かさにあきれるばかりだ。

 権力者たちはこんなことに無駄にお金を費やしているのか。あるいは僕らが支払った税金、あるいや買った物の利益が、世界を破壊するものばかりに費やされているなんて考えると、なんてくだらない世界に生きているのかと思ってしまう。

 けれども同時に、もしこのくだらない争いをやめにして、共生社会に生きることができるならば、地球はあっという間に素晴らしい星へと戻るのではないかとも思う。

 もうやめにしようや。こんなにお互いが不信感に包まれて生きていくなんて。騙し合って生きることなんて、あまりにつまらないことだろう。ハッカー合戦を繰り広げなくても、お互いが信頼できるようになる努力をすればいいじゃないか。こんなことに税金が使われるなんて、そしてこんなもんで経済があり、それ一辺倒の中で生きているなんて、あまりにも寂しすぎる。

 僕らはむなしさの中で生きているのではないだろう。僕らがこの世に生きる意味は、少しでも魂を成長させ、ワンネスへ近づくこと。もしそれを否定したとしても、できることなら自分を成長させて死んでいきたいと思うのではないか。

 この世の生を終えて、あの世に変える時、僕達はその人生を振り返る。その時どれだけの人が空虚な人生を過ごしてしまったと思うことだろう。

 死ぬまでにどんなにお金を稼いだとしても、それがもし人を欺きもしたならば、そのことを誇れるだろうか。どんなに巨大な権力をもったとしても、それが多くの人を蹴落としてついてきたものならば、そのことを誇れるだろうか。それにそんなもの持って行けないしね。

 そんなこんなで1時間。

 三日月明かりは、何も言わずにただ照らしている。ため池の水はその輝きをただ映している。「明鏡止水」。そんな境地にも至らず、ウダウダ考えながら歩く秋の夜。

 禅の境地も遠ければ、悟りの境地などなお遠い。けれども少しでも世の中よくしたい。地球を救いたい。大げさなことを言うけれど、実際の所道端に落ちた空き缶をゴミ箱に入れるという、ちっちゃなちっちゃなことしかできないけれど、それでもコツコツやってくしかない。塵も積もれば山となる!

 がんばろっと!!



2012年10月17日 (水)

絶望の中で見つけた光

 悩みながら、迷いながら、つまずきながらもこの1年半かけてひたすらやって来た仕事が、ぶっ壊れかけとなった。それもたった一人の過ちのために、地獄に突き落とされたかのようにすべてが音を立て崩れていった。信じていた奴だったのに・・・。

 ずっと低空飛行状態で、ようやく小さな光が見えてきたという矢先のことだった。これでようやく今回のミッションを与えてくれた人達に恩を返せるかもしれないと期待を抱き始めたところだった。その期待も一瞬のうちに消え去った。。

 「音を立てて崩れる」とか「一瞬のうちに消え去った」というのは本やドラマの中での表現かと思っていたが、まさかそれが自分の身に降りかかってくるとは夢にも思わなかった。「ドラマよりもドラマ」って言葉が現実として起こりうるなんて、今の僕はまさにドラマの中にいるようだ。笑いがこわばっていく。

 人に会い話をしていると、ふとした瞬間に感情が込みあげてきた。悔し涙ってこうして出てくるのだ。女の人の前でも泣くなんて超久しぶり。恥ずかしい限り・・・。次どんな顔して会えばいいのだろ?

 そんなこんなであちこちに謝りっぱなしの約1週間。土下座するまでには至らなかったけど、どれほど頭が地面に着くぐらいに下げたことか・・・。ようやくそれが一巡しそうだ。まだまだ気が抜けないけれど・・・。

 そんな最悪の日々を過ごしていたのだけれど、それでも実は心が前向きになったこともあった。それは自分には仲間がいるってことが分かったこと。それもこの先の未来を一緒に開拓してくれそうな仲間ができていたということ。

 いろいろと慰めの言葉をかけてくれた人はたくさんいた。それはそれでありがたいことだった。けれども、僕の心の奥(傷)までは届かなかった。分かれると同時に消えていった。

 けれどもここ半年近く一緒になってやってきてくれた仲間たちの声は身にしみた。そしてこれからも一緒になってやってくれるという団結に感動した。

 実は僕はこれまでチームなどというものを知らなかった。常に一匹狼だと思っていたところがあった。個々の仲間はいたとしても、徒党を組んでやるってことなどなかった。スポーツもマラソンや水泳と個人スポーツばかり愛していたし、登山もひとりで修剣としてしていたし、自転車もよほどのことがなければ誰かと一緒に走るということはなかった。

 そんな僕が今回初めてチームを作ろうとし、そして事件が起き、崩れ去ったかのように見えた中で、チームを確認することができた。

 今しみじみと感じている。仲間のありがたさ。そして大切さ。

 もちろんその仲間とは、ふざけたり、バカを一緒にしたりするような、無条件の、いわゆる子供時代・学生時代からの仲間ではない。仕事を通じてできた仲間だ。ひとつのことを一緒にしようとした仲間。

 これまで顧客の喜びを喜びと感じること、自分の行った仕事に感動したことはある。けれどもそこに仲間を意識したことはなかった。それが今回は仲間の存在に感動し喜びを見出した。

 そして今なんだか、こんなボロボロの状態でも再び立ち直れそうな予感がしている。チームそして仲間の存在に支えられてやってけそうな気がする。

 天は乗り越えれらない壁は与えないという。そして僕自身目の前に立ちふさがる状況、組織、慣例という壁を仲間という存在のお陰で乗り越えられる気がする。

 チームっていいな。仲間っていいな。

 絶望の中から見出した喜び。

 こいつを意識の力で現実に変えなくっちゃ!!

 意識が現実を創造するのだから。この仲間とがっちり握手する姿を生み出さなきゃ。



2012年10月14日 (日)

重なるような気がする

 IMFの総会が日本で開かれ、その声明に「日本に赤字国債の発行に必要な公債発行特例法案の早期成立を求める」が発表され、記者会見では「日銀が追加金融緩和を実施すれば、われわれは適切な処置だと思う。」と理事が述べている。
 また、合同開発委員会の声明では「東日本大震災の経験から得た教訓を共有できたことを(日本に)感謝する」とのこと。

 僕はこれらの所に何の専門性も持ってないのだが、胡散臭く、いかがわしいものとしか思えない。なんだか日本を世界大恐慌の道連れにしようとする意図が隠されていいるような・・・、そして震災教訓も裏でではほくそ笑んでいるような・・・、そんな後景が思い浮かばれて仕方がない。

 そんな時ちょうど読み始めたのがジョン・パーキンス著「エコノミック・ヒットマン」(東洋経済新報社)。その冒頭にある序文は次のように始まる。

 エコノミック・ヒットマン(EHM)とは、世界中の国々を騙して莫大な金をかすめとる、きわめて高収入な職業だ。彼らは世界銀行や米国国際開発庁(USAID)など国際「援助」組織の資金を、巨大企業の金庫や、天然資源の利権を牛耳っている富裕な一族の懐へと注ぎこむ。その道具に使われるのは、不正な財務収支報告書や、選挙の裏工作、賄賂、脅し、女、そして殺人だ。彼らは帝国の成立とともに古代から暗躍していたが、グローバル化が進む現代では、その存在は質量ともに驚くべき次元に到達している。

 また本の帯に書かれているのは「表の顔は一流コンサルティング会社のチーフエコノミスト 裏の顔は工作員」。思わずニュースとこの冒頭分が重なってしまった。

 アメリカにとって日本は属国というよりも、もはや植民地としか思っていない。現在の政治などまさにそのもの。政府は日本国民の方を向かずにアメリカ方親分の顔色ばかりうかがっている。そのことは誰もが感じていることだろう。

 そんな日本にはアメリカが欲する日本国民の預貯金が存在する。まさにそれはアメリカが現在最も欲する「資源」。アメリカだけではない。EUだってよだれが出るぐらい欲しくてたまらないものだろう。

 ということで、今や世界中からエコノミックヒットマンが日本に押し寄せているのかもしれない。きっとコンサルタント会社名だけでなく世界〇〇機関、とか〇〇財団とかのチーフ〇〇やら、理事やら、様々な肩書きでもって押し寄せてきているのだろう。

 ちなみにこの本まだ最初の部分しか読んでいないのだが、エコノミック・ヒットマンの働きが失敗したら、その後には「ジャッカル」と呼ばれる人間がやって来るらしい。彼らが現れると、国家の指導者が追放されたり、悲惨な「事故」で死んだりするそうだ。

 日本で政治家の不可解な死とかあるし・・・。

 そして、もし万が一ジャッカルも失敗すると、アフガニスタンやイラクでも使われた、アメリカの若者が生死をかけた戦場へ送られるそうだ。

 IMFの正体はいったい何者だ!

 どうなる日本。

 今夜は毛布をかぶって寝よう。

 世界が平和となりますように。


2012年10月12日 (金)

プレアセンション

 まもなくやってくるアセンションをプレ体験した。絶望から希望の光が差し込むアセンション。

 大事な友をひとり失った。そして絶望の淵に突き落とされた。けれどもそこに光を注いでくれたのは友だった。一時は神も仏もないものかと思ったが、そこには仏がいた。友の中に仏を感じた。奪われはしたが、神様は決して見捨てはしなかった。

 僕たちは友を失った。
 お金も失った。
 そしておそらく信頼も失った。

けれども残されたもの(財産)もある。

 ひとつはチーム
 ひとつは協働
 そしてもうひとつは人々の意見

 今でも心は痛む。痛くて辛くて苦しくてたまらない。けれどもそこに現れた光はもしかすると宝石以上の価値ある財産なのかもしれない。そしてそれを磨きあげるのは僕ら自身。僕らの役目。きっとそこには新しい世界が広がっていくことだろう。これまでのこびり付いた古い体質は洗い流され、新たな芽が育ち始めるだろう。

 そして失った友はきっとまた這い上がってきてくれるだろう。姿かたちは変われども、きっと新たな装いで現れるだろう。もしかすると彼はそのために僕たちの前に現れたのかもしれない。だから彼はどんなに苦しくても這い上がってきてくれるだろう。なぜならそこには信頼して来た友がいるから。彼はきっと約束を果たしてくれる。僕はそう信じる。

 まもなくこの地球そして人類に降り注ぐアセンションの波。それはきっとこれ以上にすさまじい破壊力を持ち、人類みんなを絶望に追いやるものなのだろう。多くの命を奪っていくのかもしれない。すべてが暗闇となるのかもしれない。けれどもその後そこにはきっと光が降り注ぐ。これまでに見たことのないような光が。そして僕らは次の次元、次の世界へと向かう。

 ニビルが近づいてきているらしい。その時僕たちは何を見ることになるのか。これまで3000年以上隠されたいたものを僕たちは再び見ることになるのだろうか。

 それがアセンションの始まりであり、終わりであるのか。僕には分からない。けれども僕らは決して希望をなくしちゃいけない。光が降り注ぐことを信じていなくちゃ。

 そのためのこのプレアセンション体験。

 僕は貴重な体験をした。

 つらい思いもいっぱいした。この36時間地獄を味わった。何度も涙を流した。でも世の中にはそれ以上に苦しんでいる人もいる。僕はそのことを知っている。

 「同悲」「同苦」。僕の師匠のひとりの言葉。人の悲しみ苦しみを知るために、それと同じ悲しみ苦しみを知る(体験する)。その言葉が何度も僕の頭の中をよぎった。それが人の痛みを知ること。

 さあこれからが本番だ。しっかり地に足をつけ迎えなければ。今回起こった出来事、そしてこれから起こるであろう更なる大きな出来事。すべてに感謝をしなくては!

 ふんどし締めて、感謝!感謝!




 

2012年10月 7日 (日)

なんじゃこりゃ!と思ったけど

 突然ですがクイズです。以下の漢字の読み方は?
 「七音」「加速」「輝宙」「美音楽」「天馬」「走太」

 答えられたかな?
 「七音」は「ななおと」「ななね」じゃないよ。正解は「どれみ」。
 「加速」は「かそく」じゃないよ。正解は「あくせる」。
 以下答えは「ぴかちゅう」「びおら」「ぺがさす」「じょんそん」

 さてさてこれはよく歌のタイトルである読み方(読ませ方?)かと思えば、実は最近の子供の名前だそうだ。

 ある雑誌を読んでいて、その中の記事に書かれてあったのだが、最初読んだ時、おもわず「ホンマかいな?」と思ってしまった!(これをおじさん化現象というのだろうか?)。

 かつて10年以上前に自分の子供に「悪魔(あくま)」とつけ、ニュースで話題となったことがあったが、今やそれを超える現象が起こっているようだ。「悪魔」と名付けた父親だったと思うが、インタビューで「自分の名前に負けない強い子に育って欲しい。」とかいう、なんだか訳のわからないことを言ってた覚えがあるけれど、今ではきっと「デビル」あるいは「デーモン」と読ませるのだろうな。

 ちなみに「姫茶」でキティ、「今鹿」でナウシカ、「三二一」でミニーだそうだ。名前って子供にどのように育って欲しいかを願ってつけるものだと思っていたけど、近頃はなんか変な方向へ変わってしまったか?

 なんだか今や子供さえもペット化されているようで恐ろしい。もし子供が親の思い通りにならなかった時は・・・想像すると怖い情景が浮かんでしまう。子供は近頃の小型犬のように人が近づけば、尻尾をフリフリ、満面の喜びでもって迎えてくれる・・・それが子供のあるべき姿なのだ。

 名前の付け方からして、虐待件数が増加するのも頷けてしまう。児童相談所で虐待と子供の名前の統計でも取ってみればいいのではないか?まあそれどころじゃないか?(きっとそんな余裕はないぐらいに大忙しだろうからな。)

 いやいや、日本の行く先は一体どうなるのだろうと心配になる。これもおっさん化現象か?

 唯一の頼りは近頃はクリスタルチルドレンやレインボーチルドレンと呼ばれる、自分のこと、あるいは自分の使命を分かって生まれてくる子供たちが増えているそうだから、この子たちが親を上手に導いてくれることだ。

 そう思ったのだが突然、いや待てよとふと思った。きっとこれらの名前を付けた親たちはインディゴチルドレン世代であり、インディゴの役割とは体制を破壊すること。もしかするとこの名前の付け方もこれまでの体制を破壊する行動なのかもしれない・・・。

 もしそうならば考えなければならないのは、このおっさん化された世代以上の人々なのかもしれない。これまでに造り上げたこの社会。考えてみれば今やどうしようもない社会となってしまったからな。政治なんて一目瞭然。今では誰にでもわかる酷さとなってしまっているのだから。

 「人のふり見てわがふり直せ」ということわざがあるけれども、まさにこれはインディゴチルドレン達が日本に突き付けている課題かもしれない。彼らは「俺たちを批判するなら、そういうお前たちはどうなんだ!お前たちが築きあげた今の社会に誇りが持てるか?福島のあの姿はなんだ!今の日本の自殺者はなんだ!お前たちのやってることは何なんだ!俺たち事を批判する前に、自分たちのケツを拭け!」って言っているのかもしれない。

 やっぱここは大人たちが本気で考えなおす必要があるのではないか、という結論で終わろう。

 余談ではあるが、このおっさん化しつつある僕も(ずっと初代の)先駆けインディゴ族に属していると思っている。だから今のこの社会を打破したいのだ。



2012年10月 3日 (水)

逃げろ!逃げろ!

 もしかすると前に書いたかもしれないけれど再度また書きたいと思ったから書こう。

 けど、最近なんだか忘れっぽいな。やばいかな・・・。まあ悪いこともいいことも忘れて、今に生きているということで、それで良しということにしよう。

 僕が書きたいのは現在の子供たちのこと。今もそうだけど、ほんの少し前までは毎日のように騒がれていたいじめによる自殺の問題。なんだかこの話題がいくつもあちこちで連鎖反応のように続いている。

 誰が悪いとかいうよりも、とにかくその年齢で死んでほしくないということ。死ぬにはあまりにも若すぎる。世の中その年齢で生きたくとも生きてられない人もいる。どんなに苦しくとも生きてほしい。

 というよりも、生きるために「逃げろ!」って言いたいのだ。

 学校なんかいかなくてもいい。しばしの間引きこもってもいい。あるいはどこかずっと離れたところで農業体験するのでもいい。とにかく、逃げろ。そして生きろって言いたいのだ。

 というのも、今日昼ごはんを食べる時にニュースを見たら、母親の虐待による死亡した子供のニュースが出ていた。それを見てまた悲しくなってしまったからだ。

 子供たちよ、親でも構わない。逃げろ。学校が何もしてくれないのならば、警察だってかまわない。友達の家でも構わない。とにかく逃げろ。躾と言ってゴルフクラブで殴るなんて、そんなの全く躾じゃない。逃げろ。

 一時はさみしい思いをするかもしれない。いろんなトラウマを抱えるかもしれない。でも逃げて生きてほしい。そして色々な経験をしてほしい。

 この世界は悪い奴ら、ロクでもない奴もたくさんいる。テレビに出ている奴、日本の国を司っている奴、そんな中にもロクでもない奴は山ほどいる。今の政治家なんてほとんどがそうかもしれない。

 それでも、この世界は素晴らしい。そしてこの地球は人間ひとりにはあまりにも大きく、不思議を抱えている。それをしっかり見てほしい。地球は時に人間にも残酷なことをする。けれども人間に様々な恵みを与えてくれている。

 そんな地球を見ることもなく死んでほしくない。地球だけじゃない。世の中にはとてもいい人がいる。とことん向き合ってくれる人もいる。おせっかい過ぎるといわれる人もいる。そんな人も知ることもなく孤独のうちに死んでいくにはあまりにももったいなさすぎる。

 僕もかつて21のころだけど、(もうでかいか?)絶望の中でオーストラリアに逃げた。けれどもそこで出会った人達そして大自然に囲まれたおかげで、絶望の淵から這い上がることができた。そして今周りから見ればとんでもない奴だと思われているかもしれないけれど、それでもいっぱいいっぱい地球も見て感じて、そして人の優しさ、冷たさにも触れて、誰よりも豊かに生きている。不思議な世界もいっぱい知ってるぞ!

 もちろん逃げた分、あとから大変なこともある。けれどもその時にはそれを乗り越えられる勇気もあれば、対処法だって見つかるだろう。だから死を選ぶならば、あるいは死を感じるぐらいならば、一度ぐらい逃げることなんて許されるのだ。
 
 そしてそのくらいならばまたいくらでも取り返すことなどできるのだ。学校の勉強ができたからと言って、それがその先の人生豊かかと言ったら、全くそんなことは関係ない。今の世の中勉強ができた奴らがおかしくしてしまっているといっても過言じゃない。人生なんていくらでもやり直せる。ましてや10代なんて全くの真っ白なままと言ってもいいぐらいだ。

 だから逃げるんだ!死ぬとか殺されるというところまで追い詰められたならば、逃げろ!逃げて生き延びるんだ。まだまだその先には希望があるから。夢だっていくつも見れるのだから。


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