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2012年6月 6日 (水)

よりよい社会

 僕が去年の春高齢者福祉を辞め、今の仕事に就いた理由の一つは「もう少しよい社会をつくりたい。」と思ったからだ。

 今もそうだが、毎年毎年3万人以上の人が自ら命を絶ち、100万人もの人がうつ病。そして不登校に引きこもり・・・。さすがにこのままではアカンやろ。ちょっとでも何とかしたい。そんなふうに僕の中の正義感が、何ができるか分からないくせに突っ走ってしまったわけである。

 それから1年以上が経過し、世の中を眺めてみれば、相も変わらず社会は酷く、原発問題を見ても、裁きのあり方見ても閉口を通り超え怒りがこみ上げてくる。

 政治も、司法も、(大)企業も、国もどれを見ても、いよいよ終末論のスイッチオンという状態だ。実際にスイッチオンとなり、デスノートに何万人もの名前が書き記されたとも・・・。さてどうなる日本!
 
 しかしながら過去を振り返ってみると、恐らく誰も社会を悪くしようと思っている人は少なく、(まあ一部の支配者層が人類家畜化計画と人工削減計画で暗躍はしているのと、小悪党で金儲けと自分のことしか考えていないヤカラはいるが、)大抵の人はよりよい生活を目指して生きてきたし、働いてきたことは疑いようもないことだろう。

 しかし、このよりよい生活が、残念ながらよりよい社会とならなかったことが問題だったのである。なぜなら、これまでよりよい社会を、より便利な生活と捉えて追い求めてきてしまったからである。

 戦後の何もない生活、そして様々な苦労を重ねてきた生活の中で、人々はより便利で、快適な生活を求めるあまり、いつの間にか度を超えた「楽(らく)」を目的としてしまった。

 少し話を戻して、「社会をよくする」いうとなんだか正義感をかざして大げさなことを言っているように思うかもしれないが、何も大げさなことではない。みんなそう思ってこれまでやって来たのだ。ただよくする=(イコール)便利にすることと捉えたのが間違いだったのだ。だからこれからはその間違いを正しい方向に、ベクトルを変えればよいのだ。

 ではその「社会をよくする」のベクトルをどの方向に向ければよいかというと、「人と人がつながる。」あるいは「地球と人がつながる。」というふうに、共感し、共生できるという方向に変えればよいのだ。仏教で言うならば、山川草木国土悉有仏性であり、すべてのものに仏の心が宿っている。あるいは神道でいう万物に神が宿るということだろう。

 ところが企業はこれまで成長ということを、相手に勝つということばかりを考えてきてしまった。もちろん市場に残れなければ企業は存続しない。しかしながらそのベクトルが共生ではなく独占となり、エゴの追求となってきた部分があるのは否めない。

 もちろんそこにはこれまでの経済システムが、利益の追求を目指していかなければ、存続できないというモノになっていたことも原因の一つであるし、それによって一部の連中が、支配力を強めていったこともある。

 本来企業も例えば外食産業であるならば、本当によいもの、美味しいものを提供する。そしてそこにホスピタリティでもってもてなすことが役割だと思う。もちろんその美味しいものとは環境を破壊していないこと、自然の法則に反しないものが含まれる。

 そういう意味でも、これからの企業の目指すべきところは、「循環させる」ことであり、その大前提として「共生」があげられるのではないだろうか。

 「共生」できない企業は淘汰されていくことは間違いない。だからつい最近まで我が物顔でふるまっていた世界的企業は今やある意味戦々恐々としているのが実情だろうし、もしそうでなくても、ある時あっという間に消えてなくなることだろう。

 そしてよりよい社会を追求していくならば、そこには「愛」「感謝」「悦び」に行きつくことは間違いないようだ。企業だってそれがあってもよいはずだ。いや進んでいる企業は既にそこを目指しているはずだ。

 人間ひとりできることなど限られているだろう。まだまだ潰されるのがオチかもしれない。それでもひとりでもそんな人が増えたならば、地球は喜ぶはずだ。


地球が喜ぶことしないとね。 僕らは地球のお世話係なのだから。




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