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2011年9月

2011年9月23日 (金)

感謝ある生活

 かつて10年ほど前お遍路さんとして88ヶ所を歩いた時には毎日が感謝の連続だった。お接待をしてくれた人、道を教えてくれた人、出会う人々に感謝をすることはもちろんのことながら、最終的にはこうやって(88ヶ所を)廻れること、お参りできること自体がありがたいことだと思うようになった。そして僕の結論は「お参りできることに感謝する、あるいは感謝できる」ことこそお遍路の共通のご利益だと思うようになっていた。そして感謝できる生活とは素晴らしいと実感した。

 けれども、お遍路生活から日常生活に戻り、日々の出来事に追われるようになると、毎日がいつの間にかスピード化、効率化、最適化…etcを目指しての生活となってしまった。こうなると誰かあるいは何かに腹を立てる・目くじらを立てることが多くなり、いつの間にか感謝の気持ちを忘れてしまった。

 感謝をすることの大切さは、様々な本で嫌というぐらいに書かれてある。そして僕もそうありたいと家で心を落ち着けているときには、ありがたいと思えて、人々に感謝をしなければ…と思うのだが、いざ一歩外に出て仕事に向かうと、そのようなことはすっかり頭から抜け落ち、心の余裕は無くなり、ある意味戦場と化してできない奴は斬るというスタイルになっていた。それも以前は福祉という職に就いていながら…。利用者に腹を立てることはよほどのことがない限りあり得ないのだが、一緒に働く職員に対してはそうなっていた。

 それでも頭の中では(理論として)感謝の生活の大切さを理解しているつもりで、先日も電話で、僕自身のこれまでの生き方を振り返ってみて、僕のこれからの生活は感謝ができるようになりたいんだ…って話しをした。電話の相手は感謝しながらの生活をしており、すごく羨ましく感じた。

 また数年前に、ある本に「ありがとう」を2万回言うと、涙があふれてきて感謝の気持ちを持つことができたと書かれており、それを試そうと通勤の間中「ありがとう」と言っていたこともある。結局2万回にたどり着かなかったのかどうか分からないが、何も変わらなかった…というのが現実だ。

 こんなことを繰り返し、はや10年。未だに日常の中では「感謝」の心をついつい忘れてしまう。そして夜ひとりで後悔したり、反省したりする。それでも以前よりは「感謝しなくちゃ」と思える時は増えてきたようにも思える。少しは成長しているということだろうか。

 昨日ノートを見ていると橋本保雄氏の「人間関係にも切り札がある」という本の中の文章を書いていた。それは~感性を十二分に発揮するためのキーワードの1つが感謝である。「あなたにお会いできて、このような話をするチャンスに恵まれて本当にありがたい。」そんな気持ちで相手に臨めば、間違いなく感性同士は響きあう。身構えや心のバリアは瞬時にして取り除かれるのだ。絆が芽吹くのである。~とのこと。改めてそうだなっと思った。

 まだまだノートを見ながらでしか、この言葉を書けない。イコール僕自身のものにはなっていないということだろう。それでも毎日が感謝できる生活を目指していきたい。そう思いイメージしていこう。日中忘れることがあっても、思いだしたときに感謝すればいい。強く思えば、それはやがて現実となる。僕たちは「思考が現実を創造する」世界に住んでいるのだから。


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2011年9月19日 (月)

輪廻転生:脳の記憶と魂の記憶の違いを考える

あなたは輪廻転生を信じますか?


そう質問されたならどう答えますか。日本人は昔から言われていることもあり「信じる」と答える人も多いと思います。けれども実際のところは前世占いでの話であったり、おとぎ話と同じようにとらえている人が多いのではないでしょうか?


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実は私もある時この質問されました。その時は迷わず「信じる派です。」と答えたのですが、それではなぜ過去世の記憶がないのか、 過去世の記憶を蘇らすにはどうすればよいのかということに、すぐには答えられませんでした。そこで改めてじっくりと考えてみる機会を設け、私なりの仮説を立ててみました。


私の仮説は「今世の記憶と過去世の記憶を司る場所は違う」ということです。


どういうことかというと、今世の記憶とは脳に蓄積されていくのに対して、過去世の記憶とは魂に保管されているということです。今世の記憶庫である脳と過去世の記憶庫である魂はすべて別となっているのです。


今世この身に起きる出来事は脳に蓄積されていきます。体験すること、学んだこと、それらはすべて脳へと伝達され脳の記憶庫へ入っていきます。いわば九九を覚えるようなものです。もしくはある意味パソコンと同じで01のデジタル回路とデジタル庫(メモリ)と言ってもよいかも知れません。そしてそれらは脳神経回路を使って電気的に引き出すことが可能なのです。そして私たちはその記憶庫に蓄積された経験や学びを頼りに今世を生きているのです。


それに対して前世の記憶とは魂にエッセンスとして保存されており、それはいわば絵のようなカタチで保管されているのです。そして前世の記憶は脳のからの記憶のように思いだして使用するようなものではなく、知らぬ間に(自然に)出てくる、あるいは浮かび上がってくるものではないかと思うのです。

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これもまた私自身の個人的な体験となりますが、私はかつてある人から過去世の自分を引っ張り出してもらったことがあります。その過去世を知った時に思ったのは、(ひとつの)過去世の自分と現在の自分はなんだか同じような事を繰り返していると思えたのです。もちろん多少は進化、あるいは現在に対応したバージョンとなっているようにも思うのですが、ほぼ同じ路線を歩んでいると思えたのです。


何故かというと、過去世の私は僧侶であったのですが、今世の私は仏教の世界に関わりながら、高齢者福祉やまちづくりに携わっています。現世と過去世に共通している思いは、人を助けたいという思いです。かつての仏教は人を救うことや生き方を伝えるという要素が大きかったと思うのですが、現在ではほぼ葬式仏教となってしまい、そこには人を救うという要素が失せてしまっています。(もちろん少ないながら人を救おうとしている寺もあります。)。それならば現在は福祉の方がその要素が大きく、それ故に福祉のを選択したのだと思うのです。


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話を元に戻しましょう。魂の目的とは過去世も今世も常にワンネスに戻ろうとするものだと思います。ワンネスとはより大きな魂であり、魂の集合体と言ってもよいかもしれません。サムシンググレートともいわれます。そこに戻っていくことが魂の最終目的地だと思うのです。しかしながらそこに到達するには、私たちの魂ではまだまだレベルが及ばず、そのためにはいろいろな学び必要であり、また様々な課題をこなしていかなければならないのです。そのため私たちは今世ですべきこと、今世の課題があるのです。


ワンネスの方向に導くために過去世の記憶は魂に保存され、そして私たちの行動特性として自然に(気付かずに)現れているのだと思うのです。そして今世の記憶は知らず知らずのうちにそれに導かれ、学びや経験を積み重ねることによって、今世を生きる方法を得ながら、そこに向かっていくのではないかと思うのです。


しかしながら今世の記憶は、今世この時を生きようとするものです。ある意味今世の快楽に向かってしまいます。そのため過去世の記憶に反することが出てくることも多々あります。その時にはおそらく自分の中に不快感等や違和感が生じてくるのではないかと思うのです。そしてその不快感のまま行っても、おそらくうまくいかないのです。だから本当に必要な事は現在考えていることと魂(の方向性)との一致であると思うのです。


もちろん今世の記憶も魂にどんどんと刻まれていきます。それを図にすると次のようになるでしょう。

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脳に記録されていく今世の出来事、そして魂の中に保存されている過去世の記憶。それらの記憶の保管場所は違っています。そして今世の記憶は脳から魂の記憶保管場所へ直接行きますが、過去世の記憶は脳へとは直接行くことはありません。心の中にうっすらと浮かんでくるものです。だから過去世の記憶を脳が思いだすことはありません。


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しかしながら時に過去世の記憶を覚えている、あるいは思いだす人もいます。その人たちはおそらく心に浮かんできた絵を言語へと変換しているのではないでしょうか。あるいはもしかすると私たちの遺伝子かどこかにそのようなスイッチや回路があるのかもしれません。(松果体?)



輪廻転生と過去世の記憶。あなたは過去世の記憶を思い出したいと思いますか? けれどももしだれもが過去世の記憶を(はっきりと)持って生まれてきたら大変だとも思うのです。ふと目の前を通った人が、かつての私を殺した人だったら。あるいは目の前に現れた男性〈女性〉が、かつては「今度生まれ変わったときも一緒になろう。」と誓いあった最愛の女性〈男性〉だったとしたら


ともかく(過去世の自分を思いながらも)現世を素直に一生懸命生きたいものです。





らいふあーと~僕らは地球のお世話係~

2011年9月16日 (金)

平面思考から5次元思考へ!

現代社会は行き詰っています。金融恐慌不安、失業、社会保障の問題等どこを見ても閉塞感ばかりが漂っています。これでは悲しいかな毎年3万人以上の人々が自殺するのも仕方がないことなのかもしれません


そこで何故こんなにも閉塞感が漂うのか考えてみました。私なりに導きだした答えは、現在の世界の行き詰まりつまりは3次元の行き詰まりではないだろうかということです。そしてなぜこの3次元世界が行き詰ってしまったのかを考えてみると、それは僕たちは実は3次元の問題を2次元として考える、あるいは捉えよう(解決しよう)としているばかりだからからではないかと思うのです。


どういうことかというと、問題が起こった場合、あるいは起こりそうと想定した場合に、私たちはその解決方法を考えるのですが、ついつい平面にしようとしてしまうのです。つまり文章としてしまうのです。私たちは問題を防いだり、解決するために法律や条例を作ります。あるいは契約書や誓約書を作成します。これは実は3次元の問題を2次元に落として解決しようとしているのではないかと思うのです。


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もちろん私は法律を作ったりはしません。一般の人もつくらないでしょう。世の中のキャリアと呼ばれる人たちが法律を作りだしています。けれども私たちレベルでも契約書を作ることはあります。それらは大変な作業に思われます。しかしながら3次元の問題を2次元で表現すること自体は苦労を強いるところですが、実は次元を落とすことは楽な事ではないかと思うのです。


例えば私が家を建てようとすると、その家を絵に描くことはすぐできます。(もちろん多少の絵の才能は必要ですが…。)けれどもそれを3次元の立体にしようとすると、例えミニチュアでも絵に描く倍以上の時間と労力が必要となります。


だから3次元の問題を2次元に落とすことは実は楽なことだと思うのです。けれども2次元は平面世界であり、3次元は立体世界であるから、上下(高さ・奥行き)がなくなってしまいます。(あるように見せることはできます。)だから3次元にとっては不自由になります。あるいは上下(高さ・奥行き)のない分が制約が付きまといます。


先ほど書いたように、現代社会は書類であふれています。何をするにも署名が必要となります。契約書にはぎっしりとあれはダメ、これはダメ書かれています。それらがすべて3次元に戻って来るのです。つまりは2次元世界でもって3次元を取り締まろうとするのであるから、これはもう例えるならば私たちは高さ1メートルの部屋に入れられて、そこで生活しろと言われているみたいなものではないでしょうか。


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それではこの社会の行き詰まりから抜け出すにはどうすればよいのでしょうか。それは2次元で考えるのではなく、次元を上げて5次元で考えることだと思うのです。


ここでひとつ断わっておくと、今回の定義として、考えることそれ自体は4次元の行為としてとらえています。その考えをまとめ、文章にするということが2次元世界です。ただしもちろんのことながらその逆の2次元の文章を4次元あるいは5次元にふくらますことも可能です。


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次元世界とはイメージの世界であり、想念の世界です。もちろん私はその世界に行ったことはないので、あくまでもイメージでしか述べられないのですが、そこは時間の観念を超えた世界であり、行きたい所に瞬間で行けるし、あるいは思った世界がそのまま即座に現れる世界です。


では問題を5次元で考えるとはどういうことかというと、その解決方法をイメージとして描くということです。解決された世界はどのような世界かをひたすら頭の中で描くのです。そしてそれをひたすら思うと同時に、フィードバックしてくるのです。


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次元から2次元に下ろすことは、私たちが生きている立体の世界から平面とするだけなので、即座にできます。しかしながら5次元世界をこの3次元にするには、残念ながら時間がかかります。なぜならこの3次元世界は物質世界であるから、想念の世界を物質レベルまでに下げるのは時間がかかるのです。というよりも残念ながら現在の人間の能力がそこまで行けていないのです。おそらく5次元世界の存在が3次元にすることはすごく容易な事なのでしょうが、3次元世界にすむものが、より高次元のものをこの次元に下ろすことは現状では難しいと言わざるを得ません。


けれども現在量子物理学の世界が発展するにつけ、人間は5次元世界の入り口を見つけたと言えます。量子物理学の世界とは「思考が現実を創造する」世界です。つまりは私たちがイメージをしたことが現実となるということです。すなわち私たちは問題解決のために、その問題が解決された世界をイメージすることによって、その世界が現実となって現れるということです。これが5次元思考なのです。


アインシュタインの相対性理論はその誤りが指摘され始めています。けれどもアインシュタインが残した言葉「問題解決をするためには、その問題の次元を超えなければならない」ということは正しかったのです。


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私たちはこの閉塞社会を打破するために、5次元の思考を身につけなければならないのです。2次元に落として問題を解決しようとすることはパンク寸前です。これはきっと闇の勢力の縛り方に違いありません。だからそこから抜け出す必要があるのです。


繰り返しますが、量子物理学の発達により、私たちは5次元世界への扉を見つけたのです。スピリチャルな世界ではアセンションするということは地球が5次元世界に移っていくことであるともいいます。そのために私たちもその扉を開けていく努力が必要です。2次元の平面世界に落とすことをやめて5次元世界、想念世界でもって、現代社会の問題を解決するイメージし、それを降ろしてくる、つまりは物質化、実現させることを考えて行きましょう。






らいふあーと~僕らは地球のお世話係~

2011年9月12日 (月)

増税にモノ申す。

 「増税」「増税」…。近頃ニュースは増税だらけ。震災復興のためには増税だ。今の日本の国債残高は異常だ。だから増税。来る日も、来る日も「増税」。隙をついては増税されているという…。
 
 しかしながら、今回の震災の復興でお金が必要な事も分かる。そして現在の日本の国債残高が異常であることもその通り。返せるわけがない金額だ。だから増税が必要であるということは正しい。

 けれどもなぜ法人税は減税の方向にあるのかが分からない。企業にも増税するのが筋ではないかと思うのだが…。東日本復興には必要だろ。

 さて僕が納得できる増税とは、タバコが1箱700円になってもかまわない。ペットボトルのジュースが160円になってもかまわない。その増税分を環境に使って欲しいのだ。

 街を歩いて一番多く落ちているのはタバコの吸い殻。海辺を自転車で走っていて目に付くのが、空き缶やペットボトルがそのまま放置されていること。最近これらがやたらに目に付くのだ。せっかくの街、風景が大なしではないか。

 そこで増税した分を市民の町や海辺、あるいは山間部のクリーン作戦の費用として使ってほしいのだ。些細なものだとそれらを入れるごみ袋代。あるいはそのクリーン作戦を実施する団体に規模や回数に応じて補助金をだすとか。そうして日本をきれいにするためのお金にあてて欲しいのだ。

 今「ビジット ジャパン」と題して日本へやって来るが外国人観光客を増やそうとしているのならば、どうせなら「美しき日本」として日本の国土も日本人もそうありたい。そして美しき国と国民を見て感動して帰ってもらいたいと思う。

 元来日本は自然豊かな国で、これは今も季節の移り変わりと自然の移り変わりは多大な価値があり、今でもその美しさを観光客は見て感動する。しかしながらかつて江戸末期に日本へやってきた外国人はその日本人の美しさ~人なつっこさ、礼儀正しさ、教養の高さ~それらに大いに驚かされ、感動していたのだ。それを取り戻したいのだ。

 だからまずみんなで日本を美しくするために、ごみのない国にしたいのだ。それにはクリーン作戦も含むし、循環型の生活も含む。それらの推進を行ってほしいのだ。原発ももちろんいらない。クリーンエネルギーの推進。あるいはフリーエネルギーの開発…。

 それらをするためには、まずは国民一人一人が意識を変えていかなければならない。そのためにみんなでゴミ拾い。ビーチクリーン。山間部への不法投棄されたごみの処理。そこから始めるべきだ。それを国民みんなですれば日本人も変わる。再び美しき日本人となれる。せっかく大震災の日本人の姿を見て世界中が感動したのだから、震災の時だけでなく、普段の日本人の姿も美しくありたい。そのための費用として増税するのなら僕は納得する。

 けれども、省エネ家電の購入促進、エコポイント、女性の起業促進そんなものに使うならば、反対だ。結局はこれまでと変わりないから。

 311から日本は新しい時代へ向けてかじ取りをしないといけない。それはこれまでのモノの消費に代表されるエゴの時代とは正反対のものだ。如何に地球と共生・共発展していくか。それが新し時代の指針である。そのために僕たちはこれから様々な問題に対してひとつひとつ解決していかなければならないのだ。

 だから増税、増税という前に何のために増税するのか。どのように使うのか、これまでの延長ではなく、もっと議論してほしい。そして新しい日本のビジョンを国民に提示してほしい。



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2011年9月 4日 (日)

性善説

 最近行政とかかわっているのですが、その中をウォッチングしていると、何とまあ書類の多いこと、多いこと。びっくりするぐらいに多いです。ひとつの会議を行うのに、“ひぇ~”というほど分厚い資料が用意されます。読むのも大変。いや目を通すのも大変。だから作るのはもっともっと大変なのだろうと思う。

 行政とかかわったことのある人や企業と話してみると、何かをするにも書類が多すぎると誰もが口をそろえて言います。普通の企業なら紙1枚で済むところが、行政となると10枚に…。それゆえ公務員の机は上も下も、もちろん机の中も書類が詰まったファイルでいっぱいです。地震が来たらきっと書類で生き埋めになってしまいます。

 ではなぜこんなに書類がいっぱいなのか?それは役所という県民、市民の税金を使って行われている仕事だから、完璧を期さなければならないから。確かにそれもあります。近頃は県民・市民の眼もどんどん厳しくなっているから、間違いは許されない…って言うか、マスメディアにこてんこてんに叩かれてしまうから。「国民・県民・市民の税金をなんだと思っているんだ!」と。そんなことがあると、無茶はできなくなります。だから公務員は書類の一字一句間違えないように、細心の注意を払っているのです。それもまたひとつ。

 しかしながらもっと根本的な事に気付きました。なぜ行政はこんなに書類が多いのか。そして行政の仕事とは何なのかということを!!

 ズバリ!行政の仕事とは「性悪説」に基づいているのです。

 性悪説とは儒家の荀子の唱えたもので、「人間の本性は、すなわち生まれつきの性質は悪であって、その善というのは偽すなわち後天的な作為の矯正によるものである。」ということで、要するに人間の本性は「悪」ゆえに、ねたみや嫉妬もあれば、欲もある。そのままでは争いやら奪いあいとなってしまう。だから勉強が必要であり、先生の教える規範の感化や礼儀に導かれて、はじめてお互いが譲り合うようになり、礼儀の形式や道理にもかなうようになり、世の中が平和となるのである、ということです。

 一方性善説とは孟子が唱えたもので、「人間は誰でも、他人の悲しみを見過ごすことのできない同情心を持っている。なぜなら子供が井戸に落ちかけているのを見かけたら、人は誰でも危ない、助けたいと思い、いたたまれない感情となる。」。すなわち人間の生まれながらの性質は「善」にある。というものです。

 さて日本は法治国家であり、文字通り法を持って国を治めるということです。これは簡単に言うなれば、法を犯した者は罰するということであり、根本には法を犯すものがいる。「人間は悪いことをする者がいる。だから法を作って、その法を犯すことをした者には罰を与える。だから悪いことをしてはいけないのだぞ。」というある意味脅しです。つまり性悪説なのです。

 世の中を見てみると、10人の人がいれば7人は善人もしくは悪いことはしない人、約束事は守る人です。残り3人のうち2人は悪いことをするつもりはないのだが、ついついサボってあるいは忘れん坊で、約束を破ってしまうという人で、1人は約束なんて知らない。俺の好きなようにする、という人です。

 要するに10人のうち7人の大多数は約束を守る人達であり、何の問題も起こさないのだけれども、3人は約束を守れない人。他の人達に迷惑をかけてしまう人。けれども罰を与えるぞと脅せば、そのうち2人は約束を守るかなという人。この3人のために「おしおき」の罰ができるのす。すなわちこの3人のために法律ができるのです。
 
 さてさて世の中を見てみると、身近なところでも今や契約書や同意書だらけです。何をなすにも契約書や同意書。その中を見てみると、あれはいけない。これはいけない。ダメ、ダメ、ダメのオンパレードです。そういう自分もかつて有料老人ホームで、契約書と一緒に同意書やら確認書を次から次へと作成し、家族に一筆下さいと言って、署名と印鑑をもらっていましたが…。
 現代はあらゆるものに関して法律やら条例が制定されており、それに基づいてその契約書は作成されています。はっきり言ってしまえばいざというときの責任を逃れるためなのですが…。

 ところで行政とはその法律を司るのが仕事と言っても過言ではありません。だから毎日契約書が違反をしていないか、その定款や運営規定が法に反していないか、一文一文、一言一言チェックして、漢字の間違いさえも赤ペン指導してくれます。ある意味丁寧と言えば、ものすごく丁寧です。でも一般の人から見ると「細かすぎる!」となってしまうのですが…。

 そこであるとき僕は思ったのです。公務員がこうやって細かに細かにチェックしているのは10人中3人の約束を破る人のためだと。もしも世の中がみんな信頼しあえる者同士ならば、このような事をする必要がないのではないかと…。チェックする側もそうだけど、その書類を作成する側も、この3人のために相当の時間と労力を費やしているのだと…。つまり性悪説に基づいて3人のために、朝から夜遅くまで働いているのだと…。一体この労力はどのくらいのエネルギーを消費しているのだろうかと。

 現在世界はほとんどすべて性悪説に基づき、展開されています。悪いものは懲らしめろと大国(?)は、攻撃しています。そして人を殺すことも正当化されます。テレビで殺したことを喜びあうシーンが正当化され、流されています。
 けれどももしこれが性善説に基づいて運営されていたらどうだろうと思ったのです。これがもし性善説に基づき、どんな人にも良心があるということを根底に展開されたらどうなるのでしょうか。

 話が少し大きくなりすぎました。公務員の世界に戻り、日本があるいは行政が性善説に基づいて仕事をしていくならば、こんなに契約書やら仕様書やら分厚い書類いくつも作り、そしてそれらを一字一句チェックしていく必要などなくなるのではないかと思うのです。

 もちろん10人の内3人は同じく約束を破ろうとするかもしれない。けれども性善説は良心があると信じること、すなわち相手を包み込もうとする発想なので、まずはそのうち2人は約束を守るのではないかと思うのです。そして最後の1人もいつかは…。

 「日月神示」には、悪を抱き参らせる、イシヤと手を組め、残る一厘は悪の中に隠してある、本来善も悪もなし等書かれています。このことから考えると、やはり性善説でもって、包み込んでいくという発想がいいように思えます。

 そうすれば公務員は毎日書類との格闘がなくなり、もっと書類ではなくもっと人に目が向くように思うのです。そして椅子に座ってばかりいるのではなく、人のために動くようになると思うのです。映画「県庁の星」で主人公が福祉のために自転車で走りだすか、あるいは「生きる」で公園造りに駆け回るようになる日が来るのではないかと思うのです。そんなふうになればこの社会はずっと良くなるように思うのです。

 新しい時代はそれぞれの持っている能力を提供しあう時代です。おすそわけの時代です。それは性善説に基づく時代です。そんな時代がやって来ると信じてみる。それもまたもいとをかしです。
 


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