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2011年10月

2011年10月23日 (日)

10月28日

 コルマン博士によるマヤ暦の終わりの日10月28日(日本時間29日)がやって来る。マヤ暦の終わりは2012年12月21日の冬至の日と言われているが、コルマン博士は検証の結果2011年10月28日として発表している。この日が第1のサイクルから第9のサイクルのすべてが終わるのだと言っている。
 ではこの日に何かが起こるのか?大地震が再び発生するのか?それは分からない。なぜならコルマン博士のいうマヤ暦のサイクルとは意識の変化であるからだ。
 では意識の変化とは何か。それはこの日に右脳と左脳の統合が行われるという。直感・感覚の右脳に対して、論理・計算の左脳。これらが統合されるとのこと。そうするとどうなるのか?それも僕には分からない。
 そしてそのことが一般の人々も感じられるかというと、「感じられないだろう。」と言うしかない。おそらくこのことをその日に感じられるのは感覚のとても砥ぎすまれている一部の人々だけだろう。例えば大自然と共に生きるシャーマンあるいは地球や宇宙と交信できる一部の超能力者たち。そのような人達ではないだろうか。

 では他の人達はどうなのか。僕が思うに10月ん28日にそのことを感じる人は少ないだろうけれど、日がたつにつれそれらを何らかの感覚として感じる人々は徐々に増えていくと思われる。なぜなら10月28日とはおそらくターニングポイントだろうから。そしてゆっくりと拡がりゆく中である一定の期間が来ると、もっとそのことが明らかになっていくのではないだろうか。そして2012年12月には誰もが明らかに世界が変わりゆくことを理解するのではないだろうか。しかしながらそれが右脳と左脳の統合と気付く人は少ないのではないか。

 現在世界は明らかに資本主義の終焉を迎えようとしている。EU、アメリカ合衆国、日本あるいは中国どこから始まってもおかしくない状態にいる。現在各国政府が行っているのは、ひたすらの延命処置だ。自分たちが最初に引き金を引くことにならないようにと、他国の様子を見ながらひたすら心臓マッサージを行っているのだ。どこかの国がが引き金を引けば、その国のせいにできるから、他国はそこでもってマッサージを続けることを止める。病院に家族が来ると同時に心臓マッサージが始まりそして終わるようなものだ。僕たちは一種の茶番劇を見ているのだ。
 
 今日産業まつりなるものに行ってきた。平和に楽しむ人々がほとんどだった。しかしながらそれでいいのだとも思う。ひとつの時代の終わりを感じて、悲観的になる、あるいは絶望していくよりも、この時を楽しむことも大切だ、そんなふうにも思う。
 ゲーリー・ボーネルは光の12日間として想念がそのまま現実となる世界がやって来るとも言っている。思考がそのまま現実となり、それについて行ける人と行けない人のふたつに分かれるともいう。いわゆる5次元世界がやって来るということだろう。

 5次元世界が確実にこの地球の世界にやってきていることは間違いない。いやそもそもあったことに気付き始めた人が増えてきたということが真実だろう。僕たちは現在どんどんその扉を開けようとしているのだ。向こうからやってきているのか、こちらが明けようとしているのか。あるいはすべては筋書き通りなのか。僕たちの今いるこの次元の世界から知ることはできないけれど、新しい世界がやって来ることに違いはない。

 そして僕たちが今できることは、その日のために受け入れることを学ぶこと。受け入れ包み込むのだ。そして新たなその世界に希望を持っていること。これまでのガツガツの世界から、穏やかで平和な世界に変わっていく。そんな日をイメージしながら、現在の僕たちの心にそして体に残っている垢を少しずつ落としていこう。備えあれば憂いなし。サムシンググレートの意思を信じて迎え入れる準備をしておきましょう。そして愛と感謝で生きましょう。思考が現実を創造するのです。



 

2011年10月16日 (日)

禍福一如

 「天から見れば」という映画を見た。これは少年時代に事故で両腕をなくした画家南正文氏のドキュメンタリー映画なのであるが、その中で出てきた言葉だ。
 「禍福一如」~幸せも不幸せも表裏一体、ものごとをどのようにとらえるかで、幸せにも不幸にもなるということだそうだ。
 南正文氏の師匠である大石順教尼も少女時代に養父の狂乱により両腕を切断されてしまった。それでも順教尼は養父をかばい、減刑を乞う。また生きていくため、両親を養うために自ら見世物となった時もあったにもかかわらず、順教尼は「生まれ変わってもまた手のない私でありたい」という。
 
 僕たちは一体何をもって幸せだとか不幸せだと言っているのだろう。

 手を失ったことによる損失、しかもそれが両腕をなくすというということは想像できないぐらい過酷であるはずなのに、手をなくしたことによる幸せもある。もちろん南氏も両腕をなくしてから、人から指をさされるあるいは何もできなくなった自分に絶望し、死を選ぼうとした時もある。しかしながらそれがあったが故に順教尼という師との出逢いがあり、そしてその師から絵を描くことを学び、それをきっかけに人々に感動を与えるようになる。幸せを見つける。もし事故にあわなければ、きっと順教尼に会うこともなく、絵を描くこともなく、ただのサラリーマンだったかもしれない。

 運命って何なのだろうか。けれどもすべては人間の心次第ではないのだろうか。

 というよりもすべては幸せに変えることができるということではないだろうか。そしてそれこそ意識の力ではないだろうか。

 小さな失敗に打ちのめされ不幸に陥り、そこから抜け出せない自分がいる。しかし一方で誰から見ても不運な事故に巻き込まれながら、そこから幸せを生み出す人がいる。

 「天から見れば」というこのタイトル。天から見れば、人間の幸・不幸などあるようでないようなもの。あるいはすべては幸せにすることができる。その力を誰もが持っている。その学びを天から与えられたのかもしれないし、あるいは自分たちで生まれてくる前に決めてきたのかもしれない。
 いずれにしろ何か不思議な力、あるいはもっと大きな力・概念が存在しており、人間にそのことを知らせようとしているのではないかと思う。それが「天からの愛」なのだろうか。

 しかしながらこのような映画が出てくることこそ僕たちが今時代の、地球のいや宇宙の転換期にいるということを象徴しているのかもしれない。さあ如何に希望を持ってこの転換期を迎え、そして超えていくか。

 心を浄化しましょう。そしてよりよい未来をイメージして一歩を踏み出しましょう。そしたらきっと天は喜んで迎え入れてくれる!! キーワードは「愛と感謝」。


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2011年10月12日 (水)

海外旅行からスピリチャル旅行へ

 円高により海外に出掛ける人も増えていることだろう。海外旅行に出かけバカンスを楽しむことはよいことである。日頃のストレスを発散し、リフレッシュしてまた新たな日々に臨む。バカンスの効用の一つである。

 しかしながら見えない世界からすると海外に出るということの目的は、「日本がいかに恵まれているか。」ということを知ることだと思う。そしてそのことを「ありがたい」という気持ち、すなわち感謝の念を持つことである。

 僕は年を追うごとに強くなる思いがある。それは「日本という国は素晴らしい国である。」ということである。いくら政治がダメで日本をリードすることができなくて、日本が落ちぶれていっているとしても、アメリカのポチとなってズルズル泥沼に道連れにされていようとも、日本は素晴らしい国であり、日本人はすごいのである。日本は世界のへそであり、地球の神聖なる領域に位置する国としか思えないのである。当然そこに集まっている人々はすごいのである。

 ところで世界の国々でなぜ貧富の差があるのか、それはもちろん一部の人々の政略によるものでもあるが、僕らはそれによりそれぞれの思いを持つためであると思う。例えばお金持ちの国の日本人がアフリカにある貧困国と呼ばれる国へ行ったとする。そこで日本人はいろいろな衝撃を受けるが、その中から日本の豊かさを知る。日本人が如何に恵まれていることを知る。と同時にその国の人々や生活を見て、何かできないかと思う。またその国の人々の笑顔や優しさを知る。

 あるいは貧困国と呼ばれる国の人が日本へ来たとする。そして日本の豊かさを知る。そしてこの国に住みたいとか、自分の国も何とかしたいという情熱を持つ。時に長くいると日本で失われたもの、そして自国にある良さを知る。

 これらの違いがなぜ生じるかというのは、すべては相対的であり、鏡であるからである。実はそこに映されているのはもうひとりの自分であり、自分自身を見ているのである。

 つまりあなたが目の前にいる人を醜い人と思えば、それはあなた自身の醜さを見ているのであり、目の前の人を美しい人と思えば、それはあなた自身の美しさを見ているのである。

 僕たちは常にそろばんを使って足し算引き算の損得の鑑定をしているのである。そしてそれは実は自分自身を見ているのである。だから自分が自分自身の評価を下しているともいえる。禅の中に「差別の中に平等あり。平等の中に差別あり。」という言葉があるが、まさに千差万別であることこそが世界の平等ともいえる。それは言いかえればひとり1人がこの地球上にそして今世に生きる意味は違っているということでもある。

 日本の四国には四国88ヶ所というお遍路文化がある。お遍路の真の目的は感謝をすることにある。「お参りできたありがたい。」と思えることが誰にも共通するご利益なのである。そしてそのご利益を日常生活に持ち帰り、生きていること、そして日々の生活に感謝をしていくことが真の目的である。

 世界にも巡礼は各地にある。スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラは同じように道のりの決められたものなのだろう。そのほかイスラムのメッカ巡礼、アンデスの山への巡礼、国内に戻り身近なところではお伊勢参り等。どれも共通なものは「お参りできてありがたい。」ということであり、それは日常生活への感謝へとつながっていく。

 すなわちどのような場所、どのような境遇にいようとも心の持ち方次第で人間は変われるということである。それを端的に述べたのがV.E.フランクルではないだろうか。ナチスの収容所という極度の過酷な生活を強いられながらも、心を平和に持ち続けた人がいる。

 幸いな事に現在の日本人は貧富の差は生じながらも、まだまだそのような状況からは程遠い。現在の状況に感謝することができるならば、それは聖なる存在が私たちを新たなる方向に導いてくれるだろう。そのキーワードはやはり私たちの持つ「想い」=「意識」にあると思う。


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2011年10月 9日 (日)

岩戸開き:未来の扉が開き始めました!

想いの実現するまでの時間がどんどん短くなってきていませんか?もしそうでなくともこのところ科学は急速にスピリチャル界へ近づいています。更には私たち自身も宇宙や多次元世界の構造の中に入り始め、これまで隠されていた秘密がどんどん明かされ始めています。このれらのことを考えると、5次元の扉が本格的に開き始めたのではないかと思うのです。
 


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およそ1300年前に弘法大師は唐の国に渡り、密教を恵果和尚から学び、日本へ持ち帰りました。彼はその受け継いだ密教を更に発展させ完成させたわけですが、まさにそこには見えない世界の秘密を展開させていたのです。今科学はいよいよというか、ようやくその密教の(秘密の)世界に踏み込み始めたのです。それと同時に私たち自身もようやくその世界へ入っていく時代がやってきたのです。


このように科学が見えない世界へと踏み込み、スピリチャルとの世界へ近づき始めるという現象を考えると、これは地球が目覚めたのではないかと思うのです。故に今後急速に私たちは大宇宙と融合していくのではないかと思うのです。


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そこで考えたことがあります。この考えはこれまでのものと正反対なのですが、もしかするとこれまで地球は3次元宇宙、太陽系の中における自らの多様性で持って、あるいはその若さゆえに大宇宙の中では、反抗期のような状態、もしくは生意気な態度で宇宙に存在していたのではないかと思うのです。これまで地球自体の想念があまり良いものではなかったが故に、人間自身もエゴが先立つような生き方が先行してしまったのではないかと。しかし地球は目覚め、大宇宙の一員として融合していくことを決めました。そのためこれまでの汚れを落とす必要があります。それが現在の大変動につながっているのではないかと考えたのです。


すなわち現在の混乱状況は地球の禊であり、成長への第一歩であるのです。そして地球の想念に合わせて人間も今後精神的に成長していく(していかなければならない)という、それが通過儀礼ではないかと思うのです。


もしそうならば私たち人間はそのことを受け入れるしかありません。なぜなら私たちは地球に住まわせてもらっているのですから、地球がそう決めたことならば、それに従うしかないからです。ならば私たちは地球の選択と決意を共に喜び、そのお世話をさせてもらう必要があるのです。


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以前私は人間の存在とは、地球にとってがん細胞のようなものであると思っていました。なぜなら人間は、地球の大自然を破壊し、大気も海も汚染し蝕んでいくという存在だからです。そして人口が増えるのはがん細胞の増加あるいは転移そのものだと思っていました。けれども今回地球の変化とともに、今後人間は急速に悪性細胞から良性のがん細胞に変身し、地球のパートナーとして一体化していくのではないでしょうか。


あるいは地球の目覚めと同時に、私たちはこれまでモンシロチョウの幼虫である青虫であったのが蛹となり、蝶へと変わっていくのかもしれません。これまで地球というキャベツは、人間によって、その(大自然という)葉っぱはどんどん喰い荒らされ、地球はキャベツと思えないみるも無残な姿となっていました。(もしかするとそれが地球の目覚めへと導いたのかもしれません。)けれども地球が目覚め、宇宙との融合を決めた現在人間は蝶となる時がやって来たのです。そして今人間はさなぎの段階を迎えようとしているのです。この先蝶へと生まれ変わるには、一度蛹の中で細胞が溶け、ドロドロとなり、その細胞も構造もつくり替えられるという相当の困難があります。今がまさにその時期なのかもしれません。


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青虫のときはキャベツを食べることだけだったものが、蝶となれば花から花へと移っていきます。そして蝶は花の蜜を吸うと同時に、受粉を促す役割を担い、まさに共生の時代を迎えるのです。すなわち人間はこの先地球から他の惑星へと飛び出すことができるようになり、他の惑星との愛を育む役割を担うようになるのです。宇宙のその姿が急速に解明されつつある今人間はこの先そうのような存在となっていくのではないでしょうか。


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いずれにしろ今後人間の意識は急速に進化していくと思います。その過程の中には、あらゆる出来事が待ち受けていると思います。それはもしかすると想像を超えるようなことかもしれません。けれども必要な事は、その先に素晴らしい未来が拓けてくるということです。戦争や争いのない、共生・共発展していくことのできる世界が待っているのです。そのことを立体的にイメージしていくことが必要だと思うのです。






らいふあーと~僕らは地球のお世話係~

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