« 2012年8月 | トップページ | 2012年10月 »

2012年9月

2012年9月29日 (土)

教育とは何だ。

 海岸に打ち上げられるペットボトルや空き缶が気になって仕方がない今日この頃。どうすればこれを減らすことができるのかと考えていくと、やはり教育しかないのかなと思う。

 今の子供たちを見ていると、多くの子供たちが小学生の頃から塾に通っている。時々塾から塾のカバンを背負った子供たちが一斉に出てくるシーンを見かける。その場面を見るとなんだかため息が出てしまう。

 僕の子供のころとはすっかり変わってしまった。僕も習字やそろばんを小学生のころ習ったことはあるが、国語や算数まで習おうとは全く思わなかったなあ。でも今の子供たちは気味教育の中学校に行くにも受験があるからな・・・。義務教育なのに、一体何の質が違うのだろう。いい(と言われる)学校にはいじめはやはりないのだろうか。みんな慈愛の精神を養えるとか・・・?

 今の子供たちも塾に行って数学や英語を習うよりも、もっと基本的にゴミをどこにでも捨てないこと、公共空間や自然を大切にすることなどを習わせた方が、よっぽど役に立つと思うのだが…。

 ところで親はなぜ子供を塾に行かせようとするのだろうか?いい学校へ入れたいから?通信簿の評価がよくなるように?

 そんなの見せかけの学びではないかと思っていたら、ズバリそのことをついてくれた子がいた。その子の名前はジャンヌ・ユキちゃん。ちゃんとつけたのはこのジャンヌ・ユキちゃんまだ二十歳だから。でもこの子から今回すっかり教えられた。

 ジャンヌ・ユキちゃんは最終学歴、小学校。幼いころから引きこもり・うつ病・自殺未遂という悲しい時を過ごしていたらしい。けれどもある時母親にシャーマンの所に連れていかれ、その人と話をすることで、自らの使命に目覚たそうだ。そして彼女は自ら「真実を調べる」ということを始めたそうだ。彼女は自分が興味を持ったことを、ネットや辞書等を使い、自ら調べあげるという習慣を身につけた。そして、ひとつ調べると、そこにはまた分からない漢字や言葉が出てくる。そしたら今度はそれを調べるという行為を繰り返し、今では環境分野・教育分野等において各地で講演をするまでになっている。

 自殺未遂の繰り返しから、意味の分からない言葉を調べることの繰り返し。えらい転換やないか!

 そんな彼女から大人(?)たちへの訴えの言葉は、(知識の詰め込み教育ではなく、)子供の知性と個性を伸ばす教育を!とのことだった。

 現在引きこもりや不登校が問題になっているけれど、それって大いにこの知識の詰め込み教育が関係していると思う。それも一度に何十人もの生徒に同時に詰め込んでいくという、まるで大量生産の工場じゃないかと。そしてそれについていけない子供たちのために、個別指導という塾が流行るという・・・、なんだか変じゃないか。

 一時僕は不登校になった子供は、学校に行かずに家にいて勉強もせずにどうするつもりだろうと思っていたこともあったのだが、今回ジャンヌちゃんの話を聞いて、「ああ、学校へ行かなくてもどうにでもなるのだ!」と妙に納得できたし、新しい教育というものが見えてきた。

 子供たちは学校へ行かなくてもいい。それよりも海に行き、海岸に打ち上げられた、あるいは投げ捨てられたゴミを拾い、それで感じたこと話し合う。そして子供なりにその解決方法を考える。それか今度はその解決方法をどうすれば実行できるかを考える。その中で調べなきゃいけないことを調べていく。

 時にはネットや辞書で調べるのではなく、どこかの工場に行かなければならないかもしれない。インタビューやアンケートの実施もあるかもしれない。でもそうやって自分で考え行動していく方が、先生(上)からの一方的な詰め込み教育よりもどれだけ学びとなることか!

 子供たちよ、学校へ行かなくてもいい。それよか海辺へ行け。山でもいい。何なら近くの川の土手でもいい。そしてまずはゴミ拾いをして、どれだけ多くの人がそこにゴミを捨て去っているか実感しろ。そしてそれがいいことなのか悪いことなのか考えることからはじめろ。そして分からないことに出会ったら調べろ。そしてまた考えろ。その繰り返しだ。そしたら学校へ行かなくてもいい。(ただしゲームばっかするな。そして真の勉強をしろ!)

 きっと親は子供たちが空き缶を拾う姿を見て、自分は普段ゴミを平気でどこにでも捨ててないか考えるだろう。そしてもし捨てているならば、子供たちの姿を見て反省するだろう。そしたらその分ゴミは減っていく!

 いじめがあちこちで起き、学校は把握していませんでした。いじめとは思っていませんでした・・・などのコメントが相次ぐ中、現代教育が限界を迎えていくだけでなく、教育する立場の人達も限界を超え、崩壊している。一番の犠牲者は子供達だ。

 僕たち大人はジャンヌちゃんの言葉を謙虚に受け止め、そして真剣に今後の教育を考えていかなきゃいけない。そしてその際には、これまで築いてきた教育方法の概念をすっかりはずして考える。そこから始めなければならない。

 インデアンに学べ!


 

2012年9月26日 (水)

清掃宣言

 瀬戸内海。それは僕の大好きな場所。この海が僕を東京から故郷へとUターンさせるきっかけのひとつであったことは間違いない。日中の青い海。夕暮れ時の夕陽に染まった海。いずれも穏やかでかつ美しくあり心を和ませる。瀬戸内海は日本の宝だ。

 そんな中でも僕のお気に入りは高浜にある「白石の鼻」。ここには巨大な白い岩が積み重なり海の中に浮いている。というか、どっしりと君臨している。

 この岩は三ツ石と呼ばれているが、実は4つの大きな石が組み合わさっており、そして春分の日と秋分の日の年2回その組み合わされた石と石の間の空間に太陽の光が差し込み海を照らすことから古代遺跡ではないかと言われている。

 僕はこの場所に毎週のように訪れているのだが、ずっと気になっていたことがあった。それは砂浜に打ち上げられたゴミ。ペットボトル、空き缶、発泡スチロールに木くずetc。木くずはまあ自然のモノだからいいとしても、プラスチック類などの人工物が打ち上げられ、小さな砂浜ではあるのだが、せっかくの景観を台無しにしてしまっている。

 ずっと汚いなあと思いつつもそのままにしておいたのだが、2ヶ月ぐらい前からそれが我慢できなくなり、遂にペットボトル、空き缶、びん類を拾い始めた。最初は1個か2個拾い自転車のボトルさしに入れたり、手でもって自動販売機の空き缶入れに入れていたのだが、最近はスーパーの袋を持っていき、砂浜に落ちているペットボトル、空き缶類をほぼ全部拾うようになった。相変わらず拾ったものは自販機の空き缶入れに捨てているのだが、これくらいは製造したモノの責任だろうと思っている。

 1週間後再び来た時には空き缶やペットボトルがまた打ち上げられている。きっと拾った翌日にはまた打ち上げられているのだろう。永遠なるいたちごっこなのかもしれない。けれども拾った時にはほんの少しでも海がきれいになったと勝手ながら自己満足に浸っている。けれども同時に怒りも感じている。どうしてこんなに海にペットボトルや空き缶が捨てられるのだろうと…。

 自転車で海辺を走っていると、時に空き缶やらファーストフードショップのコーヒーがそのままそこに置かれている。それを見るたびに自分で飲んだものは、持ち帰るのが当たり前だろうと思うのだが、なくなる気配は全くない。

 ということでこれからも空き缶・ペットボトル拾いは続けようと思っている。そして近々海辺の吸い殻拾いウォークもしようと思う。それで空き缶や吸い殻の放置がなくなることはないだろうけど、1人でもそのことに気がついてくれる人がいればいいと思う。

 けれどもこれは実は自分自身の健康の向上も兼ねている。吸い殻を拾いながら約2キロほど歩く。ウォーキングを兼ねている。メタボ予備軍からの脱却だ。打ち上げられた空き缶ペットボトルを拾う。きれいになった砂浜を見て心が晴れる。心身ともに健全だ。しかも他の人にとってもいい。(これをして困る人はいないだろう。)もちろん地球にとってもいい。きっと白石の鼻の龍神さまも喜んでくださるだろう。いいことだらけ。みんなに広めようかな・・・。

 そしてもちろんのことながら拾った空き缶類は自販機の空き缶入れに入れるし、吸い殻類はコンビニのゴミ箱に入れようと思う。それが売ったモノの責任であるし、企業のCSRのひとつだろう。いいでしょ、コ〇コーラさんに、ロー〇ンさん。それぐらい協力してよね。

 地球が大好きな僕にできること。まずはこんなことから。「生まれてきた時よりも美しく」するにはまだまだ程遠いけれど…。僕らは地球のお世話係だからね。

 ついでながら部屋の中は足の踏み場もないぐらいに荒れているけれど・・・。こっちも掃除しなくては!!



ホームページ「らいふあーと」もよろしくお願いします。


 

2012年9月23日 (日)

天誅下るぞ!

 新聞のニュースで神社の御神木が相次いで枯れる事件が起こっているそうだ。そしてこれが人間(悪徳業者)の手によるものらしいとのことが書かれていた。

 神社には樹齢何百年の樹木が御神木として祀られている。それはその神社が何百年も前からそこにあるという歴史を示す証拠である。一方で樹齢500年以上の樹木は寺や神社の建立や修繕に欠かせないらしい。けれどもそれらはめったに市場に出てくることはない。そのため業者は高額な金額を提示し売って欲しいと頼みに来るらしい。

 今回枯れ始めた木には根元に11カ所の穴が開けられており、そこから除草剤を注入し、それが葉を枯らし光合成ができないくなり、木全体が枯れてきたのではないかとのことだ。

 そして神社は木が枯れてきたため伐採を決めたとのことだが、伐採された木はもともとの(生きた木の)半値以下とのこと。このようにして故意に木を枯らし、買いたたく悪徳業者がいるとのこと。そしてこの木はどこかの城の修繕に使われるらしい。(9/23愛媛新聞要約)

 なんでこんなことをするやつがいるのだ!しかも神社の御神木。神様の宿る木だぞ!いやその木が神様そのものなのだ。それなのに神様を毒殺するとは!神も恐れぬ悪徳者とはこのことだ。とても腹が立つ!

 それにしてもつくづく思うのは、現代社会は本当に経済観念でしか動かなくなってしまっていることだ。神社という聖なる場所で、それを感じることもなく、経済的価値(貨幣価値)でしかモノを見ることができない輩達。そんなのがあふれてしまっている。

 僕はどこかに行ったとき、神社を見かけると、そこを訪れることが多いのだが、神社でお参りをするとともに、そこの御神木が目に着くと必ず、手を合わせると同時に、触らせてもらっている。その感触は聖なる感触と、生きているという感触でとても癒される。

 業者たちはそんなことを感じることもなく、木を見てこれをあそこに売れば、何百万、あるいはうまくいけば何千万円とそろばんをはじくのだろう。そして「はい、ごめんなさいよ。」と全く心のない言葉をかけ、手を合わせ、そしてためらいなくドリルで穴をあけ、除草剤を注入するのだろう。そして木が枯れる頃を見計らい、買いの注文を出すのだろう。

 ああ、おぞましい顔をした悪徳越前屋の顔が思い浮かんでしまう。

 バカ野郎!お前たちはまんまとうまくいったと思っているのだろうが、お天道様は、お前たちのやったことはすべて見ているぞ。お前たちは安く買いたたき、高く売り、儲けた、儲けたと喜んでいるのだろうが、その金はすぐに消えてなくなるぞ!天誅が下されるのだ。

 きっと彼らには汚い金もきれいなお金の区別はなく、お金はお金。と思っているのだろう。(まあ大体、今世界中のお偉いさんあるいは権力者と言われる人達が、お金にきれいも汚いも区別なくばら撒きまくっているのだから…。)

 それにしても、見えない世界を、あるいは神聖さを感じることなく、世界は実物だけ、あるいは実物と信じられているお金だけで動いているとしている人間がなんと多いことか。そして彼らはモノを所有し、それでもって自分の存在と満足を感じているのだろうが、彼らほど虚空と虚無の世界をいっている者はいないのではないか。

 豊かさとは、心が満たされていること、それは目には見えないモノで満たされていることを感じることであるのに…。その目に見えないものとは愛であり感謝であり、そして目に見えない存在、自分よりも大きな存在、あるいは(小さな)生命を感じることだ。

 これらの感覚をかつての日本人はみんな持っていた。けれども今ではそれを持っている人の方が少数派となってしまった。つまりは多くの人が豊かではないし、豊かさを勘違いしているのだ。

 一日も早く日本人が本当の豊かな心を取り戻すことを願うばかりである。それこそが今回枯らされ、伐採せざるを得なくなった木の精霊に対するくようである。



ホームページ「らいふあーと」もよろしくお願いします。


2012年9月19日 (水)

 プレディアスからの贈り物

 先日注文したヘンプナッツ(麻の実ナッツ)とヘンプオイルが届いた!これでまたヘンプのある生活が送れるわけだ。体調も良くなる兆しが・・・。ナッツは3袋購入したから、ひとつは爺ちゃん婆ちゃんに。
 
 ところで昨年一時ひまわりが放射能を除去するといってあちこちにひまわり種まきが流行ったが、今年はそんな話もほとんど聞かれなかったみたいだがどうなったのだろう?ちらりとあまり効果が見られなかったという記事を見たこともあったのだが・・・。

 放射能を除去する植物としてヘンプ(大麻)もあげられるのだが、日本では一部の間でしか話題に上がってこない。チェルノブイリでは放射能除去として麻が植えられているのにもかかわらずだ・・・。ホントは福島を大麻特区として、汚染地帯にたくさん大麻を植えればいいのだ。

 ちなみに麻は肥料をやると逆に育ちが悪くなるらしい。肥料なしの方がすくすく天高く育って行くらしい。また麻の根が土中に穴をあけ、酸素がいきわたるようになるので、土も元気になるそうだ。微生物が活発化するのだろう。そしてこの微生物も放射能を除去するものとして本来ならばもっと注目されてもよいのだが、一部科学者たちが認めようとしなければ、広がるのを邪魔をしている。嫌だな。

 中国に巴馬(バーマ)と呼ばれるところがあり、ここでは100歳以上の高齢者が元気に暮らしているらしい。そこは「長寿の里」として注目されているらしいのだが、その巴馬ではなぜ元気高齢者が多いのを調べたところ、その原因のひとつとして火麻(ひま)を料理に使い日常的に食しているかららしい。

 などなど他にもいいこといっぱいの大麻なのだが、簡単にあげれば石油の代替品となるのでバイオエネルギーとして車を走らせることができる。プラスチックの代用品となる。繊維は衣類となる。繊維は通気性があるのに、保温性もあるらしい。また、炭にすれば、水の浄化となったり、体の中の悪いものを吸着し排出してくれる。医療費が削減される。神道が復活する・・・。などなどあげればきりがないほどいっぱいだ。

 いいこといっぱいだから大麻はプレディアス星からの贈り物ともいわれているが、なんだか最近ホントにそうじゃないかと思い始めている。地球を浄化し、人間もきれいにしてくれるのだから、これ以上のモノはないのではないかと思うのだが、いかがだろうか。

 とりあえず僕は、麻の実ナッツ、ヘンプオイル、ヘンプピローケース(枕カバー)、ヘンプストラップ、ヘンプ混靴下、そして麻炭スティックを揃えた。結構充実してきた気がする。あと欲しいのはヘンプシーツ。これで寝たらぐっすり眠れるだろうし(ちなみに今ヘンプ枕カバーを使っているがよく眠れるようになった。)、きっと体も浄化してくれるのではないだろうか。

 あと大麻ふんどしというのもあるみたいだが、使ってみたい気もするが、まだそこまで行けてない。むっちゃ元気になりそうだけど・・・。

 考えてみれば、麻は日本人の日常生活から神道、天皇家の儀式まで、切っても切り離せないぐらいの品物であったし、あって当たり前のモノだったはずなのだが、今では多くの人がその名前を聞いただけで痲薬そいて中毒をイメージし、拒否反応を起こすようになっている。戦後60年以上の洗脳はすさまじいモノがある。

 こりゃ、きっとプレディアスが嫌いな人達がしかけた罠だな。僕たちはまんまとその罠に引っ掛かってしまったのだ。でも今ではそのプレディアス嫌いな人達も力を失いつつある。今こそ麻復活のチャンスだ。

 日本の復活はこの麻にかかっているといっても過言ではない。麻の復活で日本も復活。ついでにアセンションの流れにも乗ってしまおう!

 ちなみに、いいとこだよプレディアスは!

 帰りたい・・・。


2012年9月15日 (土)

亀は万年

 毎日通勤途中にお堀のいかだに亀が何匹か這い上がり、のんびり日向ぼっこをしている姿を自転車で走りながらみるのだが、その姿に少しばかしの癒しを頂いている。

 亀と言えば、子供のころ池や川あるいは用水路で遊んでいると、時々小さな亀を見つけた。捕まえて帰り、水槽やら庭の小さな池でその亀を飼うのだが、大きくなって川へ放すか、いつの間にかいなくなったのを覚えている。

 最近新聞の記事で読んだのだが、そのカメ(イシガメ)も今や絶滅の恐れさえあるとのこと。というのが用水路はコンクリで固められ、更にはため池さえも公共工事として修理をコンクリブロックで固められてしまいつつあるのが原因とのこと。

 周囲を見渡せば子供のころ用水路で捕まえたザリガニもドジョウも今やその姿を見ることはなく、塗り固められた人工用水路のヘドロの中にかろうじてオタマジャクシを見たり、あるいは外来種のジャンボタニシの生々しいピンク色したタマゴを見るだけとなってしまった。

 ここのところニュースでカワウソは絶滅したとされ、日本ウナギさえも絶滅危惧種となることが伝えられている。そういえば、かつて子供のころ海に行けば、サビキでイワシやサバがあっという間にバケツ一杯に釣れたのを覚えているが、今では釣り人を見ていても、ポツリポツリとしか釣れていない。かつては当たり前のようにいた生き物がどんどんその姿を消している。

 いうまでもないが、すべては人間の仕業だ。人間のエゴによる自然破壊、あるいは乱獲による減少。すべては人間の自分たちの都合により自然を作り変え破壊したことが原因だ。

 トキが一度絶滅し、中国から連れて来られ、放たれ再び日本で野生のトキが復活したことがニュースでよく伝えられているが、今の人間のあり方では、それもつかの間の喜びだけかもしれない。(まあ今の中国を見ていると日本以上にひどいようだが…。)

 それにしても人間は懲りない生き物である。身の回りの小さな自然から熱帯雨林のジャングルの破壊まで、どんどん壊していく。いくら自然の大切さを唱えても、それ以上に破壊していく。中国の歴史の舞台であり、世界有数の大河である長江さえもその色を真っ赤にしてしまうのだから。人間のその破壊力はすさまじい。(一体今や誰が中国産の作物を安全な食べ物だと思うだろうか。)

 けれども懲りない人間もそろそろ冗談ではすまされないくらいに来ているのを自覚しなくちゃいけないのではないだろうか。

 いや、ホントは「いい加減に目を覚ませ!!」 って言いたい。

 これまでの暮らしを見直して地球そしてこの自然と共生する道を選ぶのか、あるいはある日神の洗礼を受け滅びるのか。どっちがいいのだ?

 動物や虫がある時大量発生する時がある。例えばイナゴが大量発生し、農作物を食い荒らすこともある。けれどもその大量発生したイナゴはやがて作物を食べつくし、食べ物がなくなり消滅していく。それが自然の原理だ。

 人間ももしかするとそうなのかもしれない。世界中の人口が70億となり溢れかえっている。けれども今では日本は少子化社会であり、人口減少国となった。この先更に原発で減り、あらゆる化学物質の摂取、不妊ワクチンの接種で今後どんどん減少していくのかもしれない。そして人口減少はやがては日本だけでなくアジア各国にも起こるかもしれない。

 まあ、ある意味イルミナティの人工削減計画の成就だな。今のエゴだらけの人間ならそれもよいのかもしれない。

 鶴は千年、亀万年の長寿の生き物。しかもそのカメは数億年前からこの地球に存在する先輩生物。氷河期も生き延び、レムリア、ムーの時代も生き延びてきた生物。

 今その数を減らしながらも、じっとその甲羅の中に身をひそめ、人間の愚かさを見続け、現世代の人間が滅びるのをゆっくりと眺めているだけかもしれない。お堀の日向ぼっこ中の亀はもしかすると、「愚かな人間が今日もストレスためてせっせと滅びに向かって行っているわー、気の毒に・・・。」って僕達を見送っていてくれているのかもしれない。

 「滅びるのは僕たちではなくお前達人間だよー。」

 「歩みはのろいけれども、自然と共にあるのが一番長続きする秘訣なのだよ。」



2012年9月12日 (水)

不便を楽しむ

 来年からのテーマを「まちなかロハス」としているのだが、只今そのコンセプトをあれこれ考えている。

 まちなか農業、ヘンプのある生活、炭を使った生活etc、と考えているのだが、最近ふと思いついたのが、「不便を楽しむ。」ということ。

 世の中どんどん便利になっている。今ではスマホも当たり前になり、道行く人誰もが、右手人差し指をスラースラーと動かしている。人間どこまで便利になるといいのだろうか。まだまだ足りないのかな? この次はどんなものが出てくるのだろう。あるサイトでは携帯が腕時計になったりもしていたけれど、そのうちサングラスと腕時計ですべて事足りるようになるのだろうか。

 そんな世の中の中で、
「もう十分便利な生活を送っている。もうこれ以上便利なものは必要ないや。」 

 これが僕の今の結論だ。

 僕は今街の中に住んでいる。近くにはコンビニもあり、スーパーだって歩いていこうと思えば、行ける距離にある。車で出かければ大抵の物は5分以内に手に入る距離にある。もちろん家にはパソコンがあり、こうしてインターネットを通じて情報の送受信をすることができる。

 ではこれ以上に必要なものが何かあるのか・・・。もうないとしか思えないのだ。もし欲しいモノをあげるならば、安全な食べ物、自然に負荷のかからないエネルギー。その程度のことしか浮かばない。
 
 おそらく他人から見れば不便だと思うことはたくさんあるのだろう。東京や大阪の人から見れば、あれこれあげられるかもしれない。そして「やっぱそっちは不便だね。」って言われるかもしれない。けれども僕には全く不便を感じない。

 最近中山間地域によくいくのだが、そこに比べたら全く便利な生活をしていると思う。けれども僕に言わせると、中山間地域の生活の方が羨ましくて仕方がないのだ。ホントのロハスな生活が送れると思うと、たまらなくなる。だからそれに対抗してまちなかロハスというのもあるのだけれど・・・。でも、イノシシ対策、買い物までの距離を考えると、きっとこっちの方がずっと楽な生活なのだろう。

 僕は逆に不便を楽しむくらいになりたいのだ。不便があるからこそそこに頭を働かせ知恵を出し工夫をする。その工夫をすることこそが人間らしさじゃないかと思うのだ。

 そして不便を工夫で補い満足する。あるいは多少の不便ぐらいに対しておおらかな気持でいる。それぐらいの余裕がある方がいいのではないかと思う。

 何でもかんでも便利さを追い求め、その挙句がほとんどのの人がついて行けないくらいのスピード社会になってしまった。周りを見てみるとほとんどのの人がついていけずにあえいでいるのではないだろうか。例えついて行けている人でも無言のプレッシャーにさらされているのが現状ではないだろうか。

 僕はそのシステムから離れることを試みたいと思う。それがきっと「まちなかロハス」ということなのだろう。世の中をお金に右往左往されず、穏やかに生きている人が一番強いと思う。僕はそれにチャレンジしたい。

 きっとそれは感謝で満たされている世界となるだろう。愛、喜び、感謝。そしてそれらを愉しむ生活って素敵だ。ちょっとぐらいの不便があったとしても、こちらに満たされている生活。僕には断然いいな。

 ああ、いつものことながら何を書いているのか分からなくなった。

 ただ、十分足りている。豊かな生活を送っている。だから多少の不便は受け入れるし、ひと工夫をして補えばいい。わざわざ新たな機器を購入しなくても十分にやっていける。今あるもので楽しもう。

・・・ということかな。


2012年9月 7日 (金)

こんなもの!

 僕は某ハンバーガーショップが嫌いだ。というか、こんな物を子供に喜んで食べさせている親はとんでもない親だと思っている。だってそこで売られているハンバーガーは半年経っても腐らないと言われている。腐らないハンバーガーって一体どんなものかと疑ってしまう。

 自然栽培された野菜は腐らずに、萎れていく(しぼんでいく)だけだという。まさか〇ックの製品が自然栽培のもの100%とは全くもって思えない。虫も寄らない腐敗もしない、まるでプラスチックでできているようなハンバーガーを人間は喜んで食べているのかと思うとゾッとする。

 そんな僕が昨日更に驚いた。というよりも「アホちゃうか!」と叫んだものがある。それは昨日ネットのニュース欄に載っていたのだが、リポ〇タンDキッズが発売されたというニュース。なんでこんなもの子供に飲まさなきゃいけないの?

 子供にそんなもの飲ませる必要があるの?子供は普通にご飯を食べていたら、タウリンなんか摂る必要なんてないだろう!子供は遊んで疲れたら寝ればいい。そしたら次の日はまた元気になっている。それがこどもだろ!それとも現在の子供は朝から「あー、昨日の疲れがぬけないなあー。」なんて部屋からキッチンに出てきたら母親に向かって言っているのだろうか?かつて「おやじギャル」って言葉があったが、今では「おやじキッズ」が現れたか?

 ついでながら製品の成分をHPで調べてみた。
・タウリン
・グルコン酸カルシウム水和物
・チアミン硝化物(ビタミンB1)
・リボフラビンリン酸エステルナトリウム(ビタミンB2)
・ピリドキシン塩酸塩(ビタミンB6)
・ニコチン酸アミド
・カルニチン塩化物

 こんなの子供に1日1本飲ませようと思う親ってどんな親なのだろう?これを開発した人達って、自分の子供に飲ませたいって思うのだろうか?

「はい、タケシ君。これ飲んで今日もファイト!」
ごっくん。「一発!」

 製品説明として、「カルシウムを始め、各種ビタミン、タウリンなど子供の発育に必要な栄養成分を配合」と書いているけれど、こんなモノで摂らないと今の子供たちは育たないのか?「毎日1本飲んで、元気に育っておくれ!」って思うのだろうか。

 僕のイメージとしては20年後の日本は二十歳にして虚弱体質の若者だらけ・・・。道端の日陰で蒼い顔して座りこんでいる若者があっちにも、こっちにも・・・。「タウリンくれよー。」って呟いている。そんな社会をイメージしてしまう。

 世の中は添加物だらけだ。添加物が食品を長持ちさせるようになったことは確かだ。それによって食中毒も減ったこともあるだろう。けれどもそれも今や行き過ぎ、限度を超えてしまったのではないか。それ故多くの子供がひとつやふたつの皮膚疾患やアレルギーを持つようになってしまったのではないか・・・。

 せめて子供には、自然なものをなるべく多く食べさせてやりたい。できる限り添加物の少ない物を選んで食べさせてやる。それが親の務めではないかと思うのだが、いかがだろう。

 18になって自分が何を食べようと知ったことじゃない。毎日カップラーメンで済ませようが、コンビニ弁当でお腹を満たそうが本人次第だ。けれどもやはりある程度大きくなるまでは、親が子供にどのような物を食べさせるかは、きちんと考えてやった方がよいと思う。

 ましてや現在の化学物質があふれかえる今の世の中。子供時代の健康を守ってやることは親の重要な務めではなかろうか。

 ホントは子供だけでなく、これから子供を産もうとする大人もそれを再考しなければ、子供は化学物質にまみれた母親の体の中で十月十日過ごすとなるのだが・・・。

 みんなが再考すべき課題だし、そんな時期が来ているのではないだろうか。


2012年9月 1日 (土)

日本に生まれてよかった!

 日中はまだまだ暑さ厳しいながらも、セミの鳴き声もシャンシャン鳴きまくるクマゼミの声から、夏の終わりを告げるツクツクボウシの声へと変わり、朝夕は涼しさも感じられるようになった。

 朝みかん畑に行くと、そこは虫の鳴き声でいっぱいだった。みかん畑に面してアパートがあるのだが、きっとここの住人の人達は毎晩この虫の鳴き声をメロディに眠りについているのだろう。残念ながら、今朝の虫の音コンサートは僕の侵入で無残にも中止となってしまったが・・・。

 さて時間は飛び、夕暮れ時、外に出てみると、空には数匹のコウモリが舞っていた。僕の住むこの地域は今やすっかり住宅街となってしまったのだが、コウモリが今も飛んでるなんて思いもしなかった。一体日中は何処にいるのだろう。

 しかしコウモリとは不思議な動物だ。目が(ほとんど)見えないのに、超音波によってあれだけの空中遊泳的な飛行をし、餌を捕獲するのだからすごい。というか、コウモリを見ているとやはり人間にはまだまだ知らないことや、理解できない世界が多々あるとしか言いようがない。
 
 コウモリを見ていると、その飛び方はアクロバット的であり、鳥には真似できないのではないかと思う。ツバメも勢いよく飛んでいるが、それほど縦横無尽には飛んでいない。やはり目ではなく超音波の世界だからこその技なのだろう。きっとそこには人間の世界とは全く違った超音波世界が展開されているのだろう。不思議だ!

 そしてコウモリから目をそらすと、庭の木々草花、前の畑、そしてその向こうの家の裏庭(?)から再び虫のメロディが盛大に奏でられている。そういえば今日から9月。すっかり秋となったのだ。

 ところでこの虫の鳴き声が、外国人には雑音とでしかないといわれるが、外国人にとっては秋は雑音の季節なのだろうか。夜うるさくて眠れなくて、神経をすり減らすことがあるのだろうか?

 正確には外国人でも生まれてから幼少期のころまで日本に住んでいた外国人にはやはり虫の鳴き声が、メロディとして聞こえてくるようであり、逆に日本人でも生まれてから幼少期を外国で過ごした人には、虫の音を心地よい音とは感じられないらしい。

 つまり日本というこの国土が虫の鳴き声を情感あふれるメロディとするのである。もうひとつあげるならば日本語の特徴である母音語が、それを形成するそうだ。さすがは言霊の国日本!

 そう思うと、僕は日本に生まれ、そして育って本当によかったと思う。そして親が日本にいてくれてよかったと思う。もし親が仕事の関係で外国生活をし、そして僕が外国で生まれ育ったとしたら、今この周りは雑音だらけとしか感じられないと思うと、ゾッとしてしまう。
きっとこの特性こそが共生を上手にできる特徴をもった人間を形成するのだろう。

 そこでひとつ思ったことがある。世界にはこの地球上の人類を支配しようとする一握りの権力者たちがいる。ロッ〇フェラー家やロス〇ャイルド家だ。彼らの子供が生まれてから5歳ぐらいまでは日本の田園地帯で過ごすようにすればどうだろう。それもヨーロッパ建築のお屋敷(城)ではなく、日本建築のかやぶき屋根で、色々のある家に住む。そしたら彼らは共生の心を幼少期に養い、きっと世界は今よりも平和になるに違いない。

 人類支配の帝王学を学ぶよりも、自然との共生学を学んだ方が、今後の彼らの将来はよっぽどよいものとなると思うのだが…。

 虫にしろ、コウモリにしろ、人間がどんどん都市化して来たこの社会空間の中で、頑張って生存してくれている。ありがたいことだ。もしそれらが絶滅してしまったら、この世界はどれほど味気ないものとなることやら。まあ彼らが絶滅する時には人間も滅びる時だろうが…。

 秋の夜長は、何をして過ごすにも最高の季節だ。虫の声が心地よいバックミュージックっとなってくれている。

 いやー、日本に生まれてよかった!



 

« 2012年8月 | トップページ | 2012年10月 »