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2011年6月

2011年6月29日 (水)

仲間

 先日ライフアートブログに山根麻以さんのチャリティコンサートに行ったことを書き、山根さんがうたう歌はは愛が主要なテーマで、地球を包み込むような感覚を受けたと書いたのだが、時間が経つにつれて「地球を愛する同士が見つかった。」という気持ちに変わってきた。

 山根さんはアーティストとしてメジャーでも活躍する人であり、方や僕は中規模都市に住みみかん作り、まちづくりをしながら、小さく自然やスピリテャルなどついて独り言のように語っている一自由人にすぎず、同列に並べるのは申し訳なくもあるが、それでも心は地球が大好きで、宇宙規模にも想像をふくらましているということで、同胞とさせてもらおう。

 僕は最近「地球を愛の星にかえたい」って本気で思っている。神社に行けば必ず「そうするぞ」と祈ってる。小さな面でいえば、もう少しよい社会を作りたいと思っているし、~だって年間3万人以上の人が自らの命を絶ち、100万人ものうつ病患者がおり、ニュースを見てみれば、争いごとばかり・・・。そんな社会ってやはりどう考えても異常だと思う。~少し方向性を変えさえすれば、もっと誰もが笑顔で暮らせられるようになると思うのだ。

 そういえば、山根さんのコンサート中にジョン・レノンのイマジンを思い出した。
Imagine all the people Living for today…(想像してごらん みんながただ今を生きているって...)
Imagine all the people Living life in peace(想像してごらん みんながただ平和に生きているって...)
Imagine all the people  Sharing all the world(想像してごらん みんなが世界を分かち合うんだって...)

 想像だけでなく、創造にしていきたいと思うのだ。意識(思考)が現実を創造する。このことがはっきりと言われ始めた。そして今世界中の人々が原発事故を通じて、世界の平和を願っている。だから今こそが一番のチャンスだと思う。
 柳瀬宏秀さんの著書でタイトルが「初詣の願いを祈りに」というのがあるが、今まさにみんなで願い祈るべき時だと思う。

 随分と話しが飛んでしまったが、山根さんのコンサートで仲間を見つけたという気分になり、非常にうれしく思っているのだ。なぜならこれまでいろいろな人に「僕らは地球のお世話係や。」という話をしても、「そや。そや。」とか「オカルトチック」などと言われてきたが、この人なら分かってくれるのではないかと思えたのだ。だから勝手に仲間とする。

 やっぱ仲間がいるといいね。これから少しずつ仲間を増やしていこう。オカルトチックといわれようが、変な宗教に入ってるんじゃなないの?とか言われようと構わない。数年先には多くの人がそう思うようになっていると思うし、10数年後にはそうなっていると思うから。


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2011年6月25日 (土)

幸福って

 先日ライフアートブログに「パワーを頂きました。」というタイトルで、田坂暁子さんのことを書かせていただいた。田坂さんは脳性麻痺のため、口と左手がわずかに動くだけの方なのですが、その手と口(と鼻)を使い、数週間、時には数カ月かけてひとつのちぎり絵の作品を作っていきます。

 彼女の作品の個展が開かれ、そのタイトルが「そこに在る嬉び(よろこび)」だったのですが、そこには彼女が見た瞬間の世界の作品が数多く展示されていました。

 その中で、幼稚園の子供がちぎり絵の作品としてあったのですが、その表情は何とも愛くるしく、「おそらく散歩にでも出た際に、幼稚園が終わり、バスから降りて、母親の所に行く時の姿じゃないでしょうかね。」と暁子さんのお姉さんが言っていたのですが、そこには子供の幸せと暁子さんが見つけた喜びの瞬間が感じられました。

 最近のことですが、個展のタイトルのように「そこにある嬉び」とは一体何なのだろうかとふと考えてしまう瞬間がありました。それは暁子さんは生まれたときから約60年間ベッドの上での生活をしており、しかも口と左手がわずかに動くだけ。そして時にわずかな時間を散歩等で病院から外に出ることができる。けれどもその短い時間の間に日常の中の喜びの瞬間を見つけれられることができる。(もちろんベッドの上からも喜びを見つけそれをちぎり絵として表現しています。)。考え方によってはん暁子さんにとっては病院の外は非日常的空間であり、そこに在るものすべてが別世界と言えるのかもしれませんが、それでも物事をとらえる感覚(意識)は私たちと同じか、それ以上でしょう。

 一方私たちは五体満足に生まれ、ほとんどの人が自由に動け、話すこともできます。けれどもその大半が不平不満を言っていることが多くあります。「それがいけない。あの人が悪い。あれが足りない。etc」。会話の中身ってそんなことでほとんど占められていることってないですか。そして欲求不満に陥り、病気にまでなってしまうという・・・。

 一方では不自由な生活の中に、小さな出来事の中からでも喜びを見つけることができ、片や一方では自由を得られながら、不平不満に終わってしまっている。これって一体何なのでしょう?「あるもの探し」か「ないもの探し」どちらを選択するか、そして物事をどうとらえるか・・・。

 そういう僕も以前は不平不満とないもの探しにあふれていました。いつも自分にないものを嘆き、自分の境遇に不平を言い、それを他人のせいあるいは社会のせいにしてきました。そして精神まで病んでいた時期もあります。
 でもいつのころか、それらを全部とはいかないまでも受け入れられるようになり、認めれらるようになってから、少しずつだけど、僕自身がそして生き方が楽んなってきました。

 足りないもの(こと)を認めて、努力していくこともひとつの方法です。また足りないものを(こと)を認めて、受け入れ、別の方法を考えたり、今あるもので代替えとするのも一つです。人それぞれだと思います。

 いずれにしろ日常の中から喜びの数が多ければ多いほど、その人の幸福度って高いものと思えます。そこってやはり「意識」これをどう向けるか、どう使うかってことだと思います。「意識が現実を創造する」のです。だったら如何に多くの喜びを意識の中に入れていくかだと思います。
 

2011年6月20日 (月)

楽しみましょう

 今日パソコンを触りながら仕事をしていると、ふと頭の中に飛び込んできた言葉がある。それは「人生は楽しむためにある。」ってこと。「そうだ!人生って楽しむためにあるのだ」って思うとなんだか気分が軽くなってきた。

 確かに人生はカルマを解消するという課題も設定されている。というよりも自分がそれを決めてこの世にやってきたこともある。だからそのカルマから一時的に逃げたとしても、またあとから同じような形で、あるいは以前よりももっと大きな形で同じカルマ(課題)が自分にやって来る。

 だからカルマを解消するためには、さまざまな苦労も重ねなければならないことも多い。人生とはそうして学びながら成長していく場でもある。
 けれども、カルマの解消のために、苦労することが人生かといえば、そうでもないように思う。それだけならば世界はもっと別の形で存在してもいいと思う。

 この地球は僕らを感動させるものであふれている。日本の国ひとつとっても、素晴らしい自然に恵まれ、日本人のもつ勤勉さや細やかさも人々に感動を与える。そして文化も素晴らしいものがたくさんある。たった数十の文字の中に宇宙を見ることもできれば、喜びあふれること、涙を流すこともある。それが世界に広がればなおさらのこと。

 宇宙は生成拡大している。人間の誕生するずっと前から存在し、拡大し続けている。その拡大の途中に人間は誕生し、そしてその拡大の真っただ中に僕らは存在している。それに乗っ取るならば僕ら人間も拡大していくはずだ。
 それは僕らはあらゆるものを発見していき、そして育っていくことだ。だから僕らは本当はどんどん豊かになっていくのだ。豊かになっているのだ。

 ところが残念なことに僕らはどこかで間違いを犯してしまった。おそらくそれは僕らが豊かさを勘違いしてしまったからだろう。物質の豊かさやお金の豊かさにそれらは本当は人間の生活の補助としてあるはずなものなのだけど、いつの間にかそれを僕らは主目的としてしまった。だから争いを生じるようになり、いがみ合い、エゴ、そして欲に溺れてしまったのだ。

 日本の国は「大和の国」。なぜこれで「ヤマト」と読むのかは分からないけれど、大和とは文字通り「大きな和」つまりは大調和を意味する。僕らはホントはこの地球、そして宇宙に大調和する能力があるのだ。そのことに気付いてみれば、僕らは改めて地球の豊かさ、宇宙の豊かさ、そして僕ら自身の豊かさに気付くことができる。

 今世界がどんどん変わろうとしている。物質界でも震災、人災被害によりこれまでの物事のあり方が、見直され、そして科学の世界でも量子力学の進化により、科学が根本的に変わろうとしている。スピリチャルにおいては次から次へと本が出版され、雨後のタケノコ状態だ。嘘が嘘とすぐに見破られるようになり、真実や本物が残っていく時代へと世界はどんどん動いている。だから僕らはホントはこれまでの価値観を手放し、新しい世界へ歩み始める必要があるのだ。

 まだ見ぬ世界は、どのようなものか見えないだけに不安だ。これまでの価値観がガラッと音を立てて崩れることも不安が付きまとう。新しい世界について行けるのかどうかも分からないから不安は募る一方かもしれない。どんな人だって新しいことを始める時には不安に駆られてしまう。

 けれども新しい世界は、僕らの思いが作り出す世界でもある。素晴らしき世界をイメージすれば、そうなるのだ。「思考が現実を創造するのだ」。だから心配する必要などホントはないのだ。ただその時代を楽しさでもって迎えればいい。

 僕らが地球を愛の星にすると決意さえすれば、そうなるのだ。ひとり、二人、3人とそう思う人が増えていけば、必ずそうなるのだ。100人集まれば、それはまた別の場所にも飛び火する。そうやって大きくなっていくのだ。だから楽しみましょう。この人生を楽しみましょう。自分自身を見直してみて、身の回りにある豊かさを享受しましょう。そしてその豊かさを実感し、あまりがあればそれを誰かにさしだせばいい。分かち合えばいい。そしたら案外意外と早く地球が愛あふれる星になるかもしれない。

 例えここに書いたことが嘘だとしても、争いをイメージするよりかはずっといいでしょ。

 そんな日が来ることを想像してみるとこれまた楽しいものです。


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2011年6月18日 (土)

地球を愛の星にかえよう大作戦

 そろそろ人々が原発はもういらないと気付き始めたこの頃だけど、この夏何事もなく乗り切れたら、更にこの流れは加速していくと思う。僕としては世界で唯一の被爆国日本が1日でも早く脱原発宣言をしてくれる日を待っている。僕だけでなく世界中の人々もその日を待っていると思う。更に言えば宇宙でもその日を待っていると思う。

 僕が思うに、若い人ほどその感覚は強くて、固執しているのは一応世間では権力者と呼ばれている人達で、失うものを恐れているだけだと思う。今や権力は無様な姿でしかなく、お金の概念も崩壊しようとしている状況で、いつまでも固執する必要はないと思うのだけど・・・。早く新しい流れにみんなで乗って、新しい社会づくりにみんなで携わった法がよいと思うのだけど・・・。権力って例え持ったとしても本当は他人のために使うものだと思うのだけど・・・。みんなが新しい社会の方向に向かえば、日本はすぐによりよい国になると思うのだけど、まだしばらく時間がかかりそうで・・・。

 ついでに言うなら、もう戦争などの争いもいらないと思う。今アフリカ、中近東で、激しい争いが起きているけれど、これも結局はどこかの国がしかけたことで、結局は平和のためではない・・・(一応人権やら民主主義のためなどと言ってはいますが・・・。)。争いや戦争が平和にはつながらないことをこの10年、20年で僕らは嫌というほど見せられ、そして誰もがそう思ったはず。
 だいたい10年に1度戦争がなければ、兵器産業が成り立たない。だから戦争を望むということ自体が、根本からおかしいのであって、平和を目指すなら兵器なんていらないはずで、ここにもお金があれば何でもできる(?)資本主義のゆがんだ面があるのだと思う。力の平和は見せかけにすぎない。

 それよりも現在世界中が「pray for Japan」ということで祈ってくれており、そして世界中から義援金やら援助が送られているこの機会に、争いではなく愛でもって、平和を進めていった方が全然いいのではないかと思う。
 義援金はもしかすると、多くの人が財布とにらめっこして、被災者のためにということで、無理してでも出したかもしれない。僕もそうした。でも僕が今思うことは、地球のために、あるいは身近な事のために、僕たちが持っている余力の部分を差し出さないかと思うのです。余力の部分では、無理することもなく、我慢する必要もない。そしてそこに残るのは「ちょっと良いことをしたかな。」という気持ちであり、それを受け取った人もそれほど重たくもならない。でもありがたいと思ってもらえる。

 そういうことで、お互いが分け合うことができれば、素晴らしいことだと思う。それは人へだけとは限らない。散歩の途中に落ちていた空き缶1個拾って、空き缶入れに入れることだってかまわない。あるいは少しばかし高度になれば、自分が持っている(仕事の)能力を少しばかし提供するなんてことも素晴らしいこと。そうやってみんなが少しばかしでも余力の部分を差し出していくことができれば、社会ってすごく良くなるものだと思う。
 
 要するに「おすそ分け」感覚で、差し出せばいいのだ。そこには決して無理する必要はない。よく大学などで、先輩からおごってもらった分は、(自分が先輩となった時に)後輩におごれというけれど、このおすそわけも、もらった人はいつか何かで自分に余力ができたときに、誰かにもしくは何かににその余力を差し出せばいい。
 その連続が、社会を暖かなものに変えていくのだと思う。そしてそれが世界に広がれば、地球はやがて愛の星に変わると思うのだ。

 かつて僕らは勉強して偉くなって、いい会社に入って・・・などと言われてきたけれど、今や偉くなって大きな会社に入ったとしても、それで安泰ってわけでもない。そしてそれが正しい生き方とも思わなくなってきた。それよりも自分たちの好きな事をして、楽しく生きられること、そしてあまりの部分誰かのため、何かのために分け合っていく、そんな生き方の方がよいように思う。
 けれども決して偉くなることが悪いことと言っているわけではない。偉くなれば、なっただけその余力をそしてその能力をみんなと分かち合えばいいのだ。

 かつて江戸時代には各地域に寺子屋があり、庶民はそこで学んでいった。そこには物事を知っている人は、それを庶民に提供する心があり、そして庶民は、そのお礼として出来た農作物の一部などを渡したりしていた。そこにはそれぞれにおすそ分け感覚と共生の心があったのではないかと思う。
 その感覚を取り戻し、進化させればいいと思う。そんなに難しいことではない。ただ少しばかりの余力を差し出すだけなのだから。そしたら逆に世界も広がることだってあり、余力がその余力の価値以上の物を運んでくることだってある。得した、損したの世界ではなく、分かち合う世界。そんな世界が広がればいい。

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2011年6月 7日 (火)

おすそわけ

 もう5年以上前のこととなるが、ノーベル平和賞を受賞したケニア出身のワンガリ・マータイさんが来日され日本語の「もったいない」という言葉に感銘を受け「MOTTAINAI」という言葉は世界に広まった。
 この「もったいない」という言葉は英語で言うならば、環境3R~Reduce(ゴミ削減)、Reuse(再利用)、Recycle(再資源化)~の意味にプラスして(地球)環境へのRespect(尊敬の念)がこめられているとのこと。
 僕らは普段こともなげに「もったいないなあ。」とか使われている言葉だけれど、世界では輝きを持つ言葉のようだ。

 この「もったいない」という言葉も素晴らしい言葉だと思うのだが、僕は最近「おすそわけ」という言葉がすごくいい言葉だと思っている。
 「頂き物なのだけれど、これおすそわけ…。」とか、よく食べ物などをご近所におすそ分けするということで、かつては使っていたと思う。
 今でも使ってはいるのだろうけれど、昔のように物の貸し借りがなくなった現在では、かなり減って来ているだろうし、釣りにでも行って大量に魚が釣れたから、その一部を配る程度となっているのではないだろうか?

 ところで僕がこれから言う「おすそわけ」とはもう少し広い意味で使おうと思う。それは物だけではなく自分の持っている能力、喜びやうれしさの気持ちなどの自分の持っているものの一部あるいは余力を第三者に提供することをいう。

 例えば最近ときどき耳にするようになり始めた「プロボノ」~これは自分の職業能力をボランティアとして提供することで、よく知られているのが、弁護士さんが一部の時間を割いて、無償の法律相談に乗ること。他にも大工さんが地元の公民館の(簡単な)修理をただで請け負うこと、看護師さんが近所のおばあちゃんの血圧を測ってあげるなど、自分の持っている能力を提供し社会貢献することだ。もちろんボランティア活動もそうなのだが、ここで言うのは自分(の何か)を犠牲にして行うものではない。

 そして喜びやうれしさのおすそ分けとは、自分が今幸せと感じているならば、その幸せの一部を第三者にも分かち合おうとする行為であり、それはプロボノも含まれるし、一般的なボランティアなどもそうだ。あるいは誰かに親切にするということ、悲しんでいる人を慰めてあげること、そのようなことで構わない。いわゆる布施に当たるものと言えるかもしれない。

 よく人は「お布施」とは僧侶の人にお金を渡す行為と思っているが、実際はそれは財施という布施の一種でしかない。布施にはほかに法施(仏の法を説くこと。)、無畏施(災難にあってる者の恐怖心を取り除くこと。)などがあるのだが、もっと簡単なものに無財の七施というものがある。(もちろん財施だってお金をたくさん持っている人が、苦を感じない程度の額を差し出すことはおすそわけといえるだろう。)
 無財の七施とは眼施(慈しみに満ちた眼差しですべてに接すること)、和顔施(いつもなごやかで穏やかな表情で人に接すること)、愛語施(優しい言葉をかけること)、身施(自分の身体で奉仕すること)、心施(心配り)、牀座施((席を)譲ること)、房舎施(雨露をしのぐ寝床の提供~転じて思いやりの心)ということだ。

 とにかくどれも無理しなくてもかまわないものであり、自分の中にある余力(それを提供しても自分の気分や力等を損ねないもの)の部分を相手に提供すること、そして自分の相手も気持ち良くなろうとすること。そんな「おすそわけ」が広がれば、社会は少しずつ良くなっていくと思う。



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2011年6月 1日 (水)

原発はもういらない

 僕の友達に福島の人がいます。その人は以前は関東に住んでいたのですが、数年前に(もともと実家が福島だったので)移住(Uターン)しました。けれどもそこは避難地区となっているため住めなくなり、現在は実家の方に移っています(今のところ実家の方は避難地区ではありません。)。
 その人に先日メールをしました。するとどんどん悪いニュース(隠されていた事実)が出てきて、まだ子供も小さいので福島に住むのを諦めて、移住しようかと考えているそうです。 けれどもこれまでお世話になった福島から逃げる気持ち、旦那さんの仕事のこと、家のローンなど様々な葛藤を抱えて、結論が出ない日々を過ごしているとのことでした。

 また別の友達との話で、やはり避難地区に住んでいた人で、事故後関西に避難しているのですが、仕事の関係で福島に戻ってきて欲しいといわれているのですが、やはり子供が小さいこともあり、悩んでいるそうです。
 みんな故郷への愛着があり、思いは強いです。けれども現状や次から次へと出てくる隠ぺいされていた事実を知ると、そして子供たちのことを考えると、結論が出ずに悩んでいます。

 震災から2ヶ月半以上経ち、避難地区から(福島)県内に避難している人、県外に避難している人それぞれが今も苦しんでいます。それは物資でもお金でも解決できない問題です。
 地震だけならば、数年かけての復興の道が見えていたでしょう。けれども放射能という目にも見えないそして先の見えない状況では、まだまだ真っ暗な状況です。

 もちろん現在様々な放射能の除去方法が考えられています。ひまわりを植える(麻もいいらしい・・・けれども今の日本の法律では植えるのは無理・・・。)。微生物でかなり除去できるらしい・・・。など自然の力、日本人の技術力で光明が見えてきそうな気もしますが、いかんせん今のところまだ不確かな状況です。

 悩んでいる彼らに同情することはできます。そして痛みを共有しようとすることもできます。けれどもどんなにそうしても僕たちには彼らの今の悩みを解決することはできません。

 今回の事件でドイツは脱原発を発表しました。なぜ日本は世界の唯一の被爆国なのに浜松を停止するだけなのでしょうか?かつての原爆での苦しみ、そして今回の福島での苦しみ・・・次は?日本中にある原発を考えると、どこも恐ろしい。

 先日田中優さんの講演会で今回は福島だったから、まだこのくらいで被害が収まっている。もしこれがほかの所だったら、偏西風の影響で日本のもっと多くの地帯が汚染されていたと・・・。

 一体何人の人が苦しめば僕たちは決断できるのでしょうか?少しばかしの不便を決断することができれば、それでおびえなくてすみます。

1970年代は現在の5分の1程度の電力量だったそうです。僕は70年代はまだ小さな子供だったので、よく覚えてはいませんが、それでもテレビもあり、冷蔵庫も、洗濯機も、車もありました。電子レンジもあったような気もします。クーラーはもう少ししてから取り付けられたような気もしますが、現在の省エネ家電としてみればそんな過激な不便ではないような気もします。
 今やほとんど聞かれなくなりましたが二酸化炭素25%削減よりも、原発廃止の方が、今なら企業も人もその持つ能力を発揮できるのではないかとも思います。

 暗く重い話題となってしまいましたが、明るい未来のためにも今決断が必要だと思いませんか?

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