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2011年7月

2011年7月20日 (水)

知恵

 人間(ホモサピエンス)とは知恵ある存在です。この知恵こそが地球上で人間を他の生物と違ってここまで発展してきた理由であることは間違いないと思います。しかしながらこの「知恵」について考えてみると、いい方にも悪い方にも使うことができます。基本的にはこの知恵とはよい言葉として使われることが多いと思います。特に「智慧」となると、仏教などで物事を正しく判断する、あるいは真理を見極めるという意味でつかわれ、仏様から見た心ともいわれます。

 よく「知恵を使う」とか「智慧を貸す」と言われますが、これなどは両方の意味で使うことが可能だと思います。また「悪知恵を働かせたら、奴に敵う者はおらんわ。」などということもあり、この「知恵」とは使う人の心次第ということが言えると思います。実際辞書では、知恵とは「物事を考え、判断する心の働き」とあります。

 さてこれまで人間はこの知恵を、一般的には「成功を得る」という意味で使ってきたのではないでしょうか?それは名声を得る、富(金銭)を得る、あるいは権力を得るなどというように、どちらかと言えば自分の欲のためにこの「知恵」を使ってきたのだと思います。そして社会もそうあることを認めてきたのだと思います。よく親が子供に対して「偉くなれ」という言葉には、これらのことを多々含んできたと思います。

 さて先ほど知恵とは「物事を考え、判断する心の働き」と書きましたが、その知恵をどの方向に働かすかという基準がどこにあるかというと、これまでは「我が成功」=「自利」ということにあったと思います。

 けれどもこの知恵を働かす基準がここ数年で大きく変わったのではないかと思うのです。すなわち「自利」の基準から「利他」への基準へと変わったのではないかと思うのです。そしてそのことを象徴するのが今回の福島原発事故ではないかと思うのです。

 福島原発事故はまだまだ予断は許されない状況ですが、何とか最悪の状況は逃れました。それは日本中の人だけでなく、世界中の人々が津波そして原子炉の(水素)爆発を見て震えあがりもしましたが、何とかしたいと思い、祈りを捧げたから、すなわち利他の行動に出たからだと思うのです。

 世界中の人々の祈りにより、今のところ最悪の事態は免れているわけですが、それでもそれは今後人々がどのような行動をとるかということにかかっているのではないかと思うのです。

 それは一歩進めて、知恵をどのように働かせていくか~収まりつつあり、時間もたっていくことにより元の世界にもどっていくのか、それとも今回の事故を教訓に人々が判断基準を変えていくのか~がいま問われていることではないかと思います。

 今回の事故で日本中に節電が訴えられ、現在国民は節電を心がけています。このことはこれまでのライフスタイルの見直しにつながっていると思います。如何にこれまで私たちは、電気を当たり前に、そして無駄に使っていたか、そのことを改めて知ることになると思います。

 そして放射能は、私たちに安心・安全とは何かを改めて考えさせています。食べ物については日本中について広がっていますし、そして東北、関東では生活空間の安全が問われています。それは特に子供たちへの安全が叫ばれており、このことを進めていくと「子供への愛」であり、「未来への安心」だと思います。現在の豊かさ(?)を維持するために原発を使い続け、10万年後の未来までつけを残していくのか。

 そして食べ物といい、生活空間といい、どちらにも言えることは「持続可能性」が問われているということではないかと思います。それは「持続可能性」に対する知恵をどのように働かせていくかということではないかと思います。このまま「自利」を求めて生きるのか、それとも「未来」の可能性を広げていくために、「利他」あるいは「共生」を基礎として生きていくのかが問われているのではないかと思います。

 現在読んでいる本に「幸せの芽がどんどん育つ魔法のガーデニング」ウィリアム・レーネン著(徳間書店)があるのですが、その本の中にミレニアムまで続いた魚座の時代から水瓶座に変わった書いてあります。魚座の時代とは、親を喜ばせたい、人より優越感を抱きたい、社会に受け入れられたいという個人的なエゴが成功へ駆り立てるエネルギーと力になった時代だったそうです。

 そして新しく入った水瓶座とは平等、バランスの時代であり、それは喜び、幸せ、満足をサポートするエネルギーであり、分かち合うことが必要と書いてあります。このことも新しい時代への変化への対応としての参考となるのではないかと思います。



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2011年7月16日 (土)

生きてることを楽しみましょう。

 基本的に毎晩瞑想をしている。夜10時ごろから瞑想をすることが多いのだが、瞑想をしていると頭の中がスッとして、とても気持ち良くなる。。ところがここのところずっと邪念にかられ、瞑想をしていても、いろいろあれこれ考え事をしてしまっていたのだが、ダメな瞑想だったのだけど、先日久々に割と気持のよい瞑想をすることができた。

 その日はいつものように座っていたのだが、何かの拍子に雑念から抜け出し、あの気持ちよさが頭の中、心の中、そして体全体を包み込んでいった。その時ふと湧いてきた言葉があった。それは「生きていることを楽しみなさい。」ということ。

 「そうか。人生楽しまなくては!」と、そこから気持のよい状態のまま、いろいろと考え始めてしまった。(この時点で本来なら瞑想は終了なのだが…)。けれども、その日はそのまま僕の思考回路をずっと奥深くへと探っていった。というのもこの「人生を楽しみなさい。」という言葉は以前にも出てきたことがあり、その時も「そうだ。」と思ったことを覚えているから。

 以前「人生を楽しみなさい。」という言葉が浮かんできて、それ以来僕は自分の好きな事をなるべくするようにしている。そしてよい情報があれば、なるべくみんなにもその情報は流すようにして、楽しみを共有するようにしている。そしたらそれからは情報を共有した人から、また新たな情報が入って来て、それからというもの、共有し合えるというよい循環が生まれている。

 けれども、ここのところ少し仕事で行き詰まっており、不自由さを感じていた。そしてまた人間関係でもいくつかぎくしゃくしているところもあった。そんなわけで、最近の瞑想は考えこんでしまうこと、あるいは自分の勝手な欲望を考えることが多かったのだが、先日の久々の気持ちのよい瞑想時間の中で、「生きてることを楽しみなさい。」という言葉は、また新たに僕に方向性を与えてくれるものとなった。

 それは生きてるといいことばかりでなくて、いやな事も必ず起こる。いいことばかりしかないってことはあり得ない。だから、いやな事も含めて生きてることを楽しみなさいということ。更には嫌な事にも必ずいい面も含まれている。あるいは嫌な事も乗り越えるとそこにはいいことが待っている。だから嫌な事も(喜んで)受け入れなさいということ。要は考え方次第ということ。

 そう考えると心が少しばかり軽くなった。もちろんそれが必ずしもできるとは限らないけれど、でもおそらくそう思えることは僕の心がひとつ成長しているのだと思う。

 以前の僕は、いやな事は受け入れることができず、そのためますます悪い方向に考えてしまい、挙句の果てには鬱的症状にまでなってしまうということがしばしばあった。けれども最近は悩みはするもののうまくかわしたり、あるいは考え方の修正を行うことができている。
 
 この先少しずついろいろな事を受け入れることができればよいと思う。時には僕の意に反することも起きてくるだろう。けれどもそれらをうまく包み込んで、なんとなくでも僕の意に沿うように僕自身の中で修正し、楽しい気持ちでいることができればよいと思う。

 そんな時に友達から電話がかかってきた。「明日霊的能力を持っている人にあうけど、何か訊いてみたいことある?」とのことで、「仕事のことで、どうすればうまくやっていけるのか」というのを訊いてみてもらった。すると、「あなたは今回の件に関しては風穴をあける役割であり、そのことに関して正すのはあなたの後輩たちの役割となります。焦らずコツコツと進めて、一人ずつでいいから耳を傾けてくれる仲間を増やしていきなさい。」とのこと。

 そうか僕は風穴をあける役割なのか?基盤強化活動だな。それもまたいいか。仲間になれそうな人に出会った時には、僕から話しかけていこう。そしていつの日か後輩たちが変えてくれるのを夢見て、コツコツ進めながら、楽しんでいよう。

 このところ複雑に考えてしまうばかりで、さわやかな気持が失われていた。お陰で会いたい人にも会えなくなっている。だからまた再びさわやかさを取り戻そう。楽しみながら生きていこう。人生はホントはもっと単純なはず。そうすべてはきっとうまくいくから!! 感謝しながら生きていこう。
 

2011年7月13日 (水)

世界経済からみて

 朝倉慶著「2102年日本経済は大崩壊する」(幻冬舎)、副島隆彦著「大災害から復活する日本」(徳間書店)の2冊の経済本を読んだ。2人とも定期的に日本及び世界の経済情勢を分析した本を出版しており、毎回購入して読んでいる。

 一応僕も経済学部卒業(?)ということもあり、日本経済、世界経済がどうなっていくのかということはこの先どうなっていくのかということは興味があるのだが、かといって別に株をやっているとか、投資信託をやっているということはない。3年前に以前働いていた職場で稼いだ分を「余剰金だ!」とつぎ込んだことはあったが、リーマンショックで大損し、それ以来一切手をつけていないし、興味もない。自分で汗水流して稼いだお金だけで十分だと思っている。それにお金がなくても楽しんでいく方法は身につけているつもりだ。

 ではなぜ興味を持つかというと、今後の世界経済の展開が非常に面白いからだ。面白いという言葉は適切ではないかもしれない。けれども、この秋以降の経済情勢、そしてスピリチャル予測などを合わせていくと、非常にワクワクするし、さてどうするかと身構える気持も起こるというのが本音だ。

 今回朝倉氏の意見と副島氏の意見は違っているところが見受けられる。これまでは2人とも同じような意見で、それぞれが補足しあっているように思えたのだが、今回は朝倉氏は日本経済の債券(国債)市場は危機的状況にあり、早ければこの秋から崩壊し始めるという意見に対して、副島氏は2012年は日本の復興元年となり、景気回復した後にハイパーインフレーションが襲うとなっている。但し両者ともに共通なのはアメリカ(のドル)が間もなく崩壊することは一致しているということ。そして間もなく資本主義が終わりを迎えることは以前から船井幸雄氏も指摘されている。

 もう間もなく世界経済に大混乱が生じていることは誰の目から見ても分かるようになるのだと思うのだが、現在は各国がお金を刷りまくり、ばらまいていることで、何とか平静を装っている。しかしながらその影響は徐々に出始め、資源・食料の高騰に結びついている。それ故に危機感を持っている人々は今や貨幣から金(ゴールド)へと交換している。
 
 そのことはスピリチャル世界も時を同じくしている。スピリチャル世界も間もなく一大転機を迎えようとしており、今はその予兆として、スピリチャルブームとなり、書籍でも発刊ラッシュが続いている。けれども僕はこの時こそが、人間が意識を変えるチャンスであり、世界を変えるチャンスだと思っている。

 これまで世界中の人々が、経済という化け物に翻弄されて、自分を見失い、お金というものに取りつかれ、欲望の追及・鬼畜化していた。もちろん経済そのものは人類の発達にも必要であったし、そのおかげで僕たちは現在の豊かさを享受している。そしてお金も物事を合理的に促進するということにおいて必要であり、もしなければ未だにブツブツ交換の世界、あるいは重たい金(ゴールド)での受け渡しだったかもしれない。
 
 けれどもいつごろからか人類はそのボーダーラインを超えてしまい、デッドゾーンに突入してしまった。
 だって今では株式市場では1000分の1秒を争うコンピューター取引により、金儲けがなされ、現金30万円で1000万円分の先物取引されるという幻の世界で現実の世界はひっかきまわされている。それを含め世界中で6京円という想像もつかない額のお金がデリバティブという仮想空間で動き、世界を混乱に落とそうとしている。 
 
 そして日本(人)の救済よりもアメリカのいいなりとなり、己の懐を肥やすことだけを考えている同じ(?)日本人がいる。ウィキリークスにより(世界の)権力者達の欲望が明らかにされ、国民(市民)に対する裏切りが次々と表沙汰になっている。

 更には現在世界中が資源の争奪戦を繰り広げ、駆け引きし、時には勝手な口実を作り、その地域に争いを起こさせている。どの国も自国の利益だけを考え、そしてそこには必ず権力者たちの欲望も含まれている。原子力なんてその最たるものだ。

 けれども今それらにほころびが見え始め、ほころびから大きな亀裂、更には崩落へと向かおうとしている。人々はこれまでの嘘に対して気付き始め、新たな方向性を模索し始めている。そしてそれを援助するかのように、量子物理学の世界が、科学とスピリチャルを結びつけはじめた。もちろん量子物理学だけでなく、物理学の世界そのものが多次元世界に気がつき始め、人間の想像もつかないサムシング・グレートの力を感じ始めた。

 隠されていた真実は何も悪いものばかりではない。人類は過去の記憶を取り戻し始め、かつて存在したムー、レムリアの文明が再び姿を現そうとしており、また宇宙とのつながりをも思い出し始めている。そこには現在の人類にはない(失ってしまった)能力があるはずだ。そしてこの時期地球や宇宙さえもが大きく動こうとしており、その秘密が明らかになりつつある。

 これらを含めて考えると、まさにこれからが人類が大きく変化するチャンスだと思う。人類がこのまま人間だけの欲望に溺れ続けるならば、そこには滅亡しかないだろう。けれども人間がもっと身の回りのこと、自然のこと、そして地球のことを考え始め、人類が地球の恵みによって生かされていることを再認識し謙虚になるとき、そして、そのつながりは地球から宇宙へと思いを巡らし始めたとき、人間の意識は変わる。

 今回の福島の原発事故はそのきっかけだった。世界の人々が祈り始めた。そして祈りの力を知った。この先さらに意識の変化を促す出来事が起こってくることによって、更に人類は変わっていくだろう。サムシング・グレートの力を知り、その力を讃え始め、進化していく道を選ぶに違いない。


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2011年7月10日 (日)

自転車

 もう1ヶ月半以上前のこととなるが、自転車ツーキニスト疋田さんの講演会に行った。その時、日本の自転車のマナーの悪さや自転車について考えられていない道路事情、例えば左側通行を守らない、事故を招きかねない自転車道などについての話を聞いた。

 僕は職場まで自転車で約15~20分かけて通勤しているのだが、改めて自転車の乗り方を振り返ると、何とマナーの悪いことか!と我ながら思ってしまった。例えば左側通行は心がけているのだが、ついつい右側を走っていたり、無謀な運転もしている。幸いな事に事故を起こすまでには至っていないが、いつ事故にあってもおかしくないかもしれない。

 それは僕だけに限ったことではない。周りを見てみると、はっきり言って僕よりももっとひどい。右側の車道を平気で走っている人もいれば、2列3列横並びで走って来てよけない高校生、事故が起こらない方が不思議だと思える状態だ。

 けれども自転車ルールをきっちり守って走ると不便なことも確かだ。例えば交差点を右折しようとしたら、2段階右折しなければならなくなるから、せっかくの自転車の小回りが利き、朝の交通ラッシュ時の自転車の便利さが失われてしまう。自転車レーンが設けられていないため、車道を走ることは危険など、自転車に対して何も考えられていないことも確かだ。

 外国人が日本にやって来て驚くことのひとつは自転車のマナーの悪さだそうだ。「日本人は交通のマナーを守り、秩序正しい人々なのに、自転車だけはめちゃくちゃだ。」と驚くらしい。しかしながらかつて日本も自転車を規則正しく乗っていた時期もあるらしい。それが崩れ始めたのが、70年代の道路交通法の改正で、自転車が歩道を走って構わないとなった時かららしい。

 ヨーロッパにおいては小学校1,2年生ぐらいまでは安全のために歩道を走ってもよいそうだが、それ以上になると車道を走るよう指導されるそうだ。ところが日本では現役バリバリ世代が歩道をかっ飛んでいる。

 もちろん車道を走ろうとすると、車は間近を追い抜いていくし、なんとなく白線の内側を走らなければという気になり、そうすると余計に危険なことも多い。

 震災以降、都心部でも自転車通勤者も増えている。おそらく中規模都市でも増えていると思う。近所の人もかつては車で通勤していた人が、雨の日以外は自転車で通うようになっている。

 この時期こそ自転車のための道路事情を見直すチャンスであると思う。今後ガソリンの値段は上がり続けるだろう。そうするとますます自転車は見直されてくるだろう。その時に自転車のための道路事情が改善されていれば、交通事故も防げ、更には人々も健康的生活を送れるようにもなる。

 ヨーロッパの環境都市の話を聴く機会が増えている。都市中心部は日中は車の進入を禁止している話を聞くと羨ましくなる。安心・安全な都市を考える上で、マナーも含めて自転車に関する諸事情を改善していくことは必要であると思う。

 穏やかさと美しさを持ち合わせている四国がまず自転車モデル王国となり、日本を引っ張って行けたらと思う。美しき瀬戸内海を見ながらゆっくり走る。山の上のお城を目指して自転車で走っていく。これ以上の贅沢はないかもしれない。

2011年7月 5日 (火)

森のてらこや

 先日森のてらこやという、子供たち(3歳以上小学6年以下)とその親が自然の中で思いっきり遊ぶというプログラムに参加してきた。この森のてらこやは「森のようちえん」という、ヨーロッパで子供たちを森の中で自然体験を通じて教育していこうとするものの愛媛(今治)版で、この日は約10名の親子が参加した。

 僕は3月にもボランティア参加したのだが、その時は始まるや否や、子供たちは山の中へと一直線に駆け登り始め、なんてパワフルな子供たちなんだ、今もこんな元気な子供たちがいるのだと驚きもしたが、うれしくもあった。けれども、今回は梅雨真っただ中の季節で、野原も山も草が茫々状態で、マムシもいるかもしれないということで、さすがにそちらの方には行かずに、田んぼ周りの生き物探しがメインとなった。

 田んぼとその傍の用水路(沢?)には、カエルにオタマジャクシ、アメンボ、イモリそして沢ガニと様々な生き物がおり、子供たちはそれらを捕まえて、虫カゴや水槽の中に入れていく。一番人気は沢ガニだ。けれども沢ガニはそんなに簡単には見つからない。だから見つかるとみんな大喜びだ。

 僕も久々にカエルを捕まえてみたり、オタマジャクシをすくったりした。かつて子供のころには当たり前のようにしていたことが、今では全くしなくなり、見向きもしなくなっていた。(今年からはみかん畑を始めてから、再び生き物に興味を持っているけれど…。)。久々にカエルをつかんでみると、なんだか嬉しくもあり、ひゃ~という感覚もあり…、でも子供たちに捕まえてと頼まれたら、「イヤ」とは言えないし…。

 僕の住む地域もかつては周りは田んぼだらけというぐらい当たり前にあったのだが、ここ数十年の間にどんどん潰されて、今はほとんど住宅地と化している。子供が外で遊んでる姿もあまり見かけなくなっている。池には柵が張り目ぐされ、立ち入り禁止の看板が…。近所の神社にまで柵が張り巡らされているけど、あれは一体何を思ってしたのだろうか?今子供はどこで遊ぶのだと思ってしまうのだが、いまどきはゲームが主流なのだろうな。

 でも僕はやはり子供のころには、この自然の中で遊ぶ、生き物を捕まえてみるという体験は絶対に必要だと思う。子供のころの自然体験こそが、大人になってからの自然や地球に対する考え方がまともなものになるのだと思う。例え間違いを犯したとしても、そこから戻って来ることができるのだと思う。

 生き物の命、生命の神秘さ、それらを感じてこそ、生き物を大切にする心は生まれると思う。ペットとはまた違った自然の中の生き物を知ってこそ生まれてくるものがあると思う。

 でも今回思ったことがひとつある。それは大人こそ自然体験が必要であるということ。大人が今自然遊びを忘れてしまい、子供と一緒に遊べなくなっている。だから子供たちに自然を伝えることができなくなっている。

 そして大人は経済優先となり、自然を破壊することなにも感じなくなっている。例え感じたとしても、上からの命令としてそうせざるを得なくなってしまっている。原発再開推進派なんてまさにそのものだろう。大人こそ感覚を取り戻す必要があるのだ。

 だから言う。大人たちよ、パソコンの前に座る時間を減らして、自然の中に行け。そして森の声、田んぼの歌を聴け! 今なら海の音だって聞こえるだろう。けれどもバーベキューセットもビールも持っていくな。なるべくなら人があまりいないところで、独りその音を聴け!生命の音を聴け。カエルでもいい、カニでもいい、なんならフナムシだっていい。手で触れてみろ。そしてかつての頃を思い出せ。素直だったあのころを!!

2011年7月 4日 (月)

縄文文化

  縄文時代は1万年以上続いている。縄文時代といえばあの燃えあがるような土器、そして宇宙人のような姿をした土偶。なんだかいずれにしてもどこかに不思議さと神秘を持ち合わせた文化だ。しかしおそらくこんなに長い時代続いた時代は世界中探してもないのではないだろうか?

 もちろん縄文時代の草創期と終わりのころを比べると、かなり様子は違っているだろうが、それでも基本的な精神は変わらなかったのではないだろうか。
 その基本的精神とは何かと考えてみるに、僕は「すべてに感謝して生きる。」ことであったのではないかと思う。

 これだけ長い期間にはときに氷河期のような期間があったかもしれないが、この国は比較的穏やかな気候を持っていたことは変わらないだろう。縄文土器が関東から北の方から発掘されることから、今よりも温暖だったのかもしれない。その温暖な気候と自然条件からこの国ほど、実り豊かなところもなかったのではないだろうか。

 僕が想像するに縄文人は非常に穏やかな人柄だっと思う。もちろん狩猟もしただろうけれど、それほどギラギラとした狩りではなく、特別な日の神に捧げるものとして獣を獲ったのではないかと思う。

 そして普段は貝や木の実、果物、そして魚を食べ生きていたと思う。それで十分足りるだけの量がこの国にはあっただろう。冬には多少の苦労はあったかもしれないが、それ以外の季節は、それほど苦労しなくても、食べ物があっただろう。そして食べる時には必ず感謝をささげていたと思う。

 かつて南国の人々は、昼寝をして暮らしても生きていけた。果実は大量にあり、食べ物はすぐそばに満たされていた。けれども西洋人が文明を持ち込み、チョコレートを持ち込み、南国の人々に欲望を持たせ、そして必要以上の労働が必要となった・・・。

 縄文人はすべてが恵みであり、それに感謝をささげ、そしてそれ以上の多くのものを望まなかった…そのような人達ではなかっただろうか。それよりも自然界との共生を尊び、維持していくこと。そちらの方を重視していたのではないだろうか。

 一説によると、かつての日本には否定的な言葉はなかったともいわれる。これも縄文人が、すべてを恵みとして感謝の生活を送っていたからではないだろうか。

 ところが弥生時代に入り、大陸から人がどんどん流入するようになり、大陸の新しい考え方が、入ってきた。それが「所有」という概念だ。この土地を所有する。この人民を所有する。そしてこの食べ物を所有する。

 稲作をすること。これも自分たちが食べていくための所有から始まったのかもしれない。そしてわれらの土地を守るために、大きくしていくという概念。
 発達・発展を求める心も確かに必要だ。けれどもそれは一歩間違えれば、(現状への)不満となり、否定となってしまうこともある。より成長すること、より豊かさを求めることは決して悪いことではない。けれどもそれが行きすぎれば、破壊へとつながってしまうのではないだろうか。

 今ある生活に喜びを見つけること。感謝すること。それは現状肯定であり、精神的安定、満足でもある。そこから精神を見つめていくこと。そして精神的発達をしていくこと。今僕らに求められている精神とはそんなところにあるのではないだろうか。


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