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2012年8月

2012年8月29日 (水)

世界が作りあげた社会

 昨日児童に関する専門家との話の中で「今の君たちは社会に合わし、合わせることができたから、現在のポジションがある。けれどもそれができない人(子供)たちは、自分に合すことしかできない。だからどんどん落ちていく。あるいは低いところ(ポジション)におらざるを得ない。」ということが出てきた。

 この話で最初に感じたのは「はたして僕は社会に合わせることができているのだろうか。合わせているならばもっと上の方にいるのでは・・・。もっと給料ももらえても・・・。」と違和感を覚えるのみで、正直僕自身のことしか考えなかった。けれども一日経って改めて考えてみると、2つの疑問が湧いてきた。

 ひとつは、今世界を見ると、世界が作りあげた現代社会に、国家自体がついていけなくなっているのではないかと思わざるを得ないということ。ギリシャ、スペインしかり。アフガニスタン、イラクもアメリカにも手がつけられなくなっている。シリア、リビアもそう。そして日本だってアップアップ状態じゃないだろうか。政治、経済、金融、国債、年金、いじめ、自殺、医療、雇用、教育etc どれをとってもにっちもさっちもいかなくなっているのが現状だ。

 国家という本来ならば民を治め、守るべき存在が身動きが取れない、社会について行けない状態であるのに、どうしてその民がついていけるだろうか。いけるわけがない。一体どれだけの人が今の社会に合わせられているのだろうか?例え合わせられているとしてもその中のどれだけの人が合わせることに必死になっているのだろうか?

 なんだか脱落ゲームを想像してしまう。揺れ動く樽の上で、表面上は笑顔を振りまきながらも、必死でしがみつく人々がいる。その揺れの傾きはだんだん大きくなっていく。それに合わせて人々の笑顔はだんだん消えていき、ひきつり始める。そしてそれは、国家が揺れ動いているだけではない。人間が作りあげた社会自体が揺れ動いているのだ。そんな樽の上に、一体何人の人が残れるのだろう。(誰も残れないだろう・・・。それが現代社会なのだ。

 そしてもうひとつ、「果たして僕たちは社会に合わせていく必要があるのだろうか。自分自身に合わせることはいけないことなのだろうか?」ということ。もちろん自分自身に合わせるということは、わがままし放題ということではない。(冒頭の会話の自分に合わせるということは、自分は世間に認められないという利己から来る世界に陥っていること。) そうではなく、もっと自分自身の心を見つめ、心が本当は何を望んでいるかを知り、それを実践していくこと。

 自分自身の心が本当に望んでいることを知り、それを実践していくことが、例え今の社会にあわないことであったとしても、いいじゃないか?社会に必死で合わせることで神経をすり減らしていくことと、現代社会から落ちこぼれても、自分自身(の心)が本当に望むことをやっていくこと、どちらがいいだろうか。

 一方はお金や権力は得られる。また欲しいモノも手に入る。けれども毎日過度の競争にさらされ、ストレスに悩まされる。一方ではお金や物質の自由はない。けれども心が望むことをするという充実感はえられている。

 どれを選ぶのかは自分次第。けれどもひとつ言えるのは現代社会は確実に崩壊に向かっているということ。そしてそれがソフトランディングとなるのか、ハードランディングとなるのか、今僕たちは岐路にいるということ。(あるいはもう通り過ぎて、どちらに転ぶか決まってしまっているかもしれない。)

 意識をどこに焦点を合わせるか。僕たちは何を選択し、何を実行していくのか、天から試されているような気がする。


 

2012年8月26日 (日)

地球大好き!

 このところ地球が愛おしくて愛おしくてたまらない。できることなら抱きしめたいと思う衝動に駆られるぐらいだ。だから世界中でこの地球が汚されて、破壊されていることがたまらなないし、また地球が世界中で異常気象をおこし、大きな災害をもたらしていることも、心が痛い。

 地球は僕らに訴えかけているのだ。僕らは調子に乗り過ぎ、あまりに地球を痛めつけてしまった。僕らはそのことを反省し、地球との関係をもう一度考えるべき時を迎えているのだ。

 さてそのような中、希望をもたらしてくれるニュースを見つけた。内閣府の「国民生活に関する世論調査」で、今後の生活で「心の豊かさに重きを置きたい」と考えている人が64.0%という結果で、「物の豊かさ」の30.1%を2倍以上の差をつけたということだ。

 少しでも多くの人が「モノではプロミスランドへはたどり着けない」ことに気がつき、心の充足を求めるようになってくれたならば、もっと地球を大切にしようとする人が増えてくれるだろう。

 ただ気がかりなのは、同調査で、今後の生活で力を入れたいこと(複数回答)で、「レジャー・余暇生活」37.7%、「所得・収入」33.3%、「資産・貯蓄」32.2%という結果が気になるところではあるが…。

 「レジャー・余暇」が仕事と重なるようにすればいいのだが…。僕らは幼い時から「働いて、お金を稼ぐこと」、「労働すること」があたかも絶対に大切であるかの如くに刷り込まれてきているのだから・・・。本当は「自分が楽しいこと。」あるいは「ワクワクすること」をしていくことが必要なのだ。

 ところで、昨日ミニブログにも書いたのだが、みかん畑は今や草ボウボウ状態であるのだが、今年は小さなバッタも勢いよく羽音を立てながら勢いよく飛び跳ねており、またやけに体が大きく、どんくさいバッタもトロトロ飛び跳ねている。僕としてはあとはトノサマバッタが飛び跳ねてくれるようにならないものかと思っているのだが、昨日みかん畑の中を歩いていると、全長80cmほどのヘビが、スルスルと目の前を走って行った。

 ヘビなんて普通は嫌なものであるが、ビックリするとともに、喜びが湧きあがって来た。「僕のみかん畑もここまで生き物が多様になったのか」と!僕の理想に近づきつつあるぞ!っと。

 僕のみかん畑は、今や住宅街の中にある。かつて僕が子供のころは周りには、他にもみかん畑もあり、もしくは田んぼに囲まれていたのであるが、段々と宅地化され、今や住宅街となり、僕のみかん畑と、住宅エリアを挟んで、もう一つ畑があるだけだ。

 少し離れた田んぼがあった場所も、最近また埋め立てられ、宅地化され、今売出し中である。僕はそれを見るたびに、心が痛くなる。「この人口減少の時代になぜ、こうも畑や田んぼを潰すことばかりするのだ!」って、田んぼや畑をつぶす前に、僕に貸してくれ!

 だから僕はみかん畑を絶対に守りたい。そして自然と人間がコラボレーションするみかん畑(空間)を造りたい。このみかん畑の前を通る人はホッとできるようになってもらえれば・・・と思う。

 みかん畑には蝉が鳴き、蝶が飛び交っている。最近はコオロギの鳴き声も聞こえ始めた。朝一番に来ると蜘蛛が巣を張り巡らしている。今日はカマキリも見たし、歩いていると、カエルもぴょんぴょん飛び跳ねる。土を剥ぐればミミズが踊る。そして目に見えはしないが、微生物もたくさんいるはずだ。あとはもう少し土がホカホカになって、生命力あふれる土壌となってくれればと思う。

 僕のみかん畑は猫の額ほど。地球の中でホントに小さな小さな、米粒よりも小さな空間ではあるけれど、共生の空間である。この空間では地球がちょっとだけでも喜んでくれたらいいと思う。

 地球を大切にしたい。地球と共に喜び、一緒に発展していきたい。だからまずはこのみかん畑から。小さなことからコツコツと!できることから始めないとね。



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2012年8月22日 (水)

立ち上がろう!

 日本の政治状況、原発問題、(日本も含めて)経済・金融状況、そして地球の環境問題あるいは世界各地で起こっている自然災害。どれをとってももう限界を呈してきている。正直どれもに文句を言いたくてたまらないのだが、文句を言ったって始まらない。

 政治、経済に文句を言うのも大切だ。けれども今やどこに文句を言ったとしても、政府も経済界も聞く耳は持っておらず、自分達の利益のことだけを考えることで頭がいっぱいの状態だ。マスメディアもそれをフォローする一方で、国民の声は過小にしか伝えない。(う~、腹立つ!)

 「人間が先か、経済が先か」

 今日ニュースを聴いていると、経済界の人は、己の経済のことが第一で、人間のことなど後回しで十分ではないか、というように感じられた。確かに経済も大切だ。今の社会、現状では経済が崩壊すれば大混乱するのは間違いない。

 でもだ、それでもやっぱり「人間が先だろ!」。いくら経済が大切だと言っても、それは人間あってのものであり、原発がまた事故を起こして、人間がいなくなったら、経済なんてあり得ないだろ。例え経済が崩壊し、混乱が生じたとしても、やがては人間の創造力で、新たな社会が生み出されるのだから。

 30年前の日本のエネルギー消費量は、現在の半分だったそうだ。30年前にそれほど不便したかと思えば、そうとも思わない。確かに30年前と比べると、便利になった。パソコンで色々な作業が短縮され、どこかに行くにも簡単に行けるようになった。でも、それが果たしてよいのかと言えば、よいのだろうが、なんだか失われたモノがたくさんあるような気がする。いやむしろ失われたモノの方が多いのだ。だから社会はこれほどまでに酷くなっているのだ。

 正直、僕は今の社会に耐えられない。ここまで人間がエゴをむき出しにし、社会も地球も疲弊して、SOSを出し続けているにも関わらず、更なるエゴを満たそうとする世界にもううんざりだ。

 批判することも大切だ。今の社会、輩どもが、それをどれだけ無視し続けたとしても、国民の声がどんどん高まっていけば、いつかはその輩どももそこにはいられなくなる。

 けれどもそれと同時に、何かを始めることも大切だ。例えば週末のデモに参加することなど、自分にできることから始めればいい。小さな活動がやがて、大きなムーブメントとなり、力となる。

 そこで僕も、僕ができることから始めることにした。実は職場で新聞記事のスクラップが回って来るのだが、最近はいじめ関連の記事が多い。それを読むたびに痛ましくなってたまらない。

 いじめた側が悪い。いじめれらる側にも・・・、どうでもいい。親が悪い!学校が悪い。教育が悪い。社会が悪い。どれも悪いし、腹も立つ。でもそれさえもどうでもいい。ただ、もっと命について考えてもらいたい。命の大切さ、命そのものについて考えてもらいたい。

 そこで「命の力」をテーマに企画を実施することにした。僕は以前福祉の世界にいたので、福祉の理解も兼ねて、「命の力」について考えてもらう、映画会と展示会を開催することにした。

 映画は「天から見れば」を上映する。この映画は、子供の時に事故で両腕を失った日本画家南正文さんのドキュメンタリー映画だ。南さんは世間からの偏見、いじめ、そしてその境遇、それらを乗り越え、自分自身の運命を受け入れ、今は幸せ感じている。僕はそこに人間の力を見た。(いや、それ以上の力を感じた。だからタイトルも「天から見れば」となっているのだろう。)僕はそれをみんなに感じてもらいたいと思う。

 そして展示会は、脳性麻痺で生まれたために、左腕と口しか動かないけれども、その動く部位を使ってちぎり絵をつくる田坂さんという方の作品展を開催する。田坂さんがひとつの作品を完成させるのに3週間から数カ月を要する。一見その作品は、子供のちぎり絵のようにもみえるが、そこには圧倒的なパワーが秘められている。

 僕は田坂さんが実際に作品を作っているところを見たことはない。写真でその制作している姿を見ただけだ。それでもその田坂さんの根気ある制作風景に心を打たれた。ひとつの作品を完成させるその根気と労力を想像しただけで、僕は頭が下がる思いだ。そしてその力に尊敬と感動を覚える。だからみんなに見てほしいと思う。

 僕ができることって、今はこのくらいだ。まだまだ大きなことをする力は僕にはない。けれども僕なりに行動ができればと思う。そして1人でも共感してくれる人ができればいいと思う。そして少しでも社会を変えていくことに貢献できればと思う。

 嘆いていてもはじまらない。行動するしかない。糞真面目だろうと言われようが、融通が利かないといわれようが、構わない。

 僕なりの道を歩みたい。

 崩壊しかけの世界のその先には、広大なる荒野が広がっている。そこをどうやって切り拓いていくかは、僕たち1人ひとりの行動にかかっている。

 立ち上がろう!

 そして、がんばろう、日本!  &俺!




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2012年8月19日 (日)

子供たちはなぜ・・・

 電機メーカーのシャープが瀕死の状況だ。かつては液晶テレビで「世界の亀山」として誇っていたものが、今や1万人規模のリストラに、資産売却、事業部門も売却と、どんどん解体されていく。大手電機メーカーがあっという間に解体されていくその姿は明日の日本国家の姿のようにも感じる。

 「大企業」。かつては安泰と高給が約束されていると思われていたものが、今では無残な姿へと変貌している。今やちょっと「赤字計上」という言葉が出てくれば、即「○○○人リストラ」という言葉が出てくるぐらいだから、大企業へ勤めているからと言って、「安定」という言葉はない。

 それなのに未だにニュースでは毎年「学生に人気企業ランキング」などやっているのは、よほどネタがないか(その企業の)時代が止まっているとしか言いようがないんじゃないだろうか。その企業が5年先に存在しているかどうかさえも分からないのが今の時代なのに。

 JAL、エルピーダ、シャープといい、そして今や危ないといわれる某都市銀行に大手証券会社・・・。かつては日本を代表する企業が無残にも崩れていく。それでも今も多くの学生たちは就職先にの条件として「安定」を求めている。この国に10年先も安定している(大手)企業などあるのだろうか?。ないだろう。

 そうすると安定を求めている学生は公務員へとますます流れていくのだろうか。けれども公務員だっていつまで安定しているかは分からないはずだ。表面だけで900兆円もの借金を抱えたこの国で、いつまでも公務員がヘラヘラしていられるはずもないだろう。リストラという言葉は出てこないとしても、まもなく給料50%削減やワークシェアリングということが言われ始めるのではないだろうか。

 今やどこに行っても安定というところはないのだ。もちろん人間の欲求として「安定」は当然ながらある。けれどもその人間が作りだした現代社会に「安定」はない。笑えるぐらい大きな矛盾が生じているのが現実なのだ。

 では「安定」がないならばどうすればよいか。僕たちは「変化」の中で生きていくすべを身につけるしかない。そして変化の中で生きていくために求められるものは柔軟性であり、発想力、応用力そして変化の先を読み取る力だ。

 それらを身につけるには様々な経験をすることであり、それは決して机上のだけで得られるものではない。しかし残念なことに今でもこの国は机上の学問を重んじている。現実としてそれはかつて以上に重んじられているのではないだろうか。今や小学生のころから塾通いなど当たり前になりつつあるのだから・・・。

 はっきり言ってしまえば、これから先の時代の変化は、塾では教えてもらえないし、塾など何の役にも立たない。それなのに親は子供を塾に通わせるのは、親に先を読む力がないし、親自体が自分自身で考えられなくなってしまっているのだ。親自身が大企業病にかかってしまっているのだ。と、言ってしまうと、親から怒られそうなので、今でも親たちは子供の(将来の)安定を願うあまりに、「塾へ行き、勉強して、安定した人生を」となってしまうのだ。

 それでは今子供たちに必要なものは何か?それは「塾」ではなく、おもいっきり遊ばせることである。それも自然の中で自分たちの手や足、そして体全体を使って遊ばせることである。そこには道具などなくてもいい。とにかく自由に、少々の痛い目は覚悟して遊ばせてやることである。親は黙って見ているだけでいい。よほどの危険がない限り、親はじっとしていればいい。大人の小細工なんて不要だ。もしかすると必要なのは大人の我慢かもしれない。

 そうして子供たちは自由に遊ぶことによって、自由な発想ができるようになり、また想像力豊かとなり、創造する力もついていく。自らの力で学ぶようになる。その力をつけて初めて大人の経験をプラスしてやればいい。

 きっとその子供たちは柔軟性があり、発想力豊かで、自らが考え動く「人間」として育っていくことだろう。

 「偏差値」。大企業に今でも入るには高くなくてはならないのかもしれない。けれどもそれが本当に子供の幸せとなるのか・・・。子供にとっての本当の幸せは何なのか・・・、有名企業に入ることでもなければ、それを親が用意することでもない。幸せはその人1人ひとりがつかんでいくものなのだから・・・。

 がんばれニッポン。大企業がどんどん潰れていったとしても、僕たち自身の手で新しい日本を創造していくしかないのだ!!




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2012年8月17日 (金)

ヘンプのある生活

 ヘンプとは麻のことである。日本で麻と言えば「大麻」のことである。
 ところでテレビや新聞などでもこの「タイマ」という言葉が出てくると十中八九はその後に「不法所持」や「逮捕」という言葉が続く。それ故現在の日本では「大麻」と言えば、ほとんどの人がアレルギー反応をおこし、その言葉を聴くことさえ拒絶する。

 日本では大麻イコール「痲薬」であり、覚せい剤と同一にされ、それを絶滅させることに躍起であり、「覚せい剤、大麻、シンナー。絶対ダメ。痲薬撲滅キャンペーン」と名付けられ、ポスターがあちこちに貼られていたり、チラシが配られており、一般の人々もそれに賛同しているのが現状だろう。

 だから「ヘンプある生活」=「大麻ある生活」となると、ウサンクサーって言うのが正直なところかもしれない。そう、それが現在日本人90%の常識であり、認識なのだ。

 僕はその日本人の持つ大麻に対する概念を変えたい。

 こういうと大げさだな。世の中にはもっと人生をかけてそれをやろうとしている人達がいるから、僕などがそういうと彼らに申し訳ない。「ほんの少しばかり、そこに関わりたい」。それぐらいがちょうどいい。

 なぜならヘンプは痲薬どころか、21世紀の新しい時代を担う救世主植物だからだ!

 ということで、僕は来年度から「まちなかロハス」をテーマにした生活を送ろうと思っているのだが、そのひとつに「ヘンプのある生活」を送ることにしたい。そこで、ヘンプに対する誤解を解いていくことができればと考えている。そのためにこれからヘンプについてもっと勉強しようと思っている。ただし当然のことながらイリーガル(違法)なことをするつもりは全くない。

 とりあえず「大麻取締法」は「葉」、「花穂」、「未熟な茎」の所持が違法とのことで、それ以外は違法ではない。

 で、僕は只今「ヘンプの枕カバー」、「麻炭スティック」、「麻入り靴下」、「大麻ストラップ」それと「麻の実ナッツ」を使用中。

 麻の枕カバーを使い始めたのはもう半年以上前なのだが、これを使い始めてから眠りがとてもよくなった。もう手離せないグッズのひとつである。できればヘンプシーツも購入したいのだが、ちょっとお値段が高くて、まだ買えていない。

 また先日麻炭スティックを購入したので、タッパーに水道水を入れ、その中に麻スティックを入れておいた。数時間後にその水を飲んでみると、これが何ともまろやかな水に変わっており、ビックリ!

 恐るべきヘンプパワー。これから実体験を交えながら、勉強したことを少しずつ、このブログでも紹介していきたいと思う。

 麻の夜明けは、岩戸の開き。明るい未来が待っている。



 

2012年8月12日 (日)

つかの間のたわごと

 日本全国いや世界中が只今オリンピックで大賑わい。日本も過去最多のメダルということで、誰もがTVにくぎ付け状態なのだろう。僕は全くメダルには興味がないし、競争にも興味がないので誰が何位になったかもそれほど関心を持っていない。実際のところニュースぐらいでしか見ていないのだけど、それでもやはりアスリートの美しさには感動を覚える。きっとこれからは勝った負けたのよりも、その美しさがクローズアップされてくる時代となるのではないだろうか。

 ところで、このところのオリンピックで人々はすっかり盛り上がり、ニュースもそれらを強調しているので、政治や経済問題もすっかりと影をひそめてしまい、最近まで話題だったいじめの問題などは何処行ったの?と忘れ去られているようだ。内閣不信任案が否決され、消費税増税法案が成立したことも、一瞬のクローズアップで終わったかのようである。もしこの時期を野蛮な政治家たちが狙っていたならば、ホントに政治家ってずるいと思う。

 けれども決して政治も経済も、崩壊していくのが止まったわけでもなく、ますます酷さを増しているのが現状であり、ふとこのロンドンオリンピックが西洋の時代の最後の姿ではないかと思える。最後の西欧の勇士(?)を見ておくのも歴史真実かもしれない。

 オリンピックを剥がして世界を見てみれば、相も変わらず世界中でお金は刷られ、ばらまかれている。そしてそのばら撒かれ、あまったお金の行先のひとつは日本の国債であり、日本も調子に乗って表面金利0.8%として発行し、実質の所0.77~0.79%で推移している。日本の国債も末期状態ではないのかと思わずにいられない。

 しかし僕が言うのもなんだが、大手の金融業者も、ファンドグループも金利0.8%のものにしか投資できない状態って、一体世界はどうなっているのだろう?と普通に経済を考えれば思わないのだろうか?儲けないじゃん。それとも世界は金利のいらない世界。やがてはお金のいらない世界へと、まともな世界に向かっているのだろうか?

 思うに神様は今いくつかの種を投げ、じっと世界を見ていると思う。そして人間の行動がどう変わっていくのか、あるいは変わらないのかを見ながら、この先どう展開させるのか判断しているところだと思う。

 もし人間の価値観が変わり、もっと地球を大切にしようという意識が覆うならば、きっとソフトランディングとするのであろうし、まだまだ人間の意識は変わらずに、エゴをむき出しにするようならば、ハードランディングとするのではないだろうか。

 世界のギャンブラー達は日本の国債を大暴落させ、それによって大儲けしようと企んでいるとも聞く。もし日本人の意識が今のままエゴ優先ならば、大暴落も起こるだろうし、首都圏直下型地震に、富士山噴火、あるいは新たなる原発事故が起こるだろう。もし日本人の意識が共生に向かうならば、それらをうまく回避してくれるようにしてくれるだろう。

 神様はじっと見ているのだ。人間がオリンピックを見ているように、神様は人間界を見ている。

 さあ人間よ、これからどうする?神様は問いかけている。特に日本に、日本人に問いかけている。そして僕らはその答えをまもなく終わるオリンピックと共に答えないといけない。政治家たちは相変わらずです。それなら僕らはどうしましょう?2012年の夏は過ぎていく。

 サイコロ振りますか?それとも意識を変えますか?



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2012年8月 9日 (木)

みかんへの愛

(今日の午前中は比較的涼しかったけれど、)連日暑い日が続いている。夏の暑さが毎年毎年体にこたえ、特に今年は例年以上に応えどうも体調がすぐれない。更には今年は節電ということもあり、家ではクーラーが使われることはなく、扇風機、氷枕などで対応している。

 この時期暑さが答えるのは人間だけではない。暑さの上に、ずっとにわか雨さえほとんど降っていないので、みかんの木も葉が巻いてきている。おまけに昨年から無農薬、無化学肥料での栽培に切り替えたため、余計に木は弱り、葉の色は悪く、かつ何本かの木が枯れそうだ。

 肥料はともかくとして、さすがにこの時期時には水をあげなければならないということで、週1,2回夕方に2時間ほどかけみかんの木に水をやる。夕方と言っても16時ごろはまだまだ日が高く、暑さも半端ではない。ポンプ類をセッティングしている段階で既に汗は噴き出し、ビショビショだ。みかんの木よりも自分自身に水をかけたい衝動に駆られる。

 それでもみかんに水をひたすらやり、数日間土がカラカラに乾き、みかんもじっと我慢していただろうから、今日はたっぷり水を吸っておくれと、水をやる。でもこの水を与えない期間が、みかんの甘みを引き出すと思えば、この駆け引きのタイミングが微妙だ。

 水をやるだけなのに、服もドロドロになり、おまけに昨日は枝にシャツを引っかけてしまい、ビリ~っと破いてしまった。まあ、農作業の服装だから仕方がない。ちなみに僕はもういらなくなったシャツやズボンで農作業を行うのだが、周りから見たら、ずいぶんと汚い格好らしく、家までの道のりで会った人は、僕をよけて通る。まあ、水をやった後の僕の姿はドロドロの汗だくで、小汚いの極致だろうから仕方がない。

 暑い暑いと思いながら水をやってはいても、みかんにはこれでまた元気にみかんを太らせておくれ、と思えばなんだか嬉しくなってしまう。そして地面のカエルがぴょんぴょん飛び跳ねれば、いたずらにまた大量の水をかけてみたり、バッタが飛び跳ねれば、それもまた嬉しく、うれしいことも溢れている。あえて言うならば、蚊に襲われるのだけはごめんなのだが、あとから見るといっぱい噛まれていて…、かゆくて仕方がない。

 農業やってますって言うと、今でもみんな大変がる。特に女の人など、農家(?)って言葉に、私は関わらないわ…との雰囲気がまじまじと伝わってきたりして、あ~農業ってまだまだ一般の世界においては、遠い存在なのだなと感じる。近頃は農ギャルという言葉もあり、そんな人ばかりでもないんだろうけど、でもやっぱまだまだ少数派なのだろう。

 けれども僕にとっては農業というかこのみかん作りは、しんどくもあるが、最高に楽しく、うれしいものであり、そして今や住宅街になり果ててしまった、この地区の中で、自然を守るという使命まで感じている。

 農業こそが今の日本に必要なもののひとつなのだ。僕はそのことを確信している。そしてまもなくみんなが農業の大切さをつくづく感じるくる日がくるに違いない。

 まあそれはともかく、最近はまちなかロハスということで、いかにこの開発されてしまったまちなかで、ロハスに生きていくかを真剣に考え始めている今日この頃だ。

 僕のみかん畑にはとても多くの生き物が共生しているぞ。どんどん種の絶滅が進行している中で、みかん畑には多くの生き物が飛び跳ねているぞ。そんな中で今年はどんなみかんができるのか。もしかすると、今年の味はイマイチかもしれない。それでも僕は誇りを持っているぞ!!



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2012年8月 1日 (水)

高気密

 僕が棲んでいる家は築60年以上経過するみた感じもそれ相応の木造建築なのだが、最近その倍以上の築130年の古民家を時々訪れる。

 この古民家で時々カフェがオープンするので行っているのだが、この時期訪れると割と涼しくていい。この趣ある床の間に、古き家具なども残されており、この古民家で寝そべっていたら気持よくれるのにと思いつつ過ごしている。

 130年の歴史を感じさせるのもそうなのだが、古民家とは基本的に夏向けに建築されているので、作りも涼しげだ。もちろん安っぽい作りということではなく、僕が訪れるこの古民家は、かつてはこの地域の地主的存在で、銀行を作った人だから、当時はかなりの立派な家だった。なんたって女中部屋があるぐらいなのだから。

 ところで最近の家はどの家も高気密がうたわれている。確かに外から見てもどこからも隙間はなさそうで、スズメが巣を作る隙間も全くなく、これではスズメが減少するのも無理ないなと思える家ばかりである。唯一空気孔として、小さな換気孔がポッコリと設けられており、そこから空気の出入りがあるばかり。

 これらの家はみた感じ、空気の通りの調節している様子もなく、屋根と天井の空間もあまりありそうもなく、エアコンで温度調整するのが基本とされているのだろう。つまりは電気器具でもって温度調節をして、その中の空気が逃げないように高気密としているのだろう。

 ところが3.11の原発事故以来、世の中は節電を要請することとなってしまった。

 さて日本の古民家が何故夏向けに設計されているかというと、やはり日本の蒸し蒸しした湿度が高く、気温も高い日本独特の夏を考えて、この夏の気候をいかに快適に過ごすかを考えてのことだと思う。それ故日本の古民家は高気密とは正反対で隙間がいっぱいにとられているのだと思う。そこには風が流れ、風鈴があれば涼を感じられる。

 そして冬になれば、当時は基本的に土間があり、ガスのないころは火を焚いての作業もあり、また囲炉裏など暖をとるものならあるとのことで、また火を使うということで空気の入れ替えということも考慮して、隙間のある家の設計だったのだろう。

 さて高気密の家では、電気器具を利用する事が基本なので、暑さ寒さも電気器具でもって調節してくださいということになる。その代り電気器具で調節した温度はなるべく逃げないようにします…っと。

 もちろんその根底にはエネルギーはいくらでも使えるもの。現代のモノを使って人間に快適さを与えるという、モノベースの豊かさの測定があったのだろう。まさか原子力があんなことになって、電気を節約する要請が出るとは夢にも思っていなかっただろう。

 さてそんなことを考えていると、はたして現代の建築がいいのやら…と思ってしまう。科学的にできた壁、化学物質たくさんの作り・・・。電気製品使用を前提にされた家。いいのかな。

 しかしそんなことを考えていると、ワンルームマンション、2階建てコーポの2階の部屋・・・そんなことを考えてみると、ゾ~っとするどころか、汗が噴き出てきそうというか、とにかく入りたくないと思ってしまう。

 現代のモノって基本的に電気を使うことが前提として作られているものが多い。再考の必要ありだ。

 とにかく、神は僕たちにもう一度自分たちの生活のあり方を見直す機会を与えてくださった。素直に、そして謙虚に今一度自分の生活を見直してみる必要があるのだろう。

 夜は窓開けて、アイスノンでも枕にして眠るのが一番だ。



 

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